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『市場主義の終焉――日本経済をどうするのか』(佐和隆光 岩波新書 2000)

著者:佐和 隆光〔さわ・たかみつ〕(1942-) 計量経済学環境経済学
NDC:332.107 日本経済史・事情(昭和時代後期.平成時代 1945-)


市場主義の終焉 - 岩波書店


【目次】
目次 [i-iii]


序章 市場主義の来し方ゆく末 001
  混迷する日本経済
  自由放任=市場主義の席巻
  自由放任=市場主義の終焉
  二段改革か同時改革か


第1章 相対化の時代が始まった 013
1 二〇世紀日本を襲った閉塞感 014
  経済の低迷と政治の混迷
  戦後日本の「基軸」は「追いつき追い越せ」だった
  政治と経済、そして価値規範の再構築
2 保守とリベラルの対立軸 023
  中道左派政権の相次ぐ登場
  ハイエクの相対的市場主義
  絶対的市場主義の完成
  「満足の文化」の蔓延
  保守主義リベラリズム
  市場主義と真正保守主義の相克
  社会ダーウィニズム
  多様性と平等
  高度成長期の終焉と経済学パラダイムの転換
3 相対化される近代のイデオロギー 051
  社会主義の崩壊
  産業文明と科学技術の相対化/市場経済も相対化された


第2章 進化するリベラリズム 061
1 マテリアリズムからポスト・マテリアリズムへ 062
  新しいリベラリズム
  ポスト・マテリアリズムは政治を動かす
  社会主義はマテリアリズムの優等生だった
  ポスト・マテリアリズムが滅ぼした社会主義
2 地球環境問題の浮上 075
  マテリアリズムとの決別を駆動した地球環境問題
  二〇世紀型産業文明の見直し
  二〇世紀は二酸化炭素排出の世紀
3 日本のポスト・マテリアリズム 080
  衣食足りて礼節を知る
  大学紛争と全共闘世代
  統計でみる日本人の意識の変遷
  バブル経済がはぐくんだネオ・マテリアリズム
  欧米と日本の「豊かさ」モデルの差異


第3章 日本型システムのアメリカ化は必要なのか 097
1 なぜいま改革なのか 098
  平成不況は戦後日本経済「第三の転換点」
  ポスト工業化社会とはなにか
  ポスト工業化と日本型システム
  もう二つの理由
2 時代文脈の変化への適応 107
  八〇年代の時代文脈
  九〇年代に起きた時代文脈の変化
  リスクの増大と格差の拡大
  「一人勝ち」の構造
  ポジティブなリスクへの挑戦
3 情報技術革新と日本型システム 122
  日本型システムの改編とIT革命
  市場主義者の書く処方篝
  リベラリストの書く処方篝
  日本型システムの「良さ」


第4章 「第三の道」への歩み 135
1 「第三の道」とはなにか 136
  皆が読みちがえた九〇年代の「変化」
  「変化」への適応が導く新しいパラダイム
  「第三の道」とはなにか
  オイルショックが招いた市場主義の復権
2 一九七〇年代後半の分岐点――反平等主義の台頭 145
  サッチャリズムとはなんだったのか
  歴史主義の貧困
  市場主義と民主主義
  不平等は「善」か「悪」か
  「合理的な愚か者」の支配はいつまでつづくのか
3 平等・不平等の新しいパラダイム 156
  批判にさらされた平等主義
  能力主義社会のはらむ自己矛盾
  「排除」としての不平等
  大学と医療の民営化は「排除」をおしすすめる
4 大学改革の「第三の道」 167
  平等主義の貫徹した日本の大学
  大学の市場主義改革は万能ではない
  市場主義改革より危険な計画主義改革
  両極端を止揚する「第三の道
5 ポジティブな福祉国家へ 178
  市場主義者の福祉国家批判
  福祉のはらむ「矛盾」
  高まる不確実性とリスク
  リスクの共同管理としての福祉


第5章 グローバリゼーションの光と影 189
1 「均質化」の過程としてのグローバリゼーション 190
  アメリカ経済の繁栄とグローバリゼーション
  ロシアにおける市場経済化の挫折
  東アジアの工業化とグローバリゼーション
  グローバル・スタンダード
  グローバル資本主義の危機
2 地球環境問題の政治経済的インパクト 204
  先進七カ国サミットが地球環境問題を浮上させた
  グローバル市場主義と地球環境保全
  環境保全に無関心な旧左派
3 ガバナンスの上方統合と下方拡散 212
  国連がつかさどる環境ガバナンス
  グローバルな「市場の失敗」
  多様な資本主義の共生
  グローバル資本主義の「矛盾」
  グローバル市場経済のガバナンス
  グローバル・パラドックス


