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『二つの戦後・ドイツと日本』(大嶽秀夫 NHKブックス 1992)

著者:大嶽 秀夫[おおたけ・ひでお](1943-) 政治過程論、日本政治。
NDC:312.34 政治史・事情
NDC:319.34 外交、国際問題



【目次】
はじめに [003-005]
目次 [006-008]


第一章 ドイツの降伏と占領 009
第三帝国の崩壊
地方行政組織の再建
分割占領の決定
ソ連による東欧支配
ソ連の対独政策
フランスの要求
イギリスの消極姿勢
ローズベルトの構想と理想主義の台頭
ニュルンベルク裁判
JCS一〇六七
国際抗争の舞台に


第二章 日本の降伏と占領 038
ソ連の参戦
ヤルタ秘密協定
極東におけるソ連の立場
中国の後退
イギリスの立場
アメリカの単独支配
生存圏思想からの脱却
アメリカのヘゲモニー
パックス・アメリカーナの下での日独


第三章 占領改革の日独比較 057
敗戦直後のドイツ
自由主義体制構築への第一歩?
急進化への内在的抑制要因
占領軍による政治活動禁止方針の背景
政党活動の認可
非ナチ化
日本における占領改革
ニュー・ディール型改革の基本的発想
占領軍内部の対立と協調
西側ドイツにおける制度改革
政治文化の変革


第四章 二つの憲法・二つの政治思想 086
二つの憲法憲法改正作業の開始
総司令部による起草と日本政府に対する「押しつけ」
第九条の成立過程
第九条の意味
西ドイツ国家の創設に向けて
ドイツ側の反応
憲法制定議会での審議
ボン基本法における防衛権
二つの憲法占領政策の転換
二つの路線の中で
急進的直接民主主義共産主義への態度
戦後初期における社会民主主義の潮流
自由主義の潮流
ボン基本法とアデナウアー
憲法吉田茂の立場


第五章 冷戦と日独の経済復興 121
ポーランドをめぐる「勢力圏」の否定
トルーマン宣言による冷戦の始まり
ギリシャの内戦への干渉
マーシャル・プラン構想の登場
マーシャル・プランの実施
西側ドイツの経済復興
シューマン・プラン
ドレイパーの経済復興計画
ドッジ・ラインと特需の意義
李ラインをめぐる日韓の対立
久保田発言による決裂
米国の極東戦略における日本重視?


第六章 ドイツの講和と安全保障 151
日独の防衛政策の違いと共通性
米ソ対立とベルリン危機
「独立への道」とアデナウアー
米国によるドイツ再軍備構想
再軍備を挺子にして
プレヴァン・プランの登場
主権回復への道
「中立によるドイツ統一」の要求
NATO加盟による解決
シビリアン・コントロールの確立


第七章 日本の講和と安全保障 175
日本外交の基本路線設定に対する吉田の貢献
米国の極東政策の転換
講和問題の争点化
池田特使の派遣
安保条約交渉
吉田からみた日米安保体制
太平洋集団安全保障構想
マッカーサーの方針転換
警察予備隊の創設
吉田の再軍備
失敗した「国民教育」
なし崩し再軍備
吉田内閣の最大の負の遺産
パックス・アメリカーナの中の日米安保体制


終章 世界の中のドイツと日本 204
目標とされた「太平洋のスイス」
軍事大国化への国際的制約
権威主義化への警戒
国際的な貢献意識の欠如
ドイツの教訓――国際的貢献の要請と機会とを迎えて


『二つの戦後・ドイツと日本』関連略年表 [213-218]
参考文献 [219-222]




