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『歴史学〈ヒューマニティーズ〉』(佐藤卓己 岩波書店 2009)

著者:佐藤 卓己[さとう・たくみ](1960-) 
シリーズ:ヒューマニティーズ

歴史学 - 岩波書店

情報化,グローバル化が加速するメディア社会.公議輿論の足場として歴史的教養の重要性はますます高まっている.こうした現実の課題に対して,「大きな物語」が失われたあと,これまでの歴史学は充分に応えてきただろうか.公共性の歴史学という視点から,理性的な討議を可能にする枠組みとして21世紀歴史学を展望する.


【目次】
はじめに――余は如何にしてメディア史家になりしか [iii-ix]
  グローカル・ヒストリーの困難
  歴史学歴史小説
  二一世紀の歴史意識
  歴史学のフロンティア
目次 [xi-xiii]


一、歴史学ゼミナールの誕生――歴史学はどのように生れたのか 001
  教訓的歴史から歴史研究へ
  大学の歴史学
  フンボルト理念と歴史学ゼミナール
  史料実証主義情報リテラシー
  言語論的転回とカルチュラル・スタディーズ
  ランケの「国民史 = 世界史」
  複製技術時代の文化史
  メディア史の理念型


二、接眼レンズを替えて見る―歴史学を学ぶ意味とは何か 027
  社会史が輝いていた頃
  世界システムとメディア史
  あなたは大衆ですか?――歴史を見る立ち位置
  接眼レンズ(一)「宣伝」――社会主義宣伝としての「ナチ宣伝」
  接眼レンズ(二)「公共性」――歴史家論争とファシスト的公共性
  ベルリンの壁崩壊と街頭公共性
  接眼レンズ(三)「国民化」――「大衆の国民化」の射程
  ナショナリズム国民主義である
  「ナショナリズム」の現代化


三、歴史学の公共性 歴史学に在会の役にのか 067
  趣味の歴史と大衆の趣味
  国民大衆雑誌の公共性
  戦時出版バブルの「発見」
  言論弾圧という記憶の再審
  「鈴木庫三日記」を読む
  終戦記念日、「記憶の五五年体制」への挑戦
  八月一五日に終わった戦争?
  「記憶の五五年体制」と終戦記念日の成立
  歴史の共有は可能か?――対話可能な歴史へ


四、メディア史が抱え込む未来―歴史学の未来はどうなるのか 101
  メディア史の発展段階論
  進歩史観と情報様式/メディア史の可能性
  広告媒体〔メディア〕の動員体制
  マス・コミュニケーションはプロパガンダ
  「世論の輿論化」の未来へ


五、歴史学を学ぶために何を読むべきか 123
  「読む歴史」のために
  「書く歴史」のために


おわりに――「ため息の歴史家」になりたい(二〇〇九年四月 佐藤卓己) [137-141]




【抜き書き】


・本書の冒頭「はじめに――余は如何にしてメディア史家になりしか」(pp. iii-ix)。サイトでも公開されている箇所。

 グローカル・ヒストリーの困難
 「歴史学」が日本史・西洋史東洋史という空間,古代史・中世史・近世史・現代史の時間,伝統的な政治史・経済史から新しい女性史・民衆史・心性史などジャンル,その総体を意味するのであれば,〔……〕個人の能力を超えている.中国古代史,ヨーロッパ中世世界,さらに日本近世史と現代アメリカ史をすべて教科書以上の水準で語れる者が,今日,歴史学者と目されているだろうか.
 歴史学の教科書や概説書の多くが共同執筆される理由もそこにある.グローバル化する現実社会で人々が歴史学に求める期待に,ますます細分化する歴史研究の実践は応えているだろうか.〔……〕研究者が誠実であればあるほど,調査は細部に向かうだろう.いまの段階で見通しを答えようとしない研究者なら,より対象を絞り込んだ数年後に同じ問いに答えられるはずはない.ローカルな一次史料を追う研究者が,同じレベルで「そちら」に対象を移す可能性はまずないからである.
 グローバル化する生活世界の中で行わなければならないローカルな歴史研究,つまりグローカル・ヒストリーは誰にとっても満足のいく展望を困難にしている.