あとがき(二〇〇〇年九月一七日 佐和隆光) [227-230]
参考文献 [231-232]




【抜き書き】

あとがき

 経済政策を思考する経済学者、そして経済政策を施行する行政官と政治家は「冷静な頭脳と温かい心情」(クール・ヘッドとウォーム・ハート)の持ち主でなければならない、とケインズの師であるケンブリッジ大学アルフレッド・マーシャル教授(当時)はいい、「論理的な頭脳と思いやりに満ちた心」(ハード・ヘッドとソフト・ハート)の持ち主でなければならない、とクリントン大統領の経済諮問委員会委員長をつとめたプリンストン大学のアラン・ブラインダー教授はいった。
 理工系万能の一九六〇年代初頭に大学に入学した私が、あえて経済学を専攻する道を選んだのは、私自身、ウォーム・ハートないしソフト・ハートの持ち主だったからだ、と自負している。折しも、所得倍増計画を金看板にかかげる池田勇人政権の発足した矢先のこと、すでに色褪せはじめていたマルクスの経済学にいささかならず失望した私は、科学技術万能の時代風潮にもあおられて、計量経済学という極度にテクニカルな分野を専攻するに至るのだが、さまざまな経済学を水面下で支える「思想」への熱い関心を絶やすことなく、経済学の研究に打ちこんできた。一九八二年、私のたどり着いた結論の一つを、おなじ岩波新書『経済学とは何だろうか』にまとめた。経済学はアメリカにおいて「制度化」されているという意味において「科学」ではあるが、素朴ベーコン主義者や論理実証主義者がいうところの「科学」ではない。しかし、「科学」でないからといって、経済学の価値がいささかたりともおとしめられるわけではない。これが前掲書で私が伝えたかったメッセージである。
 一九六〇年代末から七〇年代初頭にかけて、ケインズ経済学左派ともいうべきラディカル・エコノミックスが台頭し、アメリカ経済学界を震憾させた。七〇年代末から九〇年代にかけてには、新古典派経済学右派ともいうべき市場主義者が、アメリカ、そして日本の経済学界を支配するようになった。一連の経緯のゆえんを、時代文脈の変遷のなかにさぐりあてることが、私自身にとっての有意味な営みなのだが、主流派経済学の交代を、あたかも経済学の「進歩」であるかのように錯覚するむきが少なくない。
 経済学のみならず、科学に「進歩」というものはどだいありえない。科学哲学者トーマス・クーンのいうように、科学革命、すなわち科学のパラダイム・シフトとは、分析視角の革新にほかならない。自然であれ社会であれ、分析視角を変えれば、おなじものがちがってみえるのは、しごく当然のこととしてうなずける。
 七〇年代末、市場主義という名の復古思想が、経済学界およびその周辺にはびこりはじめ、今日の日本では、市場主義の信奉者が、エコノミストの圧倒的多数派を占めるようにさえなった。いまから三〇年前には、「市場の失敗」をいいつのり、一〇年前には日本型制度・慣行をほめそやしていたエコノミストの多数派が、いまでは、日本型システムのアメリカ化と、市場主義改革の断行を唱和するようになった。いま求められているのは、市場主義を超える、新しい分析視角の提示なのである。
 市場主義改革の推進は「必要」であるが「十分」ではない。必要にして十分な改革とはなんなのか。この設問に対する私自身の答えは、市場主義改革と「第三の道」改革を同時に遂行することにほかならない。市場主義改革の遂行により効率性を確保しつつ、それにともなう「副作用」の緩和をめざす「第三の道」改革による、公共性を重んじる、公正で「排除」のない社会の実現を同時にめざす。これこそが「必要」にして「十分」な改革なのである。同時改革を可能にするには、市場主義改革のもたらす「副作用」を的確にみきわめたうえで、平等、福祉など、そのままでは市場主義改革の妨げとなりかねない、既成の価値と制度の根源的なパラダイム・シフトをはからねばならない。本書が読者に伝えようとしたメッセージの要点は、およそ以上のとおりである。
 本書を執筆するにあたって、多くの方々にお世話になった。統計数理研究所の坂元慶行教授には、「日本人の国民性調査」の貴重なデータの提供を快くお引き受けいただいた。京都大学経済研究所の私の秘書楠林暁子さんには、資料の収集、グラフの作図などの雑務を手際よく処理していただいた。ここに記して、お二人に心からの謝意を表したい。原稿にあったケアレス・ミスを多々ご指摘いただき、できるだけ読糸やすくするようしていただくなど、隅々まで心を配って本書の編集にあたられた岩波新書編集部の柿原寛氏にも、篤く御礼を申し上げる次第である。

主要参考文献(括弧内は原著刊行年)