contents memorandum はてな

目次とメモを置いとく場

『フェミニズムの主張』(江原由美子[編] 勁草書房 1992)

編者:江原 由美子
著者:橋爪 大三郎
著者:瀬地山 角
著者:吉澤 夏子
著者:立岩 真也
著者:杉原 名穂子
著者:坂本 佳鶴恵
シリーズ:フェミニズムの主張;1


フェミニズムの主張 - 株式会社 勁草書房


【目次】
はじめに(一九九二年三月 江原 由美子) [i-iv]
目次 [v-x]


第一章 売春のどこがわるい[橋爪 大三郎] 001
1 革新トルコまで 003
2 トルコ売春の実態 008
3 反売春の言説 014
4 〈性〉空間の曲率 020
5 売春のどこがわるい 028
資料(1 太政官達第二百九十五号(娼妓解放令)/2 内務省令第四十四号/3 売春防止法) 033
注 041


第二章 よりよい性の商品化へ向けて[瀬地山 角] 045
1 性の商品化をめぐる言論状況 045
2 性の商品化とは 048
  性の解放と性の商品化
  「性=愛」という原則
  労働力の商品化と性の商品化
  性の商品化=性差別?
  当事者の自由意志?
  補――性に関する意識
3 売春・ポルノ・ミスコン 060
  売春
  売春の否定
  ポルノグラフィー
    ポルノグラフィーには愛がない
    ポルノグラフィーはモデルの尊厳を踏みにじっている
    ポルノグラフィーは性犯罪を助長する
    ポルノグラフィーの前提とする視線の構造が問題だ
    ポルノグラフィーは女性像を歪めている
    ポルノグラフィーの意義?
  ミスコン
    ミスコンの胡散臭さ
    ミスコンは性差別か
4 まとめ 085
注 085


第三章 「美しいもの」における平等――フェミニズムの現代的困難[吉澤 夏子] 093
1 「ミス・コンテスト問題」の発見 098
2 「女の状況」――性愛的水準の重要性 102
3 社会的文脈と個人的文脈 109
4 「美しいもの」における平等の困難 114
5 ミス・コンテスト批判の陥穽 122
注 128


第四章 ルサンチマンフェミニズムと解放のイメージ――エコ・フェミ、エモ・フェミ、エリ・フェミを超えるために[井上 芳保] 113
1 なぜ、敢えてミス・コン問題なのか 134
  フェミニズムおよびミス・コン批判の隆盛
  井上章一氏のミス・コン擁護論
2 近代社会システムにおける女性の位置 137
  「美人の」というより「ミスの」コンテスト
  価値の多元化というより性別二元化が一層強固に
  品位なき「法廷の弁論術」を見破れぬ近代主義的言説
3 ルサンチマンフェミニズムとシュトレーバー型フェミニズム 146
  嫌悪感、不快感は「理屈のブルドーザー」よりも本物
  エコ・フェミ論争及びエリ・フェミ論争の不十分さ
  エモ・フェミのルサンチマンがシュトレーバーをあぶり出す
4 「それでも私はミス・コンは嫌いだ」と言えるフェミニズムへ 157
  井上章一氏が安心してフェミニズムをからかえる理由
  自己言及的フェミニズムのための「女々しい闘い」
注 162


第五章 出生前診断・選択的中絶をどう考えるか[立岩 真也] 167
1 考察の開始 167
2 技術・議論の現状と本稿の論点 171
3 「本人の不幸」という論理は成り立たない 176
4 抹殺とする批判は採らない 180
5 障害者差別だと言えるか 182
6 私たちの都合の問題である 186
7 誰の権利でもない 188
8 他者を決定しないという選択 191
9 どのような道があるか 197
注 199


第六章 フェミニズムにおける「近代」主義論争――フェミニズムはどのように「近代」を問うべきか[坂本 佳鶴恵] 203
1 「近代」の問題化 210
  差別/区別論から「近代」主義論争へ
  「近代」が先か、性差別が先か
2 男女平等化の二つの戦略 218
  価値均衡化戦略と無関連化戦略
  価値均衡化戦略の意味と評価
  無関連化戦略の意味と評価
3 フェミニズムは近代をどう論ずるべきか 218
  フェミニズムにとっての近代とは
  制度の評価問題
  性役割の象徴的機能
4 フェミニズムにおける「近代」主義論争が意味するもの 229
注 231


