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『日本の近代とは何であったか――問題史的考察』(三谷太一郎 岩波新書 2017)

著者:三谷 太一郎[みたに・たいちろう](1936-) 日本政治外交史。


日本の近代とは何であったか - 岩波書店


※本書の小見出しに登場する人名が断片的なので、下の目次では、全括弧[ ]のなかに綴りや読み仮名を補足した。


【目次】
目次 [i-iv]


序章 日本がモデルとしたヨーロッパ近代とは何であったか  001
  近代日本のモデル
  バジョット[Walter Bagehot]とマルクス[Karl Marx]
  自然科学というモデル
  二人の「近代」
  前近代と近代
  「議論による統治」を成り立たせるもの
  西と東の断絶
  日本の伝統に欠けていたもの
  「国民形成」の条件
  「近代」の歴史的意味
  「複雑な時代」の受動性
  近代における情動の激発
  「議論による統治」の条件
  近代化の二つの推進力
  本書の課題


第一章 なぜ日本に政党政治が成立したのか 035
1 政党政治成立をめぐる問い 036
  政党政治崩壊の原因という問い
  政党政治成立の理由という問い
  日本の立憲主義をめぐる問い
2 幕藩体制の権力抑制均衡メカニズム 042
  明治国家のアンシャン・レジーム
  合議制による権力の抑制均衡
  幕藩体制下の権力の分散
  相互監視の体制
3 「文芸的公共性」の成立――森鷗外の「史伝」の意味 050
  政治的公共性と文芸的公共性
  鴎外の「史伝」をどう読むか
  尾崎秀實[おざきほつみ]は「史伝」をどう読んだか
  横のネットワークの広がり
4 幕末の危機下の権力分立論と議会制論 059
  西周[にしあまね]の提案
  「公儀」から「公議」へ
  議会制導入という戦略
5 明治憲法下の権力分立制と議会制の政治的帰結 066
  明治憲法下の議会制
  覇府排斥論と権力分立制
  反政党内閣と権力分立制の不可分性
6 体制統合の主体としての藩閥と政党 071
  体制を統合する主体の必要性
  何が統合主体となったのか
7 アメリカと対比して見た日本の政党政治 075
  米国政治の統合主体としての政党
8 政党政治の終わりと「立憲的独裁」 078
  デモクラシーなき立憲主義


第二章 なぜ日本に資本主義が形成されたのか 081
1 自立的資本主義化への道 082
  スペンサー[Herbert Spencer]と日本
  政治リーダーと経済リーダー
  自立的資本主義を目指して
2 自立的資本主義の四つの条件 086
 (1)政府主導の「殖産興業」政策の実験 086
  起点としての岩倉使節団
  「恥」の意識による近代化
  「殖産興業」と内務省設置
  農業技術の近代化
  模範農場と模範工場
  貿易と海運 
 (2)国家資本の源泉としての租税制度の確立 095
  外資導入への消極姿勢
  不平等条約改正という大前提
  地租収入と農民把握
 (3)資本主義を担う労働力の育成 099
  「学制」の意義
  義務教育制と国家主義
  女子教員の育成
  中村敬宇[なかむらけいう]の思想
  個人主義実学主義
 (4)対外平和の確保 106
  グラント[Ulysses S. Grant]から明治天皇への忠告
  日清間の戦争の危険性
  やしまの「うち」と「そと」
  大久保利通[おおくぼとしみち]の台湾出兵の収拾
  大久保の絶頂とその終わり
  西郷隆盛[さいごうたかもり]の憤懣
3 自立的資本主義の財政路線 116
  松方財政の二本柱
  政府主導の産業化路線と前田正名[まえだまさな]
  前田と原[(=原敬はらたかし]の確執
  大久保後の二つの路線
4 日清戦争と自立的資本主義からの転換 124
  松方[(=松方正義まつかたまさよし]による外債導入
  明治天皇日清戦争
  国際的資本主義へ
5 日露戦争と国際的資本主義への決定的転化 127
  漱石(=夏目漱石なつめそうせき]の見た借金国日本
  国際的資本主義の様相
  国際金融家・高橋是清[たかはしこれきよ]
6 国際的資本主義のリーダーの登場 131
  井上準之助[いのうえじゅんのすけ]の台頭
  四国借款団と井上・ラモント[Thomas W. Lamont]
  日米間の「新しい同盟」
  国際金融の「帝国」
  金解禁の意味
7 国際的資本主義の没落 139
  国際金融家の時代の終焉
  国家資本の時代へ
  自由な「貿易」とその終わり