【抜き書き】

■本書の問題設定と構成

  はじめに

 日本とドイツにはさまざまな共通点がある。遅れた国家統一と工業化、ファシズムと世界大戦、敗戦と占領、それに続く安定した保守政治と順調な経済成長などの歴史的経験ののち、いまやいずれも経済大国と呼ばれるようになった。他面、軍事的にはアメリカの忠実なジュニア・パートナーの地位に甘んじている。こういった共通性の観点からこの二つの国を比較することはそれ自体大変興味深いことである。
 しかし、近年は、この両国の違いが国際的にも注目を集めており、この比較には一層アクチュアルな意味があるように思われる。〔……〕それ以上に重要なのは、ドイツ連邦共和国が戦後、一貫してヨーロッパの隣国との強いきずなを築くことに努めてきたのに、日本はアメリカ一辺倒で、東アジアで孤立し「友人を持たない」という現状であろう。
 同じような歴史的経験をもちながら、どうしてこうした違いが生まれたのかを知り、ドイツ連邦共和国の経験から学ぶことは、これからの日本が国際的要請に応えていくために必要なことではなかろうか。本書では、こうした観点から、両国を取り巻く戦後の国際環境と両国の対応の違いに焦点を当てて、比較を試みてみたい。

 なお、本書では、敗戦当初を扱った第一章を除いては、ドイツについてはもっぱら西側ドイツ(一九四九年以降はドイツ連邦共和国)を対象としており、「ドイツ」という場合、東ドイツドイツ民主共和国)を含まない。日本との比較の観点からいって、ドイツ連邦共和国との比較に絞った方が意味ある分析ができるとの判断からである。

 本書は、『戦後政治二つの軌跡』として一九八九年一月〜三月にNHKテレビで行った「市民大学」のテキストをもとにしている。しかし、このテキスト自体が、拙著『アデナウアーと吉田茂』および『再軍備ナショナリズム』(いずれも中央公論社刊)をもとにしたものであったので、この二書と重なる部分をできるだけ削除し、代わって、とくに国際環境の部分に力点をおいて、大幅な加筆、修正を行った。また、第三章の日独の占領の比較は、ハーバード大学で行われたある研究会に提出した英文論文をもとに、今回新しく書き下ろしたものである。そのため、構成の上でも、内容の上でも、テキストを改訂したというより、改めて新しい本を執筆したような結果となった。執筆完了まで放送終了後ほぼ三年の月日がたってしまったのは、主としてそのためである。ただ、若干ではあるが、先の二冊の本、および本書と並行して執筆した『戦後日本防衛問題資料集』(三一書房)の解説と重複する部分があることをお断りしておきたい。
 〔……〕

 また、私事にわたって恐縮であるが、この三年の間に、筆者は母を、妻は祖母を亡くした。「何たらわけのわからん話をしやあすやろうね」という周囲の声にも泰然として、熱心に番組を見続けてくれた二人の冥福を祈って、妻による挽歌とともに、本書を二人の霊前に捧げることをお許し願いたい。

   ひとまきの重き絹我に残されて目つむれど追へぬ白き原野のごと

   紫の音色を空にねじ放つ鳥ゐて葬列を飛び去るなり




■終章。わたくし用のメモ書き付き。


□目標として理想的なのはスイス

終章 世界の中のドイツと日本

目標とされた「太平洋のスイス」
 一九四九年春、マッカーサーはあるインタビューで、仮に米ソが戦争を始めた場合でも日本は中立を守るべきだとして「日本は太平洋のスイスたれ」と述べた。この「太平洋のスイス」という言葉は、その文脈を離れて多くの日本人に深い感銘を与えた。第二次世界大戦によって大日本帝国建設の野心が破綻し、未だ経済的再建のめども立たず、諸外国の敵意に囲まれていた当時の日本人は、世界の片隅で豊かと言えないまでも経済的自立を達成し、清く正しい国家として世界の尊敬を勝ち取りたいと慎ましやかな目標を求めていたからである。しかも、当時の日本人の多くは、スイスを非武装国家と思い違いしており、新憲法非武装中立主義を体現した国として理想化したのである。
 対外的野心を捨てた日本人にとって、小国スイスは国家目標として最適であるように思われた。さらにまた、敗戦国として超大国間の対立の中で翻弄され、深刻化する米ソ対決によって新たな戦争の脅威に直面した日本にとっては、国際対立の場から身を引き、安住の地を得たいという欲求も強かった。軍事的中立を保ってきた(最近の言葉でいう)一国平和主義国、一国繁栄主義スイスは、戦後のこうした一種の孤立主義的風土からも理想的存在であったと言えよう。
 戦後のドイツにとっても、この平和で自足的な隣国スイスは再建の目標として魅力的な存在であった。また、否応なく東西対立の最前線に立たされ、祖国の分裂を余儀なくされていったドイツ人にとっては、中立による祖国の統一という道は、切実な願いでもあった。




