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『日常・共同体・アイロニー ――自己決定の本質と限界』(宮台真司,仲正昌樹 双風舎 2004)

著者:仲正 昌樹[なかまさ・まさき] (1963-) 政治思想史、社会思想史、社会哲学。
著者:宮台 真司[みやだい・しんじ] (1959-) 社会学、評論。
NDC:309.04 社会思想


【目次】
はじめに(二〇〇四年九月 金沢市平和町の公務員宿舎にて 仲正昌樹) [003-012]
目次 [013-017]


第一章 現代思想と自己決定 019
一 エクリチュール現代思想 020
  現代思想と主体性
  市民社会の外部に生き生きとしたものを求める
  エクリチュールパラドックス
  じっと待つのか、破壊するのか
二 現代思想と自己決定 033
  内部と外部
  万物学とメタ万物学
  主体とは何か
  主体性の限界か、主体性への無知か
  現代思想のアイロニカルな構造
  虚数と実数が錯綜する現代社
  自己決定が共同体と相反するとはかぎらない
  議論の前提としての教養
三 自己決定と共同体 056
  がらくたの集まりとしての現代思想
  目くそ鼻くそと五十歩百歩
  学生を懲戒する大学という組織
  ふたつの見方を併存させる
  公共善に関するコミュニケーションは可能か


第二章 共同体と自己決定 083
一 リベラリズムと共同体 084
  共同体主義の矛盾
  主義と主義者
  近代主義の一種としての伝統主義
  生活実感を評価する物差し
二 共同体とロマン主義 104
  真空状態で発言することはできない
  ロマン主義アイロニー
  全体性に言及できる思考とは
  アイロニカルな行動への自覚が必要
  すっきりすれば、いいってものではない
三 ロマン主義アイロニー 129
  すべての事柄は、突き詰めると墓穴を掘る
  牢獄を出ると、そこはまた牢獄
  三島由紀夫のような振る舞いは必要なのか
  「あえて」することの意味


第三章 リベラル・アイロニストの役割 147
一 自己決定と自己責任  148
  イラク人質事件とは何であったのか
  本人不在でエスカレートした理由
  誰が自己決定すべきなのか
  右も左も「弱い犬ほど吠えたがる」
  自己責任の本義
二 自己責任と正義 170
  互換可能性への疑問
  正義に対する責任
  リベラル・アイロニストの役割
  くどい語り口の意味
  説得と取引
三 正義と応答 193
  ぶら下がり大国・日本
  恒久的な正義はあり得ない
  過去の帰結への責任
  思考の源泉としてのイエス
  超越思考は有害か?


第四章 日常・共同体・アイロニー 223
一 日常と宗教 224
  日常性とは何か
  『終わりなき日常を生きろ』再考
  現代思想統一協会体験の接点
  すこしだけ超越している状況が危ない
二 宗教と本来性 249
  パウロによる布教戦略の有効性
  近代社会と身体性
  「真の共同体」という幻想
  資本主義社会における銭湯としての疎外論
三 本来性とアイロニー 267
  「そもそも」の誤謬
  日常性の枠を超えるためのアイロニー


仲正昌樹氏は、佇まいにおいて、私たちを震撼させる――あとがきにかえて(二〇〇四年一一月二四日 宮台真司) [278-286]
アンケート by 編集部 [287]





【抜き書き】

仲正  脱構築は正義だという場合の正義は、いまはこのように分配しており、人びとはこのような権利をもっているが時代や地域などといった見方を変えると、その権利がとんでもない不正になっている可能性がある、ということを思考し、“もうひとつの正義”を探っていくことを意味します。だから正義をおこなうときには、どういう不正に対する正義なのか、どこの「権利」を制限して、どこに新たな「配分」することになるのか考えておく必要がある。新たな「権利」の資源をどこに求めるのか? 自分は弱者のために戦っているのだからといっても、その弱者以外の、“誰か”の権利を多少なりとも制限することになるのだから、「正義の闘い」だからといって、まったく無条件・無前提に正当化することはできません。 

(pp. 204-205)


仲正  アドルノは様ざまなところで、自分たちが本来性の隠語によって、いかにハイデガーに騙されたのか、ということをしつこく書きつづっています。とはいえ、アドルノハイデガーを全面否定はしていません。それは本来性を全否定すると、さらなる本来性を探ることになり、袋小路に入り込んでしまうからです。本来性を批判しているお前も、結局は本来性を語っているではないか、ということになる。〔……〕スターリン時代のソ連にしろポル・ポト時代のカンボジアにしろ、マルクス主義が変な方向で暴力性を発揮してしまうのは、既成の共同体をうそっぱちだと決めつけて暴力的に破壊しようとしながら、じつは自分たちも真の共同体を求めていることに原因があると思います。〔……〕だからアドルノのいうように、論敵を否定するときには「限定的な否定」である必要があります。つまり、相手の全てを即座に否定するのではなく、相手のどこがおかしいのか具体的に指摘し、自分と相手の違いと共に共通性を自覚することがたいせつなのです。そうでないと、相手と同じパターンの過ちを繰り返し、互いにエスカレートさせていく危険が高くなる。

 (pp. 268-271)