第三章 日本はなぜ、いかにして植民地帝国となったのか 143
1 植民地帝国へ踏み出す日本 144
  植民地とは何か
  植民地帝国日本の地図
  三国干渉と蘇峰[(=徳富蘇峰とくとみそほう]
  帝国的膨張への動機
2 日本はなぜ植民地帝国となったか 149
  「非公式帝国」としてのイギリス帝国
  なぜ「非公式帝国」にならなかったのか
  山県有朋[やまがたありとも]の演説
  「主権線」と「利益線」
3 日本はいかに植民地帝国を形成したのか 154
  枢密院という存在
(1)日露戦争後――朝鮮と関東州租借地の統治体制の形成 156
  統監府・理事庁官制案
  統監の権限をめぐって
  陸軍の巻き返し
  枢密院での異論
  美濃部達吉[みのべたつきち]の『憲法講話』
  「違法区域」としての植民地
(2)大正前半期――主導権確立を目指す陸軍 166
  陸軍主導のゆらぎ
  樺太統治の変化
  陸軍主導の確立
  枢密院の抵抗
(3)大正後半期――朝鮮の三・一独立運動とそれへの対応 173
  脱軍事化と同化
  関東庁設置と文民長官
  文官イニシアディヴの確保を目指して
  原案の修正
  朝鮮・中枢院の改革
  教育による「同化」政策
  帝国大学の設置
  「拓務省」の名称の意図
4 新しい国際秩序イデオロギーとしての「地域主義」190
  蠟山政道[ろうやままさみち]の「地域主義」
(1)一九三〇年代――「帝国主義」に代わる「地域主義」の台頭 192
  国際主義から地域主義へ
  モデルとしての汎ヨーロッパ主義
  「東亜新秩序」
  地域主義の対抗者
  一九四〇年代の「大東亜」
(2)太平洋戦争後――米国の「地域主義」構想とその後 198
  冷戦戦略としての「アジア地域主義」
  冷戦終焉と地域主義の変容
  アジア文化はあるのか
  新しい「地域主義」の模索へ


第四章 日本の近代にとって天皇制とは何であったか 205
1 日本の近代を貫く機能主義的思考様式 206
  ヨーロッパ化という課題
  機能主義的思考の系譜
  荷風(=永井荷風ながいかふう]の問い
  丸山眞男[まるやままさお]の「近代」
2 キリスト教の機能的等価物としての天皇制 213
  機能を統合する機能
  グナイスト[Rudolf von Gneist]の勧告
  国家の基軸としての天皇
  君主観の違い
3 ドイツ皇帝と大日本帝国天皇 219
  吉野作造[よしのさくぞう]の観察
  憲法上の君主の違い
  詔勅批判は自由か
4 「教育勅語」はいかに作られたのか 225
  教育勅語の位置づけ
  その起点と論理
  教育論争と政治対立
  地方長官の要請
  中村正直の草案
  井上毅[いのうえこわし]の批判?
  井上毅の批判?
  井上案から最終案へ
  教育勅語立憲主義
  発布の形式
5 多数者の論理と少数者の論理 241
  政体と国体との相剋
  大日本帝国憲法自由主義的側面
  国体の支柱を失って


終章 近代の歩みから考える日本の将来 247
1 日本の近代の何を問題としたのか 248
  四側面から見た日本の近代
2 日本の近代はどこに至ったのか 252
  「富国強兵」と「文明開化」
  「強兵」なき「富国」路線
  一国近代化路線の挫折
  これからの日本が歩むべき道
3 多国間秩序の遺産をいかに生かすか 257
  多極化とグローバル化
  第一次大戦後の多極化とアメリカニゼーション
  多国間協調のワシントン体制
  軍縮条約と不戦条約
  経済・金融提携関係
  中国をめぐる国際協調は成り立つか