 著者曰く「届かない目標」と。スイス的な小国のふるまいをとろうとしても、独・日の2国のプレゼンスが大きすぎるため、かなわない。
 個人的には、最終段落にある「非武装が共産化につながることを米国が危惧した点」は省略した部分が多くてわかりづらい。ステップが謎。

 しかしながら、ドイツにとっても日本にとっても、スイスのような国になることは不可能であった。第一に、地政学的観点から言ってドイツと日本は、米ソの軍事戦略上要[かなめ]の位置を占めていた。ドイツはヨーロッパをめぐる東西対立の軍事的最前線を占めており、〔……〕。日本列島も、アジア大陸を睨む位置にあって、〔……〕戦略的位置にあった。
 第二に、日独は、その経済的潜在力の故に軍事的にもまた潜在的パワーであることを免れえず、米ソのいずれかの軍事的同盟国になることは軍事バランスにとって決定的な意味をもった。米ソとも、日独が軍事的に復活、再編され、相手の勢力圏に編入されることだけは、何としてでも回避したいと考えたのである(万一日本がソ連の侵略によってその勢力圏に編入されるような場合には、米軍は日本の産業施設を徹底的に破壊してから撤退すべきである、というプランが米国政府内で真剣に議論されたほどである)。
 この二つの観点から、米ソいずれも、日独の立場に重大な関心を寄せ、強力に介入せざるをえなかったのである。そして米国の目から見れば、両国の非武装中立は(チェコスロバキアのような)共産党によるクーデターヘの道を開くものであり、共産化とソ連圏への編入の第一歩となるおそれがあって、とうてい容認できない路線であった。敗戦に打ちのめされた日独両国民が、いくら小国論を議論しようと、その潜在的パワーの故に、世界の片隅に安住の地を見つけるという道を選択することは許されなかったのである。



□ 前項にひきつづき、当時、軍事面・経済面において、日・独が懸念されていた点。キーワードはおそらく「大国化」。

軍事大国化への国際的制約
 他方、日独が、独自の軍事大国となる可能性も引き続き存在し〔……〕米ソにとっても両国は潜在的脅威であった。その脅威を解消するためにも、軍事同盟の名の下に、両国に対し、米ソいずれかの軍事的従属国としての縛りをかけておく必要があった。
 フランスがドイツを封じ込めるためにアメリカのヨーロッパ「支配」を容認し、また、内心でドイツの東西分割を歓迎したように、ポーランド等もまたドイツからの脅威に対処するためにソ連による(東独を含めた)東・中欧に対する支配を受け入れたとも言えよう。オーストラリアやフィリピンが米国の太平洋支配と日米安保条約による米軍の日本駐留を求めたのも、同様の理由による。中国ですら、日本が経済大国化した一九七〇年代初めには、日本軍国主義復活論を背景に、日米安保条約を日本軍国主義への抑制機構として容認するという立場を示した。こうした大国化への警戒は依然極めて強く、この意味からも、日独が中立という独自路線をとることは国際的に困難であった。
 以上の軍事的観点に加えて、両国は、経済的に再建されるとすれば、好むと好まざるとにかかわらず経済大国となり、諸外国に重大な影響を及ぼさざるをえない国であって、スイスのような小国にとどまりえない存在であった。フランスがドイツの復興を恐れたのは、単に、軍事的理由ばかりでなく、経済的、政治的にもドイツは小国にとどまりえず、やがてはフランスを凌駕して欧州のリーダーとしての同国の国際的地位を脅かすであろうという認識にもとづく。他方、経済的に復活すれば、日本がアジア経済の中心を占めることも、不可避であった。両国にとっては、スイスのように、酪農や時計あるいは金融のような特殊な分野で世界市場にささやかな安定した地位を占めるにとどまることは不可能であった。日独は、たとえそれを求めずとも、世界市場において中心的な位置を占めることをいわば宿命づけられていたのである。
 事実、両国の経済は戦後急速に復興し、やがてGNPにおいて近隣諸国を圧倒し、世界の大国にまで成長した。そしてまた、さまざまな軍事的制約を受けながらも、軍事費も急成長し、世界有数の防衛費支出国となっていったのである。


