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目次とメモを置いとく場

『ゲーデル,エッシャー,バッハ――あるいは不思議の環』(Douglas R. Hofstadter[著] 野崎昭弘,はやしはじめ,柳瀬尚紀[訳] 白揚社 1985//1979)

原題:Gödel, Escher, Bach: an Eternal Golden Braid
著者:Douglas Richard Hofstadter(1945-) 認知科学、計算機科学。
訳者:野崎 昭弘[のざき・あきひろ] (1936-) 数学(アルゴリズム論)。
訳者:柳瀬 尚紀[やなせ・なおき] (1943-2016) 翻訳。
訳者:はやし はじめ(1933-) 翻訳。
NDC:410.1 数理哲学


ゲーデル、エッシャー、バッハ 20周年記念版|白揚社 -Hakuyosha-


【目次】
献辞 [005]
目次 [006-007]
図版リスト [008-009]
GEB概要 [010-016]


PART I ―― GEB 017

序論 音楽=論理学の捧げもの 019
著者 019
バッハ 019
カノンとフーガ 024
無限に上昇するカノン 026
エッシャー 029
ゲーデル 032
数理論理学=あらまし 036
不思議の環を消す 038
無矛盾性、完全性、ヒルベルトの計画 040
バッベジ、コンピュータ、人工知能…… 041
……そしてバッハ 043
ゲーデルエッシャー、バッハ』 044

[対話劇]三声の創意〔インヴェンション〕 046


第01章 MUパズル 050
形式システム
定理、公理、規則
システムの内と外
システムから飛び出る
M方式、I方式、U方式
決定手続き

[対話劇]二声の創意〔インヴェンション〕 あるいは亀がアキレスに言ったこと(ルイス・キャロル) 059


第02章 数学における意味と形 063
pqシステム
決定手続き
下から上か、上から下か
同型対応が意味を引き出す
無意味な解釈と意味ある解釈
意味の能動性と受動性
どちらにもとれる!
形式システムと現実
数学と記号処理
算術の基本法
理想的な数
ユークリッドの証明
無限の回避

無伴走アキレスのためのソナタ 077


第03章 図と地 080
素数合成数
tqシステム
合成数の把握
素数の誤った特徴づけ
図と地
音楽における図と地
再帰的に可算な集合と再帰的集合
地でなく図としての素数

酒落対法題 091


第04章 無矛盾、完全性、および幾何学 098
隠された意味と明示された意味
「酒落対法題」の明示された意味
「酒落対法題」の隠された意味
「酒落対法題」とゲーデルの定理との対応
フーガの技法
ゲーデルの定理がひき起す問題
修正pqシステムと矛盾
無矛盾性の回復
ユークリッド幾何学の歴史
ユークリッドの多くの面
無定義述語
多重の解釈の可能性
無矛盾性のいろいろ
仮想的な世界と無矛盾性
形式システムの他のシステムへの埋めこみ
視覚における安定性の層
数学は、考えられるどんな世界でも同じだろうか?
数論は、考えられるどんな世界でも同じだろうか?
完全性
ある解釈がどのように完全性を満たし、あるいは破るのだろうか?
形式化された数論の不完全性

小さな和声の迷路 118


第05章 再帰的構造と再帰的過程 141
再帰性とは何か
押し込む、戻る、そして山積み
音楽における山積み
言語における再帰性
再帰的推移図
飾りつき名詞、結合句、すてきな名詞
「底入れ」と怪層性
節点の展開
図Gと再帰
混沌とした数列
二つの驚くべき再帰的グラフ
物質の最深層における再帰性
コピーと同一性
プログラミングと再帰性=規格性、ループ、手続き
チェス・プログラム中の再帰性
再帰性と予測不能

音程拡大によるカノン 166


第06章 意味の所在 171
ひとつの事物がつねに同一ではないのはどんなときか?
情報担い手と情報解き手
遺伝子型と表現型
風変りな同型対応と散文的同型対応
ジュークボックスと引き金
DNAと化学的文脈の必然性
UFOの解読は言うほうが無理
メッセージ理解のレベル
架空の空景
英雄的な解読者たち
任意のメッセージの三つの層
シュレーディンガーの非周期的結晶
三つのレベルに対する言語
意味の「ジュークボックス」説
ジュークボックス説に抗して
知能が自然のものなら意味は固有である
地球覇権主義
宇宙空間の二枚の金属板
ふたたびバッハ対ケージ
DNAのメッセージはどこまで普遍的か?