あとがき(二〇一七年二月二四日 三谷太一郎) [267-276]
人名索引 [1-4]





【抜き書き】
比較文化論チックな「恥」の話。
 この箇所(pp. 88-90)では、R. Benedictを援用しているが、以下の抜粋部分を見ての通り、通俗的な理解にとどまっているため、私としてはあまり感心しない。
 そもそも国民性論に寄り道する必然性は薄い。特殊日本的な要因を求めて、「恥」(や「世間」や「甘え」や「阿闍世コンプレックス」など)の概念などもちださなくとも、近代化の要因について語ることは可能だ(ただしこれほど短くはならなしい、容易ではないにせよ)。
 ただ、「第二章 なぜ日本に資本主義が形成されたのか」自体が大風呂敷なので、ここに無理が現れたのかもしれない。


  権力による近代化の心理的促進要因となったのは何だったか。それを一言でいえば、欧米先進国の文明の理想化されたイメージと対比して生じる、自国の文明への「恥」の意識です。たとえば、次のようなエピソードがあります。大久保利通の二男牧野伸顕[まきの のぶあき]は、後年、宮内大臣内大臣を歴任する天皇側近となりますが、当時10歳の少年として岩倉使節団随行し、アメリカに留学しました。彼の『回顧録』によれば、岩倉一行は出発に際し、到着地アメリカで初めて汽車に乗るのでは体面に係わると考えました。当時京浜間の鉄道はまだ工事中で、線路は横浜から品川の台場までしか開通していなかったのですが、一行は品川の浜辺まで行き、プラットフォームの設備などない露天の汀[みぎわ]から汽車に乗車して、横浜まで赴いたのです。このように、明治政府要人の「恥」の意識が、権力による近代化の起点となった欧米巡遊への出発に際して表われているのです。このことは、日本の近代さらにいえばその最も重要な部分である資本主義そのものの特徴――外面性と装飾性とに反映しているといえるかもしれません。
  一行の滞米中、岩倉大使の羽織、袴に革靴といった服装が米国人の衆目を引いたため、大礼服を制定する提議がなされ、本国と交渉して急遽大礼服に着替えたのも、「恥」の意識からです。大久保がフランスを巡遊中、リヨンにおける絹糸紡績工場を視察した際に、原料の屑糸が日本から輸入されたものであることを聞き、同行者に「実に恥ずべきの至りならずや、将来是非我邦に於ても斯業を起さざるべからず」と語ったといわれるのも、同じように説明できるでしょう。
  このような「恥」の意識は、「文明開化」を促す一般人民向けの政府の布告の文面にも表れています。政府の布告には難解な漢字が多く、一般の人民には容易には読めませんでした。これを風刺して、「権令[ごんれい]が沙汰[さた]出しや角[かく]い字で読めない。参事は一字は読まずばなるまい」というような俗謡が現れるほどでした。これも、政府の布告が威儀を欠いた卑俗な文章では内外の笑いものになるだろうという「恥」の意識から来ているのです。
  文化人類学者のルース・ベネディクトはその名を戦後日本において有名にした『菊と刀』で、「罪の文化」と「恥の文化」とを区別し、前者を代表するものとしてヨーロッパの文化を、後者を代表するものとして日本の文化を挙げています。資本主義化を含む日本の近代化を促進した要因として、このような文化の性格を無視することはできないでしょう。二つの文化の違いは、おそらくそれぞれの文化――日本の場合には幕藩体制の下で形成された文化――における宗教の価値の違い、すなわち宗教の比重や社会的役割の違いに起因するのではないでしょうか。それは、先に言及した宗教社会学的観点からのマックス・ウェーバーの説明が可能であったヨーロッパの資本主義化と、そのような説明を適用できない日本の資本主義化との違いを明らかにしていると思います。いいかえれば、それは「原罪」という観念が根底にある文化と、この世との緊張関係を最小化し、内面よりも外面を重視する文化との違いであるかもしれません。