contents memorandum はてな

目次とメモを置いとく場

『みんなの民俗学――ヴァナキュラーってなんだ?』(島村恭則 平凡社新書 2020)

著者:島村 恭則しまむら・たかのり](1967-) 民俗学
NDC:380.1 民俗学


みんなの民俗学 - 平凡社


【目次】
目次 [003-008]


序章 ヴァナキュラーとは〈俗〉である 009
1 私と民俗学 009
  お祈り癖
  ごみ収集車の調査
  死が怖い
  民俗学と出会う
  沖縄に行く
  韓国で暮らす
  日本での研究
2 民俗学とはどのような学問か? 016
  民俗学はドイツで生まれた
  対覇権主義の学問
  日本の民俗学
3 ヴァナキュラー 030
  ヴァナキュラーとは?
  フォークロアからヴァナキュラーへ
  民俗学は現代学


  第1部 身近なヴァナキュラー 036

第1章 知られざる「家庭の中のヴァナキュラー」 040
  お母さんが創り出した化け物
  気仙沼の海神様
  わが家だけのルール
  靴のおまじない


第2章 キャンパスのヴァナキュラー 055
  関学七不思議
  キャンパス用語
  運動部の曲がり角の挨拶
  「こんにちはです」
  目覚ましは「ごみの歌」


第3章 働く人たちのヴァナキュラー 073
1 消防士のヴァナキュラー 073
  アメリカの消防署
  消防うどん
  消防めし
2 トラックドライバーのヴァナキュラー 082
  トラックドライバーの挨拶
  CB無線での会話
3 鉄道民俗学 088
  駅の池庭
  段四郎大明神
  特急「はと」と青葉荘
  切符売りおばさん
4 水道マンのヴァナキュラー 099
5 裁判官にもあるヴァナキュラー 104
  裁判官の口頭伝承
  「伝承」と民俗学
6 OLの抵抗行為 108

【コラム①】ヴァナキュラーな時間 112


  第2部 ローカルとグローバル 117

第4章 喫茶店モーニング習慣の謎 118
1 日本各地のモーニング 118
  愛知県豊橋市
  名古屋市
  愛知県一宮市
  大阪府東大阪市
  大阪市生野区
  大阪市西区
  兵庫県尼崎市
  神戸市長田区
  広島市中区
  愛媛県松山市

2 アジアの「モーニング」 143
  香港は飲茶
  ベトナムはフォーやソイ
  プノンペンはかゆ
  バンコクはいつも外食
  シンガポールのセルフカフェ

3 モーニングをめぐる考察 153
  なぜ行われるのか?
  日本での分布
  モーニングの歴史
  アジアの中のモーニング
  「ヴァナキュラーな公共圏」 としてのモーニング


第5章 B級グルメはどこから来たか? 164
  引揚者の円盤餃子
  じゃじゃ麵
  別府冷麵
  遠野のジンギスカン
  芦別のガタタン
  室蘭のやきとり
  みそ焼きうどん
  モーレツ紅茶

【コラム②】なぜ大晦日の夜に「おせち料理」を食べるのか? 189


第6章 水の上で暮らす人びと 192
  香港の水上レストラン
  家船の暮らし
  行商船と運搬船
  家船の陸上がり
  艀乗りからバスの運転手へ
  かき船
  かき船の陸上がり
  ロンドンの運河と水上生活者


第7章 宗教的ヴァナキュラー 216
1 パワーストーンとパワースポット 217
  パワーストーンを信じるか?
  個人的パワースポット
2 フォークロレスクとオステンション 227
  ぼんぼり祭り
  肘神様
  アマビエ・ブーム
3 グローバル・ヴァナキュラーとしてのイナリ信仰 241

【コラム③】現代の「座敷わらし」 246
【コラム④】初詣で並ぶ必要はあるのか? 251


おわりに 255
  次に何を読んだらよいか
  民俗学を大学・大学院で学ぶには
  地域で民俗学を学びたい場合


注 [263-271]





【抜き書き】

民俗学の“対啓蒙主義的、対覇権主義的、対普遍主義的、対主流的、対中心的な学問”さについて(pp. 19-23)。そういえば、文化人類学の入門書でも、"文化人類学における相対主義の意義"を強調していた。

