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『責任という虚構』(小坂井敏晶 東京大学出版会 2008)

著者:小坂井 敏晶[こざかい・としあき](1956-) 社会心理学
装丁:鈴木 堯+佐々木 由美
装画:松本 孝司
件名:責任
件名:共同体
件名:社会心理学
NDLC:H91
NDC:151.2 倫理学.道徳 >> 倫理各論 >> 当為.意志の自由.行為.形式主義


責任という虚構 - 東京大学出版会


※文庫版が2020年1月に刊行された。「補考 近代の原罪――主体と普遍」・「文庫版あとがき」、法社会学者・尾崎一郎による「解説」が追加されている。
筑摩書房 増補 責任という虚構 / 小坂井 敏晶 著



 ※節番号は私が付け加えた。


【目次】
はじめに [i-vi]
  問題設定
  本書の構成
  註
目次 [vii-x]


序章 主体という物語 001
0.1 ハンナ・アーレントによるホロコースト分析 
0.2 アイヒマン実験 
0.3 服従の原因 
0.4 問題の所在 
0.5 意識と行動の乖離 
0.6 原因と理由 
0.7 私と呼ばれる同一化現象 
0.8 意志を生むからくり 
0.9 集団が支える自己 
註 029


第1章 ホロコースト再考 037
1.1 普通の人間 
1.2 責任転嫁の仕組み 
1.3 心理的距離 
1.4 正当化の心理 
1.5 反ユダヤ主義の機能 
1.6 ホロコーストの近代性 
1.7 医師の役割 
1.8 ダニエル・ゴールドハーゲンの反論 
1.9 袋小路 
註 066


第2章 死刑と責任転嫁 075
2.1 日本の死刑制度 
2.2 死刑執行の抽象化 
2.3 死刑を支える分業体制 
註 094


第3章 冤罪の必然性 097
3.1 非合法な捜査 
3.2 悪を憎む心
3.3 司法取引の罠 
3.4 虚偽自白の心理 
3.5 目撃証言神話 
3.6 分業と解釈 
3.7 裁判官という解釈装置 
3.8 自動運動する秩序維持機構 
註 132


第4章 責任という虚構 139
4.1 矛盾をどう解くか 
4.2 因果関係再考 
4.3 自由の意味 
4.4 刑罰の根拠 
4.5 正しさの源泉
註 168


第5章 責任の正体 173
5.1 集団責任の認知構造 
5.2 集団的道徳責任 
5.3 同一化と道徳的汚染 
5.4 普遍的価値の源泉 
5.5 責任概念の歴史変遷 
5.6 責任の正体 
5.7 精神鑑定の役割 
5.8 犯罪者の成立 
5.9 死刑の真相 
註 204


第6章 社会秩序と〈外部〉 211
6.1 近代政治哲学の〈外部〉 
6.2 貨幣と贈与の媒介項 
6.3 部分と全体の弁証法 
6.4 〈外部〉の成立過程 
6.5 信頼の構造 
6.6 近代の陥穽 
6.7 人はパンのみにて生きるにあらず 
6.8 正義という地獄 
註 247


結論に代えて 255
註 260


あとがき(二〇〇八年春パリにて 小坂井敏晶) [261-263]
引用文献 [5-23]
索引 [1-4]





【抜き書き】
・「はじめに」(本書、ii-iv頁)から、三か所抜き書きした。

  問題設定
  多方、人間が主体的存在であり、自己の行為に対して責任を負うという考えは近代市民社会の根本を支える〔……〕。人間が自由な存在であり、自らの行為を主体的に選び取るという人間像がそこにある。
  他方、人間が自律的な存在ではなく、常に他者や社会環境から影響を受けている事実を社会科学は実証する。行動が社会環境に左右されるなら、責任を負う根拠はどこにあるのか。
  各人の性格が行動の一因をなす事実を持ち出しても、この問題は解決できない。確かに人間の行動は外界の要因だけで決定されない。しかし人格という我々の内的要因も元を質せば、親から受けた遺伝形質に家庭教育や学校などの社会影響が作用して形成される〔……〕。したがって私が取る行動の原因分析を続けていけば、最終的に行動の原因や根拠を私の内部に定立できなくなる。
  さらには大脳生理学や認知心理学が明らかにするように、行為は意志や意識が引き起こすのではない。意志決定があってから行為が遂行されるという常識は誤りであり、意志や意識は他の無意識な認知過程によって生成される。
  人間行動を理解する上で、文化や教育など社会環境を重視するアプローチと、個人の遺伝要素を重視するアプローチが対立してきた。しかし遺伝学的決定論にせよ、社会環境決定論にせよ、人間行動を客観的要因に還元する以上、そこから人間の自由意志は導けない。両者を折衷しても事情は変わらない。自律的人間像に疑問を投げかける科学の因果論的アプローチと、自由意志によって定立される責任概念の間に横たわる矛盾をどう解くか。
  二つの事実や理論の間に矛盾が見つかる場合、そのうちの一方を採用して他方を否定するという解決に我々は走りやすい。しかしどちらの事実、理論も維持しながら、考え方の出発点自体の再考を通して矛盾を止揚するよう努力する方がより根本的な解決をもたらすことが多い。自由や責任が実証科学の成果と矛盾して見えるのは、発想の根本部分で何か勘違いをしているからではないか。自由や責任を因果関係の枠組みで我々は理解するが、自由や責任は因果関係とは別の論理によるのかもしれない。

