原題:Habits of the Heart: Individualism and Commitment in American Life (University of California Press, 1985, updated ed., 1996).
著者:Robert Neelly Bellah(1927-2013) 宗教社会学。
著者:Richard P. Madsen 社会学
著者:William M. Sullivan 哲学
著者:Ann Swidler 社会学
著者:Steven M. Tipton 宗教社会学
訳者:島薗 進[しまぞの すすむ] (1948-) 宗教学、近代日本宗教史。
訳者:中村 圭志[なかむら・けいし] (1958-) 宗教学。
NDC:361.42 地方性.国民性.民族性
【目次】
目次 [i-iii]
日本語版への序文(一九九〇年八月 ロバート・N・ベラー) [v-vii]
はじめに [viii-xv]
序論 002
1 幸福の追求 003
ブライアン・パーマー 003
ジョー・ゴーマン 009
マーガレット・オールドハム 015
ウェイン・バウアー 020
共通の伝統のなかの多様な声 023
成功 026
自由 027
正義 030
2 文化と人物像(キャラクター)――歴史との対話 032
聖書的系譜と共和主義的系譜 033
功利的個人主義と表現的個人主義 037
アメリカ文化の初期の解釈 041
自立的市民 045
企業家(entrepreneur) 047
経営管理者〔マネジャー〕 052
セラピスト 054
近年の解釈 056
今日のアメリカ文化 058
第一部 個人的生活 062
3 自己を見出す 063
独立独行 063
家を出る 065
教会を出る 072
仕事 076
ライフスタイルの飛び地 083
自己の基盤 088
人生〔ライフコース〕の意味 097
4 愛と結婚 102
女性の領域 102
愛と自己 108
自由と義務 112
コミュニケーション 117
イデオロギーの混乱 123
愛と個人主義 131
結婚とモーレス 134
5 手を差し伸べる 137
伝統的な人間関係〔リレーションシップス〕137
アメリカ人の神経過敏 143
人間関係の範型としてのセラピー 147
セラピーと仕事 149
セラピー的契約主義 155
セラピーと政治 159
セラピーの求める共同体像 163
伝統的形態の存続 169
6 個人主義 174
個人主義の両義性 174
神話的個人主義 177
両面感情〔アンビヴァレンス〕の社会的諸源泉 180
個人主義の限界 184
記憶の共同体 186
共同体、コミットメント、個人 189
私と公 199
第二部 公共的生活 202
7 社会への参加(Getting Involved) 203
自由・独立の町〔タウンシップ〕 204
ダウン・ファーザー 206
小さな町から大都会へ 214
都市の地域主義 217
憂慮する市民 219
都市住民のコスモポリタニズム 224
市民精神をもった知的専門職 226
職業的活動家 236
ボランティアから市民へ 232
8 市民精神 237
成功と喜び 237
政治の三タイプ 241
政治と個人主義の文化 245
見えない複雑さ 251
市民的義務と専門的〔プロフェッショナル〕合理性 252
市民精神の諸形態 257
市民の運動―― 一つの事例 259
9 宗教 266
アメリカ史における宗教 266
宗教的多元性 273
地域の会衆 275
宗教的個人主義 282
内なる宗教と外なる宗教 285
宗教的中心(The Religious Center) 288
チャーチ・セクト・神秘主義 294
宗教と現世 300
10 国民社会 303
公共の秩序をめぐる諸概念 303
公共善――残されたアメリカの課題 306
公共善の六つのヴィジョン 310
エスタブリッシュメント 対 ポピュリズム 312
新資本主義 対 福祉型リベラリズム 317
行政管理型社会 対 経済民主主義 322
未解決の緊張 326
結論
11 アメリカ文化の変容のために 331
時代の転換? 331
分離の文化(The Culture of Separation) 333
まとまりをもつ文化(The Culture of Coherence) 338
社会的エコロジー 340
社会的世界の再構成 343
時のしるし(Signs of the Times) 349
豊かさの貧困 353
付論 公共哲学としての社会科学 357
原注・参照文献 邦訳一覧 [371-390]
用語解説 [391-394]
訳者あとがき(一九九一年一月 島薗進) [395-401]
索引 [i-xix]
【メモランダム】
・1993年の書評(by小林朝子)。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jdphe/27/0/27_KJ00005761794/_article/-char/ja/
【抜き書き】
・ルビは亀甲括弧で括った〔 〕。
・引用者による省略は、〔……〕で示した。
■本書冒頭の「はじめに」が、本書の概要を示している。何箇所か抜き出す。
