contents memorandum はてな

目次とメモを置いとく場

『現代言語論――ソシュール・フロイト・ウィトゲンシュタイン』(立川健二, 山田広昭 新曜社 1990)

著者:立川 健二[たつかわ・けんじ] (1958ー) 
著者:山田 広昭[やまだ・ひろあき] (1956ー) 
シリーズ:ワードマップ
NDC:801.01 言語哲学、言語美学。
件名:言語哲学


現代言語論 - 新曜社 本から広がる世界の魅力と、その可能性を求めて


【目次】
はじめに――『現代言語論』はいかに書かれたか、あるいは『現代言語論』の読み方について(立川健二) [003ー011]
  フィロロジー、あるいは固有名詞への愛
  現代言語論の三つの視点、あるいは交通のネットワーク
現代言語論の三つの視点 [012ー013]
目次 [015ー018]


I システム・構造としての言語――記号論的視点 019
記号  記号論と生のリアリティ 
ソシュール  《力》の思想家 
共時態と通時態  ソシュールの《力》の言語学 
サピア  《ドリフト》、あるいは構造主義脱構築 
意味  《聴く》立場のために 
バルト  実存的構造主義、あるいはロゴスの構築主義 
グー  言語と貨幣の生成プロセス 
戯れ  言語の無根拠性 
ブレンダル  論理学的構造主義者の両義性と徹底性 
イェルムスレウ  言語としての主体、あるいは内在論的構造主義者の可能性 
固有名詞  シニフィエなきシニフィアン、あるいは言語のなかの外部性 


II 無意識としての言語――精神分析的視点 109
フロイトと言語  言語行為論と象徴理論の狭間に 
無意識  無意識の中の言語、言語の中の無意識
アナグラム  ふたりのソシュール、その断絶と連続 
クリステヴァ  《名づけえぬもの》の理論、あるいは《女》のエクリチュール 
セミオティックとサンボリック  恋愛、あるいはカオスとしての言語 
精神分析と言語使用論  欲動の力と発話の力 


III 行為・コミュニケーションとしての言語――言語使用論的視点 155
ウィトゲンシュタイン  言語ゲーム論の射程 
交通  マルクスソシュール、あるいは外部の力 
オースティン  パフォーマンスとしての言語 
対話  ミハイル・バフチンとともに 
ヴァレリー  「考えるためには、ふたりでなければならない」 
バンヴェニスト  発話行為言語学――「主体」とは「語る主体」である 
デリダ/サール論争  言語行為をめぐるディスコミュニケーション 
手紙  愛のメタファーとしての 
約束  この恐ろしげな言語行為 
誘惑  他者とのコミュニケーション、あるいは迂回されたナルシシズム 


おわりに――言語論のあらたなる転回へ向けて(1990年3月18日 山田広昭) [239ー243]
現代言語論のためのブックガイド [244ー258]
人名索引 [259ー262]




【抜き書き】

・「記号」の項から。人間がレトリックを使う動機を、著者がふわっと説明している部分。引用箇所は27頁。

 われわれ人間は、記号の世界のなかでしか生きていけないのだが、かといって、そんな記号世界がずっと長いあいだ固定して動かないでいると、また退屈してしまうという、なかなか厄介な性格をもっている。だから、たまには、いままで自分が築いてきた記号・意味秩序を壊したり、新しい記号を作りだしたりしたい衝動にかられることがある[4]。〔……〕この記号破壊(セミオクラスム)の衝動をさらに推しすすめていけば、それはいわゆる「革命」の希求にまでいたることだろう。
 いずれにしても、記号世界の崩壊と生成というのは、われわれにとって、一方では恐怖・不安・嫌悪感(クリステヴァのいうアブジェクシオン)をひきおこすとともに、他方ではまた強烈な歓びと快楽をもたらす出来事でもある。われわれにとって、「生きる」ということは、この両義的な出来事を生きることにほかならない。

[4] 瀬戸賢一は、こういっている。「私たちには心理的・意味論的に相反する二つの傾向がある(…)。ひとつは、意味(または社会)を流動させたくないという気持ちであり、もうひとつはちょうど反対であり、意味(または社会)を固定し安定させたくない、流動させたいという気持ちである」(『レトリックの知』新曜社、1988年、120頁)
 重要なのは、それを心理学のタームではなく、意味論あるいは記号論のタームで語ることである。


【関連記事】
『言語起源論の系譜』(互盛央 講談社 2014)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20190205/1549299600


ソシュールを読む』(丸山圭三郎 講談社学術文庫 2012//1983)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20140921/1476179236




【メモランダム】
・「言語学」ではなく「言語論」。


・カバーデザインに注目すると、「810」という数字がある。
 これをNDC(日本十進分類法)の分類だと深読みすると、少なくとも装幀者は「810 日本語(学)」を意識していたことになる。
 もしこのデザインが、著者または編集者から要請されたものなら(「801 言語学」を念頭に置いて)、「801」となっていたのではないかと思う。