半音階色の幻想曲、そしてフーガ演争 190


第07章 命題計算 194
言葉と記号
命題計算に使う記号と最初の規則
論理式
他の推論規則
空想規則
再帰性と空想規則
空想規則の逆
記号の期待されている解釈
規則の表の完成
規則の正当化
このシステムで遊ぼう
半‐解釈
巌頭の斧
定理に対する決定手続きはあるだろうか?
われわれにシステムの無矛盾性がわかるだろうか?
ふたたびキャロルの対話
近道と導かれた諸規則
より高いレベルの形式化
システムの強さと弱さについて
証明と導出
矛盾の取り扱い

蟹のカノン 210


第08章 字形的数論 214
「蟹のカノン」と間接的自己言及
TNTで表現できるとよい事柄
数詞
変数と項
原子と命題計算の記号
自由変数と限定記号
見本文の翻訳
仕事のコツ
読者のための翻訳パズル
正しいか否かの見わけ方
論理式の構成規則
翻訳の練習をもう少し
非・字形的システム
TNTの五つの公理と最初の諸規則
ペアノの五つの公準
TNTの新しい規則=特殊化と一般化
存在記号
等号と「次」についての規則
非合法的近道
特殊化と一般化がなぜ制限されたか?
何かが欠けている
ω‐不完全システムと決定不可能な列
ユークリッドTNT
ω‐矛盾と矛盾とは違う
最後の規則
ある長い導出
TNTにおける緊張と解決
形式的推論と非形式的推論
数論の専門家は失業する!?
ヒルベルトの計画

無の捧げもの 238


第09章 無門とゲーデル 251
禅とは一体全体?
無門和尚
二元論に対する禅の闘い
イズム、Un方式、雲門
禅とタンボリア
エッシャーと禅
ヘミオリアとエッシャー
因陀羅の網
無門、無を論ず
無門からMUパズルへ
無門、MUパズルの解き方を示す
ゲーデル数とMIUシステム
字形的な見方と算術的な見方
MIU可産数
TNTを参照して可産数への疑問に答える
MUMONの二重性格
コードと陰伏的意味
ブーメラン=ゲーデル数付けしたTNT
TNT数=数の再帰可算集合
TNTは自分自身を呑み込もうとする
G=自分自身についてコードで語る文字列
Gの存在がTNTの不完全性を招く
無門の捨て台詞


PART II ―― EGB 277
前奏曲…… 279


第10章 記述のレベルとコンピュータ・システム 288
記述のレベル
まとまりを作ることとチェス
よく似たレベル
コンピュータ・システム
指令とデータ
機械語アセンブリ言語
プログラムを翻訳するプログラム
より高いレベルの言語、コンパイラインタープリタ
自助独立
走っているプログラムを記述するためのレベル
マイクロプログラミングとオペレーティング・システム
利用者のためのクッションとシステムの保護
コンピュータは超‐柔軟だろうか? 超‐厳格だろうか?
プログラマーを予測する
AIの進歩は言語の進歩である
偏執病者とオペレーティング・システム
ソフトウエアとハードウエアの境界
中間的レベルと天候
龍巻からクォークまで
超伝導=くりこみの逆説
「封鎖」
まとめることと決定論との取引
「コンピュータはしろといわれたことしかできない」
システムの二つの型
随伴現象
心と脳

……フーガの蟻法 312


第11章 脳と思考 337
思考をめぐる新たな展望
内包性と外延性
脳の「蟻たち」
脳の中のより大きな構造
脳から脳への対応づけ
脳の過程の局所化=ひとつの謎
視覚処理の特殊性
「おばあちゃん細胞」?
ニューロン・モジュールに向う漏斗作用
思考過程を媒介するモジュール
活性的記号
クラスと事例
原型〔プロトタイプ〕原理
事例をクラスから切り離すこと
記号同士を解きほぐすことのむずかしさ
記号=ソフトウエアかハードウエアか?
知能は取りはずし可能か?
記号の単離は可能か?
昆虫の記号
クラス記号と想像の世界
物理学の直観的な法則
手続き型知識と宣言型知識
視覚的イメージ作用

英仏独日組曲 366


第12章 心と思考 370
心はたがいに対応できるか?
異なる意味論ネットワークの比較
「邪歯羽尾ッ駆」の翻訳
USAとASU
大逆転
中心性と普遍性
言語と文化はどれだけ思考の通路になるか?
ASUでの旅行と旅程
ありうる、あらわ梅ぽい、あきれた経路
小説翻訳のさまざまな流儀
高レベルでのプログラムの比較
高レベルでの脳の比較
潜在的信念、潜在的記号
自分という感じはどこにあるか?
下位システム
下位システムと共有コード
自己記号と意識
ルカスとの出会い

アリアとさまざまの変奏 392


第13章 ブーとフーとグー 406
自己認識と混沌
表現可能性と冷蔵庫
超数学での巌頭の斧
正しいフィルターの選択による秩序の発見
言語ブーの根源的ステップ
反復と上界
ブーの規約
条件文と分岐
自動的にまとめる
ブー検定
ブー・プログラムは一連の手続きを含む
ちょっと練習を……
書けるということと表せるということ
原始再帰的述語はTNTで表現可能である
原始再帰的でない関数は存在するか?
ブーグロプ村、通し番号、青いプログラム
対角線論法
カントールの本来の対角線論法
対角線論法は何を証明するのか?
対角線論法の狡滑な反復可能性
ブーからフーヘ
停止するフー・プログラムと停止しないフー・プログラム
チューリングの策略
停止性の検定は魔法のようなもの
フーグロプ村、通し番号、緑のプログラム
停止性の検定によって赤いプログラムが得られる
グーは……
……神話である
チャーチとチューリングの提唱
用語=一般再帰性および部分再帰性