 歴史学歴史小説
 研究する側にそうした困難があるとすれば,歴史学を学ぶ側にも大きな誤解がある.歴史家とは通史を書くことだと思っている学生は少なくない.クロマニヨン人,あるいはメソポタミア,いやギリシャ・ローマから始まる「世界史」,旧石器時代から古代,中世,近世,現代と順番に学ぶ「日本史」は,高等学校までの歴史「教科」であって,歴史「学」ではない.
 右に述べたように,多くの歴史研究者は限定された時期,場所,ジャンルに対象を絞って史料から事例検証する作業を行っている.つまり,歴史学の研究成果とは専門誌に掲載された個別論文(モノグラフィー)であり,歴史学の実践はこうした個別論文を読み,書くことから始まる〔……〕.
 だから,古代ローマ史の講義にたとえば塩野七生ローマ人の物語』,日本近代史の講義に司馬遼太郎坂の上の雲』,そうした大河ロマンの感動を求めるのは無いものねだりである〔……〕.歴史小説は確かに過去を舞台にしているが,登場人物は〔……〕作家が生きている時代特有の感情や思考パターンを過去に投影したものである〔……〕.伝統的な歴史学の方法とは,主体である歴史家が客体である対象を解釈することである〔……〕.
 だとすれば,歴史学とは,客体との距離を意識しつつ自己を観察することにほかならない.自分が何者か,どこからきて,どこにおり,どこにいくのか,そうした疑問に答えるためには,連続する時間の意味を理解する必要がある.そして自分の存在が過去に規定されていると認識したとき,過去の規定性を超えて一歩を踏み出すことが可能になる.
 こうした存在と時間の意味を自己の内面に求めるものを哲学と呼ぶとすれば,自己の外部に求めるものが歴史だといえるかもしれない.だが,このように哲学と歴史を分けることは実際にはできない.他者の時間を省察することは,すなわち自己の時間に意味を与える作業となるからである.その意味で歴史学にとって「自己」と「時間」への意識は特に重要である.



pp. 73-75
 以下は、佐藤卓己[ed](2000)『ヒトラーの呪縛』について。

 私は大学院生とともに、小説、映画、漫画、プラモデル、ロック音楽、陰謀論、インターネットなど可能な限りのデータを収集・分析するとともに、ネオ・ナチ右翼、制服マニア、オカルト作家などの本音を聞き出すべくインタビューも試みた。そこで、私は「ヒトラーが勝った文化戦争」に遭遇することになった。ヒトラーだけを比較を絶した悪のシンボルとする戦後文化が、この逆転した世界を可能にしたのである。ヒトラーが絶対悪の象徴となったことで、逆にヒトラーは現実政治を測る物差しとなった。キリスト教世界においては、絶対善である神からの距離によって人間の行為は価値づけられていた。一九世紀末にニーチェが宣言した「神の死」以後の今日、絶対悪のヒトラーがあらゆる価値の参照点に立っている。これを「ヒトラーの勝利」と呼ばないで、いかなる勝利が存在しようか。
 また、人間を悪魔化することは、人間の神格化への誘惑となる。ありあまる自由に息苦しさを感じ、価値の逆転を狙う「負け組」の目にそれは「神」と映らないだろうか。いまのところ、絶対悪=ヒトラーに帰依する社会的弱者は少数に過ぎないだろう。しかし、格差社会の進展の中で絶望した「負け組」が大量発生しないという保証はない。圧倒的多数の負け組を生み出すグローバル化の中で、ヒトラー民主主義を回避するためにはヒトラーの悪魔化よりも人間化こそが有効に思える。
 それは歴史の語り口の問題でもある。ナチズムに関する歴史叙述では、しばしば「(許すことが)できない」「(否定)せねばならない」などといった規律=訓練(ディシプリン)の話法が多用されてきた。しかし、この話法はそもそもナチズムの話法ではなかったか。ファシズムの話法でないファシズムの叙述がいまこそ必要なのである。さらに言えば、自らがファシストになる可能性に目を閉ざさないファシズム研究の必要性である。