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『ヒトの全体像を求めて――21世紀ヒト学の課題』(川田順造[編] 藤原書店 2006)

編者:川田 順造[かわだ・じゅんぞう](1934-) 文化人類学
著者:大貫 良夫[おおぬき・よしお](1937-) 先史学、文化人類学
著者:尾本 惠市[おもと・けいいち](1933-) 分子人類学。
著者:西田 利貞[にしだ・としさだ](1941-) 霊長類学。
著者:佐原 真[さはら・まこと](1932-2002) 考古学。

【目次】
目次 [001-004]


序[二〇〇六年三月 川田順造] [006-009]


I 部 総合の 「学」 をめざして [新エイプ会の提唱][尾本惠市+川田順造+佐原真] 011
  メタサイエンスとしての人類学
  エイプ会の背景
  分化と総合のダイナミズム
  魅力的なエイプ会の人たち
  身体技法総合研究の可能性
  学際研究、三つの段階
  人類学の子盾と課題


◆II部 四者討論 ヒトの全体像を求めて[大貫良夫+尾本惠市+川田順造+西田利貞] 053◆


1章 現代世界における人類学
はじめに 056
  [問題提起]
■自然史の視点から総合人間学へ[尾本惠市] 058
  区別、偏見、差別
■集団間暴力の起源[西田利貞] 067
  宗教と連帯、桑力の起源
■長大な人類史のなかで見る[大貫良夫] 075
  歴史的変化を考える必要
国民国家の成立と戦争[川田順造] 085
  欧米がつくった近代 
  野蛮人から未開人へ 


  [討論]
  農業は原罪か? 
  先住民の問題 
  DNAか学習か 
  先住民の人権 
  漢文化の位置づけ 
  人類の人口増大 
  サルにおける差別、ヒトにおける差別 


2章 自然の一部としてのヒト[種間倫理の可能性を探る] 135
  人種、民族の概念
  進化とは何か
  生物の多様性
  江戸文化と自然
  経済のグローバル化 
  文化相対主義をどう考えるか
  カースト制度、ガンディーの思想など
  種間倫理の問題


3章 現代以後のヒト学はどうあるべきか 199
  人間らしさはどこからきたか
  総合人間学としてのヒト学
  開発と人類学
  世界に横行する「悪」
  自然史の一部としてのヒト学
  討論の終わりに


新しい始まりへ向けて
 ヒト学への道 [尾本惠市]
 生物人類学者の義務 [西田利貞
 総合の学としての先史人類学と文化人類学 [大貫良夫]
 新しい人文主義への想い[川田順造


編者あとがき[二〇〇六年四月二十五日 川田順造] [261-262]





【抜き書き】

人種分類と民族分類について(pp. 139-143)。

尾本  〔……〕たとえば18世紀あたりから人種分類が非常に熱心になってきて、そこではいまから考えればきわめておかしなことがなされていた。それは一つには、個体変異と人種の違いは関係ないと思ってしまったこと。人種差というものは個体変異と別の、何かもっとすごいものだという考え。現在の生物学では、そんなものナンセンスですね。それから二番目の問題は、ごく限られた少数の形質でもって人を分類した。たとえば皮膚の色と髪の毛の形、鼻の形というような特徴、しかも目に見える特徴でもって世界の人種がいくつあるという、いまから考えれば本当にばかばかしい議論をしていた。それが人種分類ということですね。
 それが非常におかしいというのはもちろん、一九六〇年代ぐらいからわかってきました。ただ、なぜおかしいかということが、案外ごまかされてしまっている。つまり、人種分類をやると差別につながるからやめましょうと。それはそれで正しいんです。ところが、困ったことにそうなるとヒトの地理的多様性の研究さえもできなくなるんです。つまり地理的多様性、たとえばなぜ地球上に皮膚の色の差異があるのかということ自体、非常に重要な進化の問題です。それを研究しようとすると、あいつは人種分類をやろうとしているんだろうと言われる。ひがみかもしれないけれども、何かそういう、自然人類学に対する悪口は人種分類に集約されていた気がするんです。〔……〕
 しかしいずれにしても、ヒトの非常に大きな特徴は地理的多様性が大きいということです。ですから、人種がいくつあるかというばかばかしい分類はやめるべきである。けれども、アフリカ生まれのヒトと、ヨーロッパ生まれのヒト、これは統計的に見れば随分違いがありますよということは隠す必要はない〔……〕


・引き続き尾本恵一発言。

逆に一切そういうことは隠して文化的な区別だけならいいだろうということで、民族はいいけど人種はだめだという議論がひところありました。〔……〕ところが、どうも民族という単位自体も非常にあいまいだとわかってきた。とはいえ、人種よりはまだ民族のほうが包含的だと思うんです。というのは、人種というと本当に皮膚の色とか髪の毛、形が念頭に浮かぶけれども、民族というとそれらを含み込んでとにかく人の集団、ある地域にいる人の集団とまず理解される。だから僕は人種分類はいけないけれども民族の分類ならいいかなと思っていたら、どうもそう簡単にはいかない。最近では民族という概念も非常にあやふやであるということですね。

川田  それは、〔……〕「人種・民族の概念を検討する小委員会」で、世界のいろいろな地域で調査をしてきた文化人類学者一〇〇人に、それぞれの地域で「民族」といわれているものの実体について訊ねたアンケートの結果も参照して出した結論でも、それから前に国立民族学博物館で「民族とは何か」の共同研究を三年間代表者としてやっていたとき、みんなの共通理解として出てきたのも、「境界を有する実体の集団としては、民族というものは存在しない」ということでした。
 民族は僕の言葉遣いで言えば、一種の「旗印」なんです。差別されたりしている社会的弱者が自己主張するときなどの旗印としては使われるけれども、有境の実体としては存在しない。だからきわめて状況的なものであって、ここからここまでは何民族だ、ここからここは違うとは言えない。さまざまな規準、一番古典的に言われるのは主観的な「われわれ意識」と、言語、宗教、その他の習俗のいわば客観的な規準の二つですが、われわれ意識だって状況によって変動するものだし、言語、宗教、衣食住の習慣が全部同じ境で重なるなんてことは絶対にありえない。〔……〕
 それと〔……〕主観的な側面に、漠然とした共属感覚と、自覚された共属意識の二つのレベルを区別した方がいいのではないかと思うのです。日常生活で風土や衣食住の仕来りや信仰を共有するところから自生的に育まれる、範囲も明確には定められない共属感覚と、何らかの危機的な状況その他の必要から、他の集団と区別された「われわれ意識」が、多分に政治的なリーダーの主導で、情動的な側面に訴え顕在化されてつくられる共属意識です。民族というものが、きわめて状況的に生みだされるとすれば、それは「民族」としてまとめようとする人々の、神話的な由来や、共通の血や風土など、要するに個人が人為的に選び取れないものをリーダーが人為的に選び取り、情動に訴えて、「民族」が生みだされるのです。