G線上のアリア 429


第14章 形式的に決定不可能なTNTと関連するシステムの命題 436
アコヤ貝の二つの着想
第一の着想=証明対
「証明対であること」は原始再帰的であり……
……したがってTNTで表現できる。
証明対のパワー
減算から第二の着想が生れる
算術的にクワイン化する
最後の藁
TNTは「伯父さん!」という
「は算術的にクワイン化すると非定理を生む」
ゲーデルの第二の定理
TNTはω‐不完全である
穴をふさぐための二つの方法
自然数
超自然的定理は無限に長い証明をもつ
超自然的加法と乗法
自然数は役に立つ……
……しかし、超自然数は実在するだろうか?
幾何学の枝分かれと物理学者たち
数論の枝分かれと銀行員たち
数論の枝分かれと超数学者たち
ヒルベルトの第十問題と亀

誕生日のカンターターターター 456


第15章 システムからの脱出 460
さらに強力な形式システム
ゲーデルの方法の再適用
多岐
本質的不完全性
ルカ受難曲
次元をひとつ上がる
知的システムの限界
順序数に名前をつける再帰的規則は存在しない
ルカスに対するその他の反論
自己超越――現代の神話
広告と枠組の工夫
シムプリチオ、サルヴィアチ、サグレド ――どうして三人なのか?
禅と「外に出ること」

パイプ愛好家の教訓的思索 475


第16章 自己言及と自己増殖 490
陰伏的自己言及文と明示的自己言及文
自己増殖プログラム
コピーとは何か?
自己増殖する歌
「蟹」プログラム
エピメニデス、海を渡る
自分自身のゲーデル数を印刷するプログラム
ゲーデル型の自己言及
拡大による自己増殖
キム型自己増殖
原本〔オリジナル〕とは何か?
字伝学ゲーム
ストランド、塩基、酵素
複製モードと二重ストランド
アミノ酸
翻訳と字伝学的コード
好素の三次構造
句読点、遺伝子、およびリボソーム
パズル=字伝学ゲームの自増
字伝学の中心的な教え
不思議の環、TNT、および実際の遺伝学
DNAとヌクレオチド
伝令RNAリボソーム
アミノ酸
リボソームとテープレコーダー
遺伝コード
三次構造
タンパク質機能の還元論的な説明
転移RNAリボソーム
句読点と読み取りの枠組
要約
タンパク質と音楽における構造と意味のレベル
ポリリボソームと二層のカノン
リボソームとタンパク質、どちらが先か?
タンパク質の機能
十分な力をもつ支援システムの必要性
DNAはいかにして自らを複製するか?
DNAの自己増殖法とクワイン化との比較
DNAの意味のレベル
中心的な教絵〔おしえ〕
中心的な教絵の中の不思議の環
中心的な教絵と「酒落対法題」
大腸菌とT4ファージ
分子のトロイの木馬
認識、変装、ラベル貼り
ヘンキン文とウイルス
陰伏的ヘンキン文 vs. 明示的ヘンキン文
ヘンキン文と自己組立て
二つの重要な問題=細胞分化と形態発生
フィードバックとフィードフォーワード
抑制因子と誘起因子
フィードバックと不思議の環の比較
分化の二つの簡単な例
細胞中のレベル混合
生命の起源

マニフィ蟹ト、ほんまニ調 540


第17章 チャーチ、チューリング、タルスキ、その他 550
形式システムと非形式システム
直観と堂々たる蟹
チャーチとチューリングの提唱
公共過程形
スリニヴァサ・ラマヌジャン
「学者馬鹿」
チャーチとチューリングの提唱の同型対応版
現実世界についての知識の表現
うまくすくい取れない過程
還元主義的信仰箇条
AIと脳のシミュレーションの進歩は平行的?
美、蟹、そして魂
不合理なものと合理的なものとは異なるレベルで共存できる
ルカス再論
AIの土台
チャーチの定理
タルスキの定理
マニフィ蟹卜の不可能性
形の二つの型
意味は認知構造との関連から生れる
美と真実と形
エピメニデスのパラドクスの神経基質

SHRDLUよ、人の巧みの慰みよ 575


第18章 人工知能=回顧 583
チューリング
チューリング・テスト
チューリングは反論を予期する
「パリー、医者に会う」
人工知能小史
機械翻訳
コンピュータ・チェス
サミュエルのチェッカー・プログラム
プログラムが独創的になるのはいつか?
コンピュータ音楽の作者は誰か?
定理の証明と問題還元
わが家の愛犬シャンディと骨
問題空間の変更
ふたたびI方式とM方式について
数学へのAIの応用
AIの核心=知識の表現
DNAとタンパク質が展望を開く
知識のモジュール性
論理的フォーマリズムにおける知識の表現
演緯的知覚 vs. 類推的知覚
コンピュータ俳句からRTN文法へ
RTNからATN
小さなチューリング・テスト
思考のイメージ
高レベル文法……
音楽の文法?
ウィノグラードのプログラムSHRDLU
SHRDLUの構造
プランナーは問題還元を容易にする
構文論と意味論