第七章 日本フェミニズムにおける「近代」の問題[杉原 名穂子] 223
1 フェミニズムと「近代」 234
  「近代」対「反近代」
  明治期のフェミニズム思想
2 明治啓蒙期の女性解放論における近代的論理――福沢諭吉の議論 241
  福沢の儒教倫理批判
  儒教倫理批判の論理
  「知力」としての人間中心主義
3 女権論と母権論における近代的論理 250
  独立・与謝野晶子の議論
  愛・平塚らいてうの議論
4 日本近代の問題 256
注 259


第八章 フェミニズム問題への招待[江原 由美子] 263
1 問題としてのフェミニズム 264
2 「性の商品化」の是非をめぐって 268
3 ミスコンの是非をめぐって 278
4 「選択的中絶」の是非をめぐって 290
5 フェミニズムと近代 299
6 フェミニズム批判を超えて 309


参考文献 [vii-xvi]
索引 [iii-vi]
執筆者紹介 [i-ii]





【抜き書き】

・冒頭の「はじめに」で、本書の企画の意図(議論の余地のあるトピックについて、社会学者たちの論考を提示し、そこに編者がコメントをする、というもの)が説明されている。

はじめに

  本書は、現在のフェミニズム運動やフェミニズム思想の中で、もっとも論争の的になっていると思われるいくつかの主張をとりあげている。
  フェミニズムの主張の中には、現在すでにかなり多くの人びとによって承認されている主張もある。婦人参政権に関しては多くの議論が行なわれ、それが成立するまで長い年月を必要としたけれども、現在婦人参政権に反対する人はほとんどいないだろう。第二波フェミニズム運動は、性別役割分業観とそれに基づく職場における性差別を主要な問題として提起した。〔……〕、それでも現在では多くの人びとが性別役割分業観に対して疑問を持つようになってきている。日本が女性差別撤廃条約を一九八五年に批准したこと自体、このような主張が正当なものとして認められてきたことの証であると言えるだろう〔……〕。
  けれどもその一方で、現在なお議論が沸騰し、多くの論争が行なわれている問題提起もある。本書では、「性の商品化」「ミス・コンテスト」「選択的中絶」「フェミニズムと近代」という四つの問題を、そうした問題提起としてとりあげて論じてみようと思う。その意味では本書は、フェミニズムの主を網羅的に論じるものではないし、その主要な主張を論じているとすら言えないかもしれない。〔……〕だが私は、「誰でも同意できる」ような主張だけをフェミニズムの主張としてしまうことには反対である。先のような問題提起は、やはりフェミニズムの重要な問題提起なのだと思うからである。
  他方、このような問題に対して、「議論が沸騰している問題」という定義を与えること自体に対しても批判があるだろう〔……〕。私はこれらの問題をもはや「フェミニズムでは決着がついている問題」なのだと定義してしまうことにも反対である。そのような定義は、フェミニズムをすでにできあがった教義に囲いこむものではないかと思うからである。フェミニズムとは、多くの人びとに開かれ、これから作られていく思想であるべきだと思うからである。
  私は〔……〕フェミニズムの主張について関心を持つ社会学者が大変多いこと、そしてその多くの方々がフェミニズムの主張についてある程度理解を持ちつつも、そうした主張が孕む危険性や可能性などについて、運動側とはまた別の認識を持っていることに気づいた。このような認識はフェミニズム批判として表現されることもあり、フェミニズム擁護として展開される場合もあったが、そのいずれも議論が沸騰しているような「フェミニズムの主張」を論じる上で重要な問題を含んでいるように思われた。これらの認識を多くの人びとの議論の輪の中に投げこむことができれば、より議論も深められるに違いないと考え、〔……〕本書が生まれた。
  このような企画の意図を明確にするために、私は、各論者の方々の論考の後に、「フェミニズム問題への招待」という、各論へのやや長いコメントを試みた。そこで私は、フェミニズム思想や運動に関心を持ってきた者の立場から、それらの論考をどう読みうるかという一つの解釈を示し、評価とともに疑問点も提起した。
  このような試みには、学問的世界の一部にある常識からすれば異例であるという批判もあった。また私自身、各論者の方々に対して失礼ではないかというとまどいもあった。けれども、社会学という学問領域に関心を持つ読者だけでなくフェミニズムに関心を持つ読者も沢山この本を読んで下さるだろうということを想定した場合、このような試みが必要ではないかと判断して敢えて行なった。むろんそこで私は、研究者としての私固有の理論的立場、あるいはフェミニズム問題への私個人の立場に基づく持論の展開はできうる限り抑制し、あくまでこれからどういう議論がなしうるかというその文脈を挙げるという姿勢に徹したつもりである。フェミニズム問題に対して一つの議論の材料を提供し、議論をより深化させるきっかけにしたいという本書の企画を明らかにする上で、また本書の議論が「結論」ではなく「出発点」であるという私の位置づけをより明確にする上で、これからありうる議論の文脈を呈示しておくことは必要であると判断した結果である。
  このような議論の文脈の呈示は、〔……〕本書に論考を寄せて下さった方々の意図にも添うものであると私は思う。なぜなら、本書に論考を寄せて下さった方々は、フェミニズムの主張に反対あるいは賛成といった「結論」がそのまま流通してしまうことよりも、その議論の筋道そのものが評価され議論されることをこそ、望まれると思うからである。フェミニズムの主張に賛成・反対という「結論」だけが「学者の見解」として流通してしまうことを、もっともおそれておられると思うからである。当り前のことではあるが、重要なのは「誰が正しいのか」を決めることなのではなく、問題に即して議論を尽くすことなのである。
  コメントを書いたあと、論者の方々から疑問点に関する反論もたくさん頂戴した。これらの反論を収録できなかったことはかえすがえすも残念である。ここでの議論から次の論争が生まれ、ひきつがれていってほしいと思う。本書の続きを出す企画も考えている。多くの方々のフェミニズム論争への参加を期待している。〔……〕