□ここでの「権威主義的」は「反・自由主義」「非・自由主義」の意味。(この本で、独裁や民主主義やとの弁別はどうなっているのだろう。)

権威主義化への警戒
 それだけに、敗戦によって打ちのめされてもなお、両国の動向は世界の重大な関心の的であり続け、その国内政治も国際的な注目の対象たることを避けえなかった。そもそも、「自由世界」はその内部にいくつかの反自由主義的・権威主義的国家を含んできた。比較的最近までのスペイン、ポルトガルギリシャ、フィリピン、韓国など、あるいは現在も中南米諸国やアフリカの新興諸国などは、「自由世界」に属するとは言え、国内的にはとうてい自由主義的な国家とは言い難い。しかし、これらの政府は反共、反ソである限り、アメリカの容認、さらには積極的援助を受けてきた。国内的に非アメリカ的、非自由主義的であっても、軍事的には何らアメリカへの脅威、ひいては世界への脅威とはならないと判断されたからである。
 ところが、ドイツと日本だけは例外で、その潜在力と過去の経験とから言っても、両国における権威主義の登場はパックス・アメリカーナヘの挑戦となりうる。とくに、日本について言えば、戦後の日本人が、米国との圧倒的国力の差をみせつけられ、太平洋戦争で米国と戦ったことの無謀さを痛感させられたのに対し、米国(とくに軍部)にとっては、「世界を相手に」三年間も戦い続けたという日本の「実績」は、容易に拭い去ることのできぬ強い印象を植えつけたのである。徹底した占領改革が日独両国において断行されたのもそのためであり、その後も、両国における民主主義・自由主義の定着が、米国を始め近隣諸国の注目の的であり続けた。日独の国内政治の動向は、単なる国内問題とは見なされなかったのである。


□アデナウアーの外交路線。
メモ:Konrad Hermann Joseph Adenauer(1876- 1967) 政治家。西ドイツの初代連邦首相(1949〜1963年)。外相(1951〜1955年)。戦後はCDU(ドイツキリスト教民主同盟)初代党首。

 アデナウアーは、ドイツの潜在力とそれに対する諸外国の強い懸念とを、ドイツが敗戦によってまったく無力化しているかに見えた時点においても、常に正しく認識していた。彼は自国の経済復興の可能性を確信していたが、それがフランスなど周辺諸国への脅威となることも見抜いていた。したがって、彼は、一方で、積極的に西ドイツをヨーロッパの国際機構に編入し、欧州各国の懸念を解消することに努めた。シューマン・プランやプレヴァン・プランへの彼の積極的支持はその代表例である。それとともに、彼は、西ドイツが米国を支える同盟国の役割を担うべきことを主張し、この政策を実践した。こうした枠組みを通じてアメリカに対してはヨーロッパの利益を代表し、ヨーロッパにおいてはアメリカの主張を説得する代弁者の役割を演じたのである。