コントラファクトゥス 622


第19章 人工知能=展望 632
「ほとんど」状況と仮定法
安定性の層
枠組〔フレーム〕と入れ子型文脈
ボンガルド問題
前処理は最少語彙を選ぶ
高レベル記述
怪層的プログラム
概念ネットワーク
滑脱と試案性
メタ記述
柔軟性が重要
焦点作用とフィルター作用
科学とボンガルド問題の世界
別の型の思考との接続
メッセージ受け渡し言語、フレーム、そして記号
酵素人工知能
分裂と融合
蟹のカノンの後成説
概念骨格と概念写像
観念の組み換え
抽象作用、骨格、アナロジー
多重表現
入口
強制された整合
とりあえずまとめると……
創造性と乱雑さ
すべてのレベルでパタンを拾うこと
言語の柔軟性
知能と感情
AIの道はまだ遠い
一〇の質問と憶説

樹懶〔なまけもの〕のカノン 670


第20章 不思議の環、あるいはもつれた階層 673
機械は独創性をもちうるか?
どのもつれた階層の下にも不可壊なレベルがある
自己修正ゲーム
ふたたび著者の参画関係について
エッシャーの『描いている手と手』
脳と心=記号のもつれを支えるニューロンのもつれ
政府の中の不思議の環
科学とオカルトにかかわるもつれ
証拠の本性
自分を見る
ゲーデルの定理と他の学問分野
内省と狂気=ひとつのゲーデル的問題
われわれは自分の心と脳を理解できるか?
ゲーデルの定理と個人の非在
科学と二元論
現代の音楽とアートにおけるシンボル vs. オブジェ
マグリットの意味論的幻想
現代アートの「コード」
ふたたび、イズム
心を理解する
知性の偶有的不可解さ?
未決定性は高レベルの観点と不可分である
本質的高レベル現象としての意識
意識の鍵としての「不思議の環」
自己シンボルと自由意志
あらゆるレベルの交差するゲーデルの渦
あらゆるレベルの交差するエッシャーの渦
あらゆるレベルの交差するバッハの渦

六声のリチェルカーレ 710


訳者あとがき [734-743]
  何事もいつかは終る(野崎昭弘) 734
  GEBの文明史的意(はやし・はじめ) 736
  ア苦労スティックな本や苦談戯(柳瀬尚紀) 739
  『GEB』とD・R・ホフスタッター(K・T) 741
参考文献 [745-757] ([x-xxii])
人名索引 [758-761] ([vi-ix])
事項索引 [762-765] ([ii-v])