・最終節から。

6 フェミニズム批判を超えて 309
  以上、フェミニズムにおいて議論が噴出している問題に対し、本書で論じられている方々の論を概観してきた。最後に、これらの論の位置を再度確認することで、フェミニズム問題への招待を終わることにしよう。
  私は、この論を終えるにあたり、これまで論じてきた問題は、「フェミニズムの問題」であるだけでなく、「私たちの社会の問題」でもあることを強調しておきたいと思う。いままでの論がかりに「フェミニズムの行きすぎ」や「フェミニズムの不十分さ」だけを指摘している論であるかのように思われたとしたら、それは本書の意図ではない。問われているのは、フェミニズムだけではなく、私たちの社会そのものなのである。フェミニズムの議論が不十分だと言われれば、それは認めよう。けれど、だからといって、フェミニズムを否定すればそれですむという問題なのではないということは強調しなければならない。なぜなら、性の商品化やミスコンや選択的中絶の是非は、私たちの社会において、様々な人びとの実践的判断として、すでに解答が出されているからである。
  性の商品化の是非を問うている問にも性は商品化されている。また性や性的商品を売買することへの道徳的非難も、フェミニスト以外の男女からすでになされている。ミスコンの是非を論じきることができない間にも、ミスコンは開催されている。ひとを容貌のみで評価することを私たちは肯定しきれないのに、現実には容貌の良し悪しが社会生活上様々な利益・不利益を生承出していることを私たちは知っている。「中絶」の是非、「選択的中絶」の是非を考えることはこんなにも困難なのに、「中絶」は犯罪として刑法に記載されている。その日本における犯罪としての「中絶」を実質的に自由にしている「優生保護法」は、その精神において「選択的中絶」のための法律なのであり、私たちはこのような法律のもとにすでに生きてしまっている。私たちの「近代主義」的思考では、その是非の判断が困難な問題は、フェミニズムが問題化するまで、多くの場合、すでにその是非が決定された問題、あるいは誰もその是非を問う必要がない問題として扱われていたのである。
  フェミニズムは、それらすでにその内部に矛盾を孕みながら、けれども事実としてすでに人びとに生きられてしまっている判断を、問題化したのだ。私は、フェミニズムが問題化した「近代」とは、理念として一貫した「近代」なのではなく、その内部に矛盾を孕みながら、それぞれその場における実践的判断によって事実として産出されてきた「近代」なのだと思う。そしてだからこそ、フェミニズムは、「近代」を、私たちの社会を、照らし直したのだと思う。フェミニズムの解答はまだけっして十分だとは言えないかもしれない。けれどもだからといって、その問は、フェミニズムを否定すれば解決するわけではないのである。


【メモランダム】
・第1章の橋爪論文は、旧稿(→橋爪大三郎(1981)「売春のどこが悪い」『女性の社会問題研究報告』第4集(喇嘛舎):24-53頁)を半分に圧縮したもの(※1章末の注釈による)。そのためか、“トルコ風呂”という呼称が1980年代に書かれた当時のまま残されている。
 のちに、『性愛論』(岩波書店 1995年。文庫版あり)にも収録される。