□問題意識・目的。
はじめに
私たちはいかに生きるべきか? いかに生きるべきかということを私たちはいかに考えているか? 私たちアメリカ人とはいったい誰なのか? 私たちはどんな性格〔キャラクター〕なのか? このような質問を、私たちは全国各地の同胞市民に聞いてみた。私たちは彼らを対話へと引き込み、彼らの人生について、彼らにとってもっとも大事な事柄について話しあった。私たちはまた、彼らの家族や地域共同体について、彼らの疑いや不安、そして大きな〔ラージャー〕社会(国民社会)に対する彼らの希望や恐れについて話しあった。彼らはみな、何が正しい生き方か、何を子どもに教えるべきか、何が私たちの公共的な責任、私的な責任であるべきかといった問題をめぐって、熱心に語った。しかし同時にまた、彼らはこうしたテーマに多少面食らっている様子でもあった。私たちと話した人々にとってこれらの問題は重要な関心事ではある。しかし道徳的な問いかけはしばしば私的な懸念の領域へと追いやられており、こうした問題を公に問うたりするのは厄介なこと、きまりの悪いことであるかのようだった。本書がこうした内々の、しばしば親しい間柄だけで語られている道徳的議論を、公共の言説にまで変容させる一助となれば、と私たちは考えている。本書のなかでアメリカ人は、筆者らとともに、また間接的に互いどうしで、私たちのすべてに深い関わりのある問題について語りあう。〔……〕多くの人は、はたして私たちアメリカ人は自分たちの中心的な望みや恐れについて、互いに語りあうに足るだけのものを共有しているのだろうかと誘っている。私たちにはそうした共有のものがあるということを、これらの人々に納得してもらうことが本書の目的の一つである。
私たちが投げかけた、そして人々がくり返し私たちに投げかけた根本的な問いは、どうしたら道徳的に筋の通った(coherent)人生を保持あるいは創造することが可能か、というものである。しかし、私たちがどのような人生を送りたいと思っているかは、私たちがどのような国民であるかに――すなわち私たちの国民性〔キャラクター〕のいかんに――かかっている。それゆえ、私たちの問いは、性格(国民性)と社会との関係をめぐる古くからの議論のなかに位置づけることができる。『国家』の第八巻で、プラトンは、ある国民の道徳的性格〔モラル・キャラクター〕とその政治共同体の性質――国民が自らを組織し、統治する仕方――との関係の理論を手短かに論じている。アメリカ共和国の建国の父祖たちが独立革命にさいして取り上げたのは、この理論のずっと後の時代の形態であった。私たちと話した人々にとってそうであるように、建国の父祖たちにとっても、自由がおそらくもっとも重要な価値であった。それゆえ彼らは、とりわけ自由な共和国の創造に必要な国民性の質を問うことに意を注いだのである。
□トクヴィルとの相違。
一八三〇年代にフランスの社会哲学者アレクシス・ド・トクヴィルは、アメリカ人の国民性とアメリカ社会との関係についての本を著わしたが、これは今日までに書かれたもののなかでもっとも包括的で徹底的な分析となっている。彼の著書『アメリカの民主主義』は、鋭い観察とアメリカ人との広範な対話にもとづいて書かれたものだが、その中でトクヴィルは、アメリカ人のモーレス(習律)――ときに彼はこれを「心の習慣」とよんでいる[注1]――について論じ、それがアメリカ人の国民性の形成にどう関わっているかを描出した。彼は、アメリカ人の家族生活と宗教的伝統と地域の政治への参加を取り出して、それらが大きな〔ワイダー〕政治共同体への関わりを保つことのできる人間、究極的には自由な諸制度の維持に貢献することのできる人間の創造に資していると論じた。彼はまた、私たちの国民性のいくつかの側面――彼はそれを「個人主義」の名で呼んだ最初の一人である――が、ゆくゆくアメリカ人を互いに孤立させることになり、それによって自由の条件を掘り崩すことになるかもしれないとも警告した。
本書の中心的問題は、トクヴィルが賛嘆と不安とを混ぜ合わせながら描写したアメリカの個人主義に関するものである。私たちの歴史を強固に貫いているものは――トクヴィルはそれを平等性と見ていたが――私たちには個人主義であるように思われる。私たちは、この個人主義が癌的な増殖を遂げているのではないかという懸念をもっている。個人主義は、トクヴィルが社会に潜在する破壊的な要素を中和するものと考えた(家族生活、宗教的伝統、地域的政治参加という)社会的外皮を破壊し、そうして自由そのものの存続をも脅やかしつつあるのではないかと憂慮している。アメリカ個人主義は、人々にどのようなものとして受け取られ、感じられているのか。またアメリカ個人主義の立場からは、世界はどのようなものとして現われているのか、私たちはこれらの点を知りたいと思う。
私たちはまた、個人性を破壊することなしに個人主義の破壊的な側面を制限し抑制してくれるような、そしてアメリカ人の生き方のもう一つのモデルを提供してくれるようなもろもろの文化的伝統と実践にも関心を抱いている。トクヴィルの時代以降、こういった伝統・実践はどのような道を歩んでいったのか。またそれらを再生することはどうしたら可能なのか。私たちはこれらの点も知りたいと思う。