【図版リスト】

第1図 ハウスマン『バッハ』(1748) 
第2図 メンツェル『サンスーシのフルート演奏会』(1852) 
第3図 フリードリッヒ大王の主題
第4図 「王の命により、主題その他が…」
第5図 エッシャー『滝』(1961)
第6図 エッシャー『上昇と下降』(1960)
第7図 エッシャー『反射球体と手』(1935)
第8図 エッシャー『メタモールフォーゼ II』(1939-40)
第9図 クルト・ゲーデル
第10図 エッシャーメビウスの帯II』(1961)
第11図 MIUの樹状図
第12図 エッシャー『空の城』(1928)
第13図 エッシャー『解き放ち』(1955)
第14図 エッシャー『モザイクII』(1957)
第15図 MAIL BOX
第16図 エッシャー『鳥で平面を埋めつくす』(1942)
第17図 S・キム『図と図の図』
第18図 TNTの文字列のクラス間対応図
第19図 バッハ『フーガの技法」最終ページ
第20図 ゲーデルの定理の底にある原理
第21図 エッシャーバベルの塔』(1928)
第22図 エッシャー『相対性』(1953)
第23図 エッシャー『凸面と凹面』(1955)
第24図 エッシャー『爬虫類』(1943) 
第25図 クレタの迷路 
第26図 対話篇「小さな和声の迷路」の構造 
第27図 飾りつき名詞とすてきな名詞の再帰的推移図 
第28図 すてきな名詞のRTN【Recursive Transition Network】のひとつの節点を再帰的に展開したもの 
第29図 G図およびH図とその拡張【a G図 b 拡張G図 c H図 d 拡張H図】
第30図 さらに拡張して節点番号をふったG図 
第31図 フィボナッチ数の再帰的推移図 
第32図 関数INT(x)のグラフ 
第33図 再帰的な置き換えでINTおよびG図を作り出せる骨格 
第34図 G図
第35図 ファインマン図 
第36図 エッシャー『魚とうろこ』(1959) 
第37図 エッシャー『蝶』(1950) 
第38図 三目並べの出発点における着手と応手の枝分れ 
第39図 ロゼッタストーン大英博物館蔵] 
第40図 さまざまな書体 
第41図 TGAC図 
第42図 エッシャー『蟹のカノン』(1965) 
第43図 蟹の遺伝子のごく短い切片 
第44図 蟹のカノン――『音楽の捧げもの』から 
第45図 エッシャー『ラ・メスキータ』(1936) 
第46図 エッシャー『三つの世界』(1955) 
第47図 エッシャー『露滴』(1948) 
第48図 エッシャー『もうひとつの世界』(1947) 
第49図 エッシャー『昼と夜』(1938) 
第50図 エッシャー『表皮片』(1955) 
第51図 エッシャー「水溜り』(1952) 
第52図 エッシャー『さざ波』(1950) 
第53図 エッシャー『三つの球体II』(1946) 
第54図 エッシャーメビウスの帯II』(1963) 
第55図 ピエール・ド・フェルマ 
第56図 エッシャー『立方体とマジックリボン』(1957) 
第57図 「まとめる」とは… 
第58図 アセンブラコンパイラ 
第59図 知的プログラムを創造するには… 
第60図 著者自身による図 
第61図 エッシャー『蟻のフーガ』(1953) 
第62図 著者自身による図 
第63図 蟻の群れがつくる橋 
第64図 著者自身による図 
第65図 ニューロンの模式図 
第66図 左側から見た人間の脳 
第67図 ニューロンの見本のパタンに対する応答 
第68図 活性化記号 
第69図 働き蟻によるアーチ建設 
第70図 著者の「意味論ネットワーク」 
第71図 エッシャー『秩序と混沌』(1950) 
第72図 呼び出しのないブー・プログラム 
第73図 ゲオルク・カントール 
第74図 エッシャー『上と下』(1947) 
第75図 TNTの枝分かれ 
第76図 エッシャー『龍』(1952) 
第77図 マグリット『影』(1966) 
第78図 マグリット『恩寵に浴して』(1959) 
第79図 タバコ・モザイク・ウイルス 
第80図 マグリット『美しい捕虜』(1947) 
第81図 12の「自己呑み込み」テレビ画面 
第82図 マグリット『空気と歌』(1964) 
第83図 エピメニデスのパラドクス 
第84図 エピメニデスのパラドクスの氷山 
第85図 クワイン文の石けん 
第86図 自己増殖する歌 
第87図 字伝コード 
第88図 字伝学的酵素の3次構造 
第89図 字伝学的酵素の結合嗜好 
第90図 字伝学の中心的教え 
第91図 DNAを構成する4つの塩基[Hanawalt and Haynes, The Chemical Basis of Life, W. H. Freeman, 1973] 
第92図 塩基の水素結合 
第93図 DNA二重らせんの分子模型
第94図 字伝コード 
第95図 ミオグロビンの骨組構造 
第96図 リボソームを通りぬけるmRNAの切片[スコット・キム画] 
第97図 ポリリボソーム
第98図 二層の分子カノン 
第99図 中心的な教絵 
第100図 ゲーデル・コード 
第101図 T4バクテリアウイルス 
第102図 ウイルスの侵食 
第103図 T4の形態発生 
第104図 エッシャーカストロバルバ』(1930) 
第105図 スリニヴァサ・ラマヌジャン 
第106図 自然数の振舞いは、人間の脳にもコンピュータ・プログラムにも… 
第107図 神経細胞の活動上を漂いながら、脳の記号のレベルは世界を… 
第108図 心の記号レベルとコンピュータの電子的基質 
第109図 脳は合理的であっても、心は… 
第110図 「大きな赤いブロックをとって」 
第111図 「いま持っているのより大きいブロックを見つけて、箱に…」 
第112図 「赤いブロックを2つとね。それから緑のキューブかピラミッドを…」 
第113図 アラン・チューリング 
第114図 愚者の橋の証明 
第115図 AからBへ行くためのゼノンのきりがないゴールの木 
第116図 アラビアの意味深長な物語
第117図 マグリット『心の建築』(1931) 
第118図 「ピラミッドを支える赤いキューブ」の手続き表現 
第119図 ボンガルド問題51 
第120図 ボンガルド問題47 
第121図 ボンガルド問題91 
第122図 ボンガルド問題49 
第123図 ボンガルド問題を解くためのプログラムの概念ネットワークの一部 
第124図 ボンガルド問題33 
第125図 ボンガルド問題85-87 
第126図 ボンガルド問題55 
第127図 ボンガルド問題22 
第128図 ボンガルド問題58 
第129図 ボンガルド問題61 
第130図 ボンガルド問題70-71 
第131図 対話篇「蟹のカノン」の概要図 
第132図 忠体 
第133図 「樹懶のカノン」――『音楽の捧げもの』から 
第134図 「著者の三角形」 
第135図 エッシャー『描いている手と手』(1948)
第136図 『描いている手と手」の抽象的図式 
第137図 マグリット『常識』(1945-46)
第138図 マグリット『ふたつの謎』(1966) 
第139図 スモーク・シグナル 
第140図 パイプ・ドリーム 
第141図 マグリット『人間の条件I』(1933)
第142図 エッシャー『プリントギャラリー』(1956)
第143図 『プリントギャラリー』の抽象的図
第144図 前の図式の崩れた形 
第145図 さらに崩れた形 
第146図 さらにまた崩れた形 
第147図 バッハの『無限に上昇するカノン』の完全に閉じたループ
第148図 ピアノ用のシェパード音階
第149図 エッシャー『言葉』(1942)
第150図 チャールズ・バッベジ
第151図 蟹の主題
第152図 「六声のリチェルカーレ」最終ぺージ ――『音楽の捧げもの』から





