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『言説分析の可能性――社会学的方法の迷宮から』(佐藤俊樹, 友枝敏雄[編] 東信堂 2006)

編集:佐藤 俊樹
編集:友枝 敏雄
著者:遠藤 知己
著者:北田 暁大
著者:坂本 佳鶴恵
著者:橋本 摂子
著者:中河 伸俊
著者:橋爪 大三郎
著者:鈴木 譲
Cover Design:CRAFT Otomo
シリーズ 社会学のアクチュアリティ:批判と創造;5


言説分析とは何か? 社会学との関係は? その意義と方法をめぐって錯綜した論議が沸騰するなか、メディア論や知識社会学、計量分析、構築主義等との異同を解き明かし、社会科学の新たな武器としての可能性を追求する。


【目次】
はしがき [i-vi]
目次 [vii-xii]


序章 閾のありか――言説分析と「実証性」[佐藤俊樹] 003
1 氾濫する「言説」 003
2 フォーマライゼーションと言説分析 004
  言説分析の制度化、あるいは健全化
3 意味が確定できる単位 007
4 「実証性」とは何か 010
5 テクストとデータの並行性[パラレリズム] 014
6 方法としての言説分析 017
7 言葉を語ることへ 019
注 023
文献 024


第1章 言説分析とその困難(改訂版)――全体性/全域性の現在的位相をめぐって[遠藤知己] 027
1 挟み撃ち 027
2 言説社会のリアリティ 030
3 素朴唯名論の地平 033
4 社会学と言説分析 040
5 フーコーの文体 044
6 困難さのただなかで 048
注 056
文献 057


第2章 フーコーマクルーハンの夢を遮断する――フリードリッヒ・キットラーの言説分析[北田暁大] 059
1 フーコーマクルーハン)批判をめぐって 060
  (1) フーコーの図書館 
  (2) 言説分析の単位をめぐって 
2 キットラーの賭け――書き込みのシステムを書く 071
  (1) 分析単位の断層 
  (2) キットラーの「遺産」 
3 賭博師キットラー 083
注 085
文献 086


第3章 メディアが編む国家・世界そして男性――サッカーゲームの言説分析[坂本佳鶴恵] 089
1 メディア・イベントとしてのワールドカップ 089
2 テレビ中継 092
3 試合中継の分析 095
4 「日本」報道の意味 098
5 世界という言説 106
6 女性向け言説 111
7 おわりに 114
注 116
文献 119


第4章 空白の正義――「他者」をめぐる政治と倫理の不/可能性について[橋本摂子] 123
1 理想郷の陰 123
2 「正しさ」の行方 126
3 跳躍としての解釈 131
4 表象の暴力、あるいは表象という暴力 138
5 おわりに 144
注 147
文献 150


第5章 構築主義と言説分析[中河伸俊] 153
1 社会問題の構築主義の視座とプログラム 153
2 言説分析と問題カテゴリー 156
3 構築主義のレトリック分析 159
4 構築主義的な言説分析の困難? 167
文献 177


第6章 知識社会学と言説分析[橋爪大三郎] 183
1 はじめに 183
2 知識社会学 184
3 言説分析 191
4 言説分析以降 198
文献 203


第7章 言説分析と実証主義[鈴木譲] 205
1 はじめに 205
2 「言説分析の実証主義的考察」と「実証主義の言説分析的考察」 209
3 実証主義と理念主義 214
4 言説分析の位置づけ 219
5 「言説分析」と「言説の質的分析」 226
文献 231


終章 言説分析と社会学[友枝敏雄] 233
1 言説分析の新しさ 233
2 言説分析の定義 235
3 社会学における理論構成 238
  (1) 理論とメタ理論 
  (2) 純粋理論と規範理論
  (3) 概念構成と命題構成 
4 言説分析の独自性・特異性――社会学理論からの隔たり 244
5 ハードな言説分析か、ソフトな言説分析か 249
注 252
文献 252


事項索引 [254-255]
人名索引 [256]
執筆者紹介 [257-258]





【関連文献】

構築主義を再構築する』(赤川学 勁草書房 2006)





【抜き書き】
 軽い抜き書きを、遠藤知己「言説分析とその困難」から。


□ pp. 33-34

〔……〕このようなコトバの実定性への注目を「言語論的転回(linguistic turn)」として承認するのも、現在ではもはや、別種の思考停止に帰結してしまう。社会学においても、構築主義(constructivism)が流行する九〇年代以降、言説という概念は、じつはこの思考停止の平面上で作動している。じっさい、「言説」という術語によって社会学関係者が第一に想起するのは、今やフーコーの言説分析ではなく構築主義だろう。


□pp. 37-38

 かかる「対立」や「錯綜」の構図が構築主義の内部でどう解かれるかには、筆者はあまり関心がない。ただ興味深いのは、社会の安易な実体視をあれほど強く批判する構築主義だが、やっていることは要するに、「社会は客観的に取り出すことはできない、だが社会に対する言説は客観的に取り出すことができる」という、「客観性」の一段ずらしであるということだ。「厳格派」にせよ「コンテクスト派」にせよ、ずらされた「客観性」の調達先がちがうだけで、この点については本質的な差異はない。だが、もし本当に「社会をめぐる言説が客観的に存在する」とすれば、それは「社会が客観的に存在する」という事態と実質的にはほとんど差がなくなる。言語ゲームの領域が客観的に指示できるのなら、言語ゲームという観念自体、意味を喪失するのだ。このことは、経験科学的客観性を目指す者にも、言説独自の水準を維持したい者にも、「客観性」をずらすことの本当の意味は何かという重い問いを、等しく突きつけることになるはずである。


□40ページ

〔……〕それ自体があまりにも二〇世紀的なモメントに拘束された言説であるがゆえに、この思考様式によっては、言説性(discursivity)を真の意味で浮上させることはできないだろう。現在の社会学における言説概念の導入は、ミシェル・フーコーの歴史記述(考古学/系譜学)および知と権力の共犯をめぐるディスクール分析の手法がもたらした複数的な衝撃に負うところがきわめて大きい。フーコー理論やその言説概念が大衆的に平板化することで、現在の諸理論における「言説」の繁茂がもたらされたのである。