  本書は規範的考察ではない。責任をどう取るべきかという議論はしない。実際に人間はどう行動するのか、責任と呼ばれる社会現象は何を意味するのか、これが本書の課題である。例えば responsibility = 応答可能性に依拠する主張がある[2]。しかし実際に人間は応答しているのか。またもし応答するとしたら、それは何故なのか。

 [2] 大庭健自分であるとはどんなことか――完・自己組織システムの倫理学』(勁草書房、一九九七年)、一七七頁、同『他者とは誰のことか』(勁草書房、一九八九年)、三〇〇頁、同『「責任」ってなに?』(講談社現代新書、二〇〇五年)、一五‐三八頁、斉藤慶典『レヴィナス 無起源からの思考』(講談社選書メチエ、二〇〇五年)、徐京植高橋哲哉断絶の世紀 証言の時代――戦争の記憶をめぐる対話』(岩波書店、二〇〇〇年)九〇‐一四八頁、高橋哲哉戦後責任論』(講談社、一九九九年)、二三‐五四頁、瀧川裕英責任の意味と制度』(勁草書房、二〇〇三年)、一二七-一六四頁。

  以上の問題意識に導かれて、責任は社会的に生みだされる虚構だという主張を展開する。道徳や真理に根拠はない。しかしそれにもかかわらず、揺るぎない根拠が存在するように感知されなければ人間生活は営めない。虚構として根拠が成立すると同時に、その恣意性・虚構性が隠蔽される必要がある。人間が作り出す規則にすぎないのに、法や道徳が普遍的価値を体現するのは何故なのか。
  虚構と言うと、嘘・偽り・空言のように事実と相違しているという消極的な意味で理解される。しかし虚構とは事実の否定ではない。個人心理から複雑な社会現象にいたるまで虚構と現実は密接な関わりを持つ。我々を取り巻く現実が虚構の助けなしにはそもそも成立しないことが、本書の議論が進むにつれて納得されるだろう。




□序章から。 18頁。

  日常的な判断・行為はたいてい無意識に生ずる。知らず知らずのうちに意見を変えたり、新たに選んだ意見なのにあたかも初めからそうだったかのように思い込む場合もある。過去を捏造するのは人の常だ。そもそも心理過程は意識に上らない。行動や判断を実際に律する原因と、判断や行動に対して本人が想起する理由との間には大きな溝がある。というよりも無関係な場合が多い。
 自らの行動あるいは身体や精神の状態に関しては当然ながら他者よりも本人の方がよく知っている。頭痛を感ずる時、それは幻覚にすぎないと医者や周りの者がいくら説明しても意味がない。身体や心の痛みは本人だけに属する現象だ他人には痛みを想像し心配はできても痛みを直接感ずることはできない。医者にわかるのは、どういう異常症状が生理的次元で発生しているかだけだ。その異常が原因でどのような苦痛を感じるかという経験則に照らし合わせて患者の痛みを想像するにすぎない。自分の精神および身体の状態に関しては他人よりも本人の方が豊富かつ正確な情報を持つ。しかし心理状態がどのようにして生じるのか、何を原因として喜怒哀楽を覚えるのか、どのような過程をを経て判断・意見を採用するのかは本人自身にもわからない。


□ 19頁。

  自分の感情・意見・行動を理解したり説明する際、我々は実際に生ずる心理過程の記憶に頼っているのではない。ではどのようにして人間は自分の心の動きを理解するのか。我々は常識と呼ばれる知識を持ち、社会・文化に流布する世界観を分かち合っている。ひとは一般にどのような原因で行為をするのかという因果律もこの知識に含まれる。不意に窓を開けたくなったり、商品の単なる位置が好悪判断を規定するという説明は合理的な感じがしない。窓を開けるのは部屋の空気を入れ替えたり、そこから外を眺めるためであり、空腹を覚えたので窓を開けたなどという説明は非常識でしかない。すなわち自らの行動を誘発した本当の原因は別にあっても、それが常識になじまなければ、他のもっともらしい「理由」が常識の中から選ばれて援用される。このように持ち出される「理由」は広義の文化的産物だ。つまり行為や判断の説明は、所属社会に流布する世界観の投影にほかならない。
  行為・判断が形成される過程は本人にも知ることができない。自らの行為,判断であっても、その原因はあたかも他人のなす行為・判断であるかのごとくに推測する他はない。「理由」がもっともらしく感じられるのは常識的見方に依拠するからだ。自分自身で意志決定を行い、その結果として行為を選び取ると我々は信じる。しかし人間は理性的動物というよりも、合理化する動物だという方が実状に合っている。