【抜き書き】
・ルビは亀甲括弧〔 〕に括った。



・本書「序論」の末尾にある、本書の構成を説明した部分。

   ゲーデルエッシャー、バッハ』
 本書は風変りな構成になっている。対話劇と各章とが対位法をなすのだ。この構成の目的は新たな概念を二度提示できることにある。新たな概念のほとんどすべては、まず対話劇のなかで比嚥的に提示され、一連の具体的で視覚的なイメージを生み出す。そしてそれにつづく章を読んでいるうちに、それらのイメージ、同じ概念のもっとまじめで抽象的な提示の直観的な背景となる。対話劇の多くで、著者はうわくはあるひとつの観念を語っているかのようであるが、しかし実はうっすらと偽装しつつ、別の観念を語っている。
 対話劇の登場人物は、もともとアキレスと亀だけだった。エレアのゼノンからルイス・キャロル経由で思い浮んだものたちだ。パラドクスの創案者エレアのゼノンは、紀元前五世紀の人物である。そのパラドクスのひとつはアキレスと亀を主役にした寓話であった。ゼノンがこの陽気なコンビを創り出した話は、私の最初の対話劇『三声の創意〔インヴェンション〕』に語られる。一八九五年、ルイス・キャロルは彼自身の新たな無限パラドクスを例証する目的でアキレスと亀をよみがえらせた。キャロルのパラドクスはもっともっと広く知られるに値するもので、本書において重要な役割を演ずる。原題は『亀がアキレスに言ったこと』であるが、ここでは『二声の創意〔インヴェンション〕』として転載した。
 対話劇を書き始めたとき、なんとなく私はそれらを音楽の形式と関係づけてしまった。いつそうなったかは記憶がない。ただ、ある日、最初のほうの対話の上に「フーガ」と書いたのを覚えている。そのとき以来、この着想が消え去らなくなった。最終的に私は、バッハの種々の曲をなんとか基にして対話劇のひとつひとつを織りなしていくことに決めた。これはさほど見当外れではなかった。大バッハ自身も弟子たちに、楽曲の各声部は「あたかも選り抜きの仲間たちと一緒にいるかのごとく会話しあう人々」のようにふるまうベきだと注意を与えたものだった。私はこの助言をむしろバッハの意図した以上に字義通り解釈してきた。にもかかわらず、結果はその意味に忠実であることを期待している。私は何度となく感銘したバッハの楽曲のもろもろの相にとりわけ暗示を受けた。そうした諸相を『バッハ読本』のなかでデイヴィッドとメンデルがきわめてみごとに記述している。

 一般に彼の形式はセクション間の関係に基づいている。これらの関係は、一方では楽節の完全な同一性から、他方では単一の精巧な原則、もしくはたんなる主題の暗示の復帰にまで及ぶ。結果として生れるパタンはしばしば対称をなすが、しかし必ずしもそうではない。ときにはセクション間の関係はからみ合う糸の迷路をつくり、そのもつれをときほぐせるのは詳細をきわめた分析のみである。しかしながらふつうの場合、一目見るか一度聴くかするだけで、二、三の顕著な特徴が然るべき方向性を提供し、研究過程では精綴な細部を際限なく発見するにせよ、バッハのすべての作品ひとつひとつを統合する秩序を把握するのにけっして迷いはしない。
[Hans Theodore David, and Arthur Mendel. The Bach Reader. NewYork: W.W.Norton, 1966. Paperback. An excellent annotated collection of original source material on Bach's life, containing pictures, reproductions of manuscript pages, many short quotes from contemporaries, anecdotes, etc.,etc.]

 私は、ゲーデルエッシャー、バッハという三本の糸から永遠の黄金の編み紐を編もうとした。まず、ゲーデルの定理が中核にあるようなエッセイを書くつもりで始めた。それはたんなる小冊子で終るだろうと予想していた。しかし構想が天体のようにひろがり、ほどなくバッハとエッシャーに到達した。それを個人的な動機づけとしておくのでなく、この関係を明白なものにすることを思いつくには時間を要した。しかしついに私は理解した。私にとってゲーデルエッシャーとバッハは、何か中心をなす堅固な本質によって異なる方向に投じられた影にすぎないのであった。私はこの中心をなすものを再構成しようと努め、そうして本書を仕上げるにいたった。