私たちは人々が語る言葉に焦点を当てている。しかし、人々は自分たちがどのように生きているのか、言葉で表現できないこともしばしばあるということを、私たちはよく承知しているつもりである。私たちの生き方と、私たちの文化が許す私たちの語り方との間には緊張関係があるという、まさにこの点において、私たちは、アメリカ社会の直面しているジレンマを見通す最上の洞察を得ることができた。そしてまた、こうしたジレンマについての討論を可能にしてくれるような共通言語を取り返す(reppropriate)という希望を見出すこともできたのである。
自由な諸制度を存続させる鍵の一つは、私的な生活と公共的な生活との関係、すなわち市民が公共の世界に参加するやり方、また参加しないやり方である。これはトクヴィルより手掛りを授けられた私たちの確信である。それゆえ私たちは、合衆国において私的生活と公共的生活とはどのように機能しているかという点に調査の焦点を絞ることにした。どの程度まで私的生活は、人々を公共的世界への参加に導くものなのか――あるいは逆に、彼らにひたすら私的世界に人生の意味を見出すように促すものなのか。また、どの程度まで公共的生活は、私たちの私的な願望を充足するものなのか――あるいは逆に私たちの意欲を失わせ、公共的参加からの撤退を促すものなのか。私たちはここに焦点を当てることにした。
□調査の対象・計画・方法。
私たちは小さな研究グループであり、予算も限られているので、調査対象は白人の、中産階級〔ミドル・クラス〕のアメリカ人に絞った。アメリカ人の生活の驚くほどの多様性をすべてカバーすることなど私たちにはとても不可能だという事実はさて置くとしても、この調査対象の限定にはいくつか理論的根拠がある。アリストテレス以来、共和主義の理論家は、自由な制度の成功には中産階級が重要であると強調してきた。伝統的に中産階級は、自由な制度を作動させるために活発な公共的参加を果たしてきた。加えて中産階級は、とりわけアメリカ社会では中心的な位置を占めてきた。第2、第5、第6の各章で論じるように、初めからアメリカは「中等身分〔ミドリング・コンディション〕」が主たる重要性をになっている社会であった。そして、過去一〇〇年ほどを通じて、中産階級――これが現代の言い方だが――が私たちの文化を支配し続けてきており、そのため真の上層階級も真の労働者階級も完全には出現したことがないほどである。合衆国では、誰もが概ね中産階級的なカテゴリーで――たとえそれが不適当である場合でも――ものを考えている。こういうわけだから、中産階級に焦点を当てた調査は、私たちの目的にきわめてかなったものである。〔……〕。ただ、民族集団的〔エスニック〕多様性についてはかなり包含できたが、私たちの国民生活にとってきわめて重要な位置を占める人種的多様性については、私たちはあまり触れることはできなかった。
私的・公共的生活の本質に到達するために、私たちは、今日の合衆国における私的な志向、公共的な志向の代表的な形態に焦点を当てた四つの調査計画を決定し、一つ一つを私たちのグループのそれぞれが実行した。私的生活を考えるにあたっては、人々が私的生活に形を与える最古の形態である愛と夫婦生活について、また新しくはあるがますます重要になりつつある形態として、中産階級のアメリカ人がそこに私的世界での意味を見出しているところのセラピー(心理療法)について調べることにした。公共的生活を考えるにあたっては、地域の政治や伝統的な自発的団体〔ボランタリー・アソシエーション〕といった古くからの市民参加の形態について、また六〇年代の政治運動から成長したものだが「体制内で」活動している比較的新しい政治的行動主義のいくつかの形態について調べることにした。
各フィールド調査者は、自らの特定の問題意識を生き生きと例示してくれるような特定の地域共同体や集団、あるいは一群の個人を選んだ。可能な場合には(私たちの研究では私的方面の調査よりも公共的方面の調査のときに多かったが)参与観察を行なって、インタヴューの補足とした。フィールド調査は一九七九年から一九八四年にかけて行なわれた。〔……〕私たちが話を聞いたのは「平均的」アメリカ人であったとも、当研究は無作為標本にもとづいているとも言わないが、私たちが読んだ膨大な数の調査や地域研究からすると、私たちと話した人々がひじょうに特殊な例だということもない。調査が主に焦点を当てようとしたのは、心理学的な側面ではなく、また社会学的な側面そのものなのでもなく、むしろ文化的な側面である。私たちが知りたかったのは、アメリカ人は自分の人生に意味を見出すのにどのような文化的資源をもっているか、彼らは自分と自分の社会とをどのように考えているか、彼らが考えていることは彼らの行動にどう結びついているかということである。こうした目的のためには、代表的な地域共同体の代表的な問題を選び出して、そこを中心に調査を進めることが最善の選択であるように思われた。私たちは人々と、私たち皆が関わりをもっているアメリカの生活の諸問題について話しあった。そして、個々のチャレンジと闘っている個人の各々が、私たちの文化的伝統の可能性と限界とを明らかにしてゆくのを見守るようにした。