・「第01章 MUパズル」から、形式システムの外の話(p. 54)。日本語圏の将棋指しにとっても、興味深いエピソードが載っている。下線は引用者による。

システムから飛び出る
 実行中の仕事から飛び出して、何をしていたかを見わたすことは、知性に固有の性質のひとつである。知性はいつでも、パタンをさがし、しばしば見つける。いま、知性はその仕事から飛び出せるといったが、いつでもそうするわけではない。しかし、ちょっとした刺激で十分である。

〔……〕もちろん、多くの人々の生活を支配しているシステムでも、以前にシステムとして認識されていなかったものであれば、そのシステムを感知する眼力がごくわずかの人物にしかない場合もある。そのようなとき、それらの人物はしばしば、他の人々にそのシステムが事実存在することを理解させ、そこから脱出すべきことを納得させるために生涯を捧げることになる。
 コンピュータには、システムから飛び出すことをどの程度教えられるであるろうか? ある人々を驚かせたひとつの例を挙げよう。少し前にカナダで開かれたコンピュータのチェス大会で、参加したプログラムの中に、勝負が終るずっと前にあきらめるという、珍しい特徴をもったプログラムがあった。そのプログラムは参加プログラム中一番弱いもので、チェスがあまり上手ではなかったが、望みのない局面を認識し、ただちにその場で投了して、相手のプログラムが退屈な詰めの儀式を完了するのを待とうとしなかった。すべての試合に負けたけれども、堂々と負けた。地元のチェス指しの多くが、これに感銘を受けた。このように、もし「システム」を「チェスを指すこと」と見なすなら、このプログラムがシステムから脱出するための洗練された、あらかじめプログラムされた能力をもっていたことは明らかである。一方、「システム」を「コンピュータが実行するようにプログラムされたことのすべて」と考えるなら、コンピュータにはシステムから脱出する何の能力もないことは明らかである。



・「第20章 不思議の環、あるいはもつれた階層」から、巷でも人気の「不完全性定理」と、そこから引き出される「隠喩的な類推」についての記述(pp. 685-687)。

 [前置き] 著者は、論理学の以外の分野(学問以外も含むとも思われる)における、不完全性定理の利用のされ方を、(1)他分野への「翻訳」(しかし、じつはそのままでは成立しない)と、(2)インスピレーションの源泉としての「類推」とに分けている。なお、不完全性定理を他分野へ転用することがせいぜいアナロジーであることを転用者がわきまえていようがいまいが、著者は転用を指して「隠喩的な類推」と表現しているようだ。
 そして、わきまえた(2)の利用であれば、他分野でもこの定理が「示唆に富むもの」になり得ると言う。

 [人の思考] ここからが本題。著者は(2)の応用例として、「ゲーデルの定理と人間思考を類推を用いて結びつける二つの主要なやり方」を紹介している。ふたつ目の類推に対する検討が長い。
 ひとつ:(隠喩的な類推をすると、ゲーデルの定理は)「あなたは、自分が正気であるとどうしていえるのか」という問いを惹起する。
 ふたつ:(隠喩的な類推をすると、ゲーデルの定理は)「われわれは究極的にはわれわれ自身の心/脳を理解できないことを示唆している」
 
 2つ目の小見出しにある「われれ」は明らかに誤植だが、そのまま抜き書きした。

   ゲーデルの定理と他の学問分野
 人間と、人間のように一種の「自己イメージ」をもつ十分複雑な形式システムとの間に平行関係を設定しようするのは、自然なことである。ゲーデルの定理は、自己イメージをもつ矛盾のない形式システムには根本的な制約があることを示した。しかし、それはもっと一般的なのだろうか? たとえば、「心理学のゲーデルの定理」はあるだろうか?
 ゲーデルの定理を文字どおりに心理学あるいは他の任意の学問の言語に翻訳するかわりに、隠喩として、インスピレーションの源泉として用いるならば、おそらく心理学あるいは他の学問領域の新しい真理を示唆するものとなるだろう。しかし、他の学問の言明に直接的に翻訳し、それをもとの命題と同じように妥当なものだと見なすのは、全然筋が通らない。数理論理学で精緻のかぎりをつくして仕上げたものが、全く異なった領域で修正なしに成立すると考えるのはとんでもない間違いであろう。


   内省と狂気=ひとつのゲーデル的問題
 ゲーデルの定理を他の領域に翻訳することは、翻訳が隠喩的であって、文字どおりに受けとられることを意図するものではないことをあらかじめはっきりさせておくならば、示唆に富むものとなりうるだろう。こうお断りしたところで、ゲーデルの定理と人間思考を類推を用いて結びつける二つの主要なやり方が心に浮ぶ。ひとつは自分の正気について疑うという問題にかかわる。あなたは、自分が正気であるとどうしていえるのか? これはたしかに不思議の環である。自分の正気を疑問にしはじめると、あなたはけっして不可避だとはいえないにせよ、強まる一方の渦巻きにとらえられるかもしれない。狂人が彼ら独自の風変りな矛盾のない論理にそって世界を解釈することは、誰でも知っている。自分の理論を自分の論理自身でしか判断できないとしたとき、あなたは自分の論理が「風変り」であるのかないのか、どうして見分けることができるだろうか? 私はどんな答も知らない。私はただゲーデルの第二定理を思い出す。この定理は、自己の無矛盾性を主張する形式的数論の唯一の型は矛盾的なものである、と述べる。


   われれは自分の心と脳を理解できるか?
 ゲーデルの定理には別の隠喩的な類推がある。これは私には挑発的と思えるものであって、われわれは究極的にはわれわれ自身の心/脳を理解できないことを示唆している。これは、多くの意味を背負わされた多レベルにまたがる考えなので、提案するにあたっては十分慎重でなければならない。「われわれ自身の心/脳を理解する」とはどういう意味なのか? それがどう動くかについて、自動車がどう動くかを力学が認識しているように、一般的な認識を得るという意味かもしれない。人々が行う一つひとつのこと、すべてのことについて、人々がなぜそれを行うかを完全に理解することを意味するのかもしれない。自分自身の脳の物理的構造を、あらゆるレベルで、完全に理解するという意味もありうる。脳の完全な配線図を一冊の本(あるいはひとつの図書館、あるいはコンピュータ)の中に作り上げることを意味するのかもしれない。あらゆる瞬間に、ニューロン・レベルで脳の中に何が起きているか(個々のニューロン発火、個々のシナプスの切替え、等々)を正確に知ることであるかもしれない。チューリング・テストに合格するプログラムを書くことであろうか? すべてのものが明るみに出ているために意識下や直観といった概念が無意味になるほど、人間自身を完全に知りつくすことを指すのかもしれない。
 これらの型の自己鏡映が仮にありうるとして、その中でゲーデルの定理の中の自己鏡映に最も似ているのは、どれだろうか? 私は答えようとして、ためらってしまう。そのいくつかは全くばかげている。たとえば、自分の脳のあらゆる細部まで監視できるという考えは夢物語であり、第一不合理で、面白くもおかしくもない命題だ。たとえ、それが不可能であるとゲーデルの定理が示唆しているとしても、わかりきったことで何の啓示にもならない。一方、何か深遠なやり方で汝自身を知れという古い目標――これを「汝自身の心的構造の理解」と呼ぶことにしよう――には、もっともらしい響きがある。しかし、何か漠然としたゲーデル的環があって、個人が自分の心性〔プシケ〕に入りこめる深さを制約してはいないだろうか? 自分の眼で自分の顔が見られないのと同じように、われわれの完全な心的構造は、この構造自体を実現させている記号の中に鏡映できないと予想するのが合理的ではないのだろうか?
 数学と計算理論のあらゆる制限的な定理は、あなた自身の構造を表現する能力はいったんある臨界点に達すると、それが死の接吻であることを示唆している。それは、あなたがけっして自分自身を総体的に表現できないことを保証している。ゲーデル不完全性定理、チャーチの不決定性定理、チューリングの停止定理、タルスキーの真理定理――これらすべてにあの懐かしいおとぎ話の香りが漂っている。「自己理解を求めることは、つねに不完全でいかなる地図にも記すことができず、途中でやめることもできなければ描写もできない旅へ出発することだ」と警告する、あの懐かしいおとぎ話の香りが。
 しかし、制限的な定理は人々とどんなかかわりがあるのか? この問題の論じ方のひとつはこうである。私は無矛盾的であるか、あるいは矛盾的である。(後者の方がはるかにありそうに思えるが、完全を期するために、両方の可能性を考える)もし私が無矛盾的であれば、二つの場合がありうる。(1) は「低忠実度〔ローファイ〕」の場合で、私の自己理解はある臨界点の下にある。この場合、私は仮説により不完全である。(2) は「高忠実度〔ハイファイ〕」の場合で、私の自己理解は制限的な定理の隠嚥的類比が適用される臨界点に達しているので、私の自己理解はゲーデル的な仕方で自分自身の土台を掘り崩してしまっており、私はそのために不完全である。(1) および(2) は、私が一〇〇パーセント無矛盾的であること――きわめてありそうにもない事態――に基づいて予測される。もっとありそうなのは、私が矛盾的だということである。だが、これはもっとも悪い! そのときには私の内部に矛盾があるが、私にどうしてそのことが理解できようか?
 矛盾的であれ無矛盾的であれ、誰も自己という神秘からは逃れられない。たぶん、われわれはすべて矛盾的である。世界は要するにあまりにもこみいっていて、一人の人に彼のすべての信念をたがいに和解させるという賛沢を許さないのであろう。多くの決定を速やかに下さなければならない世界では、緊張と混同は重要である。ミゲル・ド・ウナムーノはかつてこう語った。「ある人がけっして自己と矛盾しないとすれば、それは彼が何もいわないからだ」ある禅宗の老師は幾度となく自分自身と矛盾したあげく、混乱した学生にこう語った。「私は自分が理解できない。」われわれはこの老師と同じ立場にいる、と私はいいたい。