  ここで注目したいのは、右にあげた民俗学がさかんな国や地域は、どちらかというと、大国よりは小国である。また大きな国であっても、西欧との関係性の中で、自らの文化的アイデンティティを確立する必要性を強く認識した国、あるいは大国の中でも非主流的な位置にある地域だという点だ。
  こうした国や地域の人びとは、民俗学の研究と普及を通して、自分たちの暮らしのあり方を内省し、その上で自分たちの生き方を構築することで、自分たちを取り巻く大きな存在、覇権(強大な支配的権力)、「普遍」や「主流」、「中心」とされるものに飲み込まれてしまうのを回避しようとしてきたといえる。
  このようにいうと、ドイツやアメリカ合衆国は大国ではないかと反論が返ってくるが、アメリカはもともとイギリスの植民地から出発した新興国で、またドイツも後発近代化国家であった。つまり、いまから見れば覇権を持った大国だが、その形成史の内側には、非主流性や、新興国ならではのアイデンティティを希求する意識が存在していたのである。
  また、フランスやイギリスでも民俗学の研究がはじまったが、とくにさかんに行われたのは、フランスの中でも周辺部に位置するブルターニュ地方であり、イギリスの場合は、スコットランドウェールズであった。
  さて、ここに見られるように、民俗学は、覇権、普遍、主流、中心といったものへの人びとの違和感とともに成長してきた。民俗学が持つこうした特徴は、ヘルダーの場合に典型的に見られた「対啓蒙主義」に加え、「対覇権主義」という言葉で表せる。民俗学は、覇権主義を相対化し、批判する姿勢を強く持った学問である。強い立場にあるものや、自らが「主流」「中心」の立場にあると信じ、自分たちの論理を普遍的だとして押しつけてくるものに対し、それとは異なる位相から、それらを相対化したり、超克したりする知見を生み出そうとするところに、民俗学の最大の特徴があるのだ。


◆日本の民俗学 
  民俗学が、対啓蒙主義的、対覇権主義的、対普遍主義的、対主流的、対中心的な学問であることは、日本の民俗学でも同様である。日本の民俗学者たちは、啓蒙主義的世界観では切り捨てられ、覇権主義的世界観では支配の対象とされる、非主流、非中心の世界こそが民俗学の対象であると考え、これに正面から向き合ってきた。
  柳田國男の初期の作品に、一九一二(明治四三)年に刊行された『遠野物語』がある。この本は、岩手県遠野地方で伝承されてきたさまざまな話、多くは不思議な話を収録したものだが、その冒頭には次の言葉が書かれている。

願はくは之〔これ〕を語りて平地人を戦慄せしめよ

  ここでいう「之」とは、岩手県遠野地方の人びとが語り伝えてきた物語の世界であり、「平地人」とは、啓蒙主義的思考のもとで近代化に邁進する都市住民のことだといってよい。現代語訳すれば「この物語を語って平地の人を戦慄させることを願っている」となるこの一文からわかることは、柳田が、啓蒙主義的世界観では非合理的なものとして切り捨てられてしまう世界の存在を、本書によって、「平地人」に突きつけようとしたことだ。啓蒙主義的世界観に対する、対啓蒙主義からの挑戦だといえる。


民俗学の来し方(pp. 29-30)

  民俗学の持つ対啓蒙主義的、対覇権主義的、対普遍主義的、対主流的、対中心的志向は、日本の民俗学の基底部に確実に存在しているのである。
  さて、ここで「民俗学とは何か」をまとめておこう。


  民俗学は、一八世紀のフランスを中心とする啓蒙主義や、一九世紀初頭にヨーロッパ支配をめざしたナポレオンの覇権主義に対抗するかたちで、ドイツのヘルダー、グリム兄弟によって土台がつくられた。そしてその後、世界各地に拡散し、それぞれの地域において独自に発展した学問である。
  啓蒙主義的合理性や覇権・普遍・主流・中心とされる社会的位相〉とは異なる次元で展開する人間の生を、啓蒙主義的合理性や覇権・普遍・主流・中心とされる社会的位相〉と、それらとは異なる次元〉との間の関係性も含めて内在的に理解する。
  これにより、啓蒙主義的合理性や覇権・普遍・主流・中心とされる社会的位相〉の側の基準によって形成された知識体系を相対化し、超克する知見を生み出そうとする学問である。

 



・序章第3節「ヴァナキュラー」から、新しい述語としての“vernacular” の概要を述べた部分(pp. 30-32)。この後には“folklore”との対比もされている。

民俗学の持つ、対覇権主義的、対啓蒙主義的、対普遍主義的、対主流的、対中心的な観点を集約的に表現したものが、〈俗〉なのである。そして、この〈俗〉は、観点であると同時に、この観点によって切り取られた研究対象のことをも表している。〔……〕ここであらためて〈俗〉を定義すると、以下のようになる。すなわち、〈俗〉とは、

① 支配的権力になじまないもの
啓蒙主義的な合理性では必ずしも割り切れないもの
③ 「普遍」「主流」「中心」とされる立場にはなじまないもの
④ (支配的権力、啓蒙主義的合理性、普遍主義、主流・中心意識を成立基盤として構築される)公式的な制度からは距離があるもの

のいずれか、もしくはその組み合わせのことである。
  さて、この〈俗〉を、現代のアメリ民俗学では、ヴァナキュラー(vernacular)と呼んでいる。ヴァナキュラーとは、言語学をはじめとする人文社会科学で、「権威ある正統的な言語に対する俗語」を意味するものとして用いられてきた言葉である。
  たとえば、著名な社会言語学者ウィリアム・ラボフは、アフリカ系アメリカ人が話す英語を、「ブラック・イングリッシュ・ヴァナキュラー」と名付け、「正統的な英語」とどのように異なるのかを研究した(William Labov, Language in the Inner City: Studies in Black English Vernacular, University of Pennsylvania Press, 1972)。
  あるいは、政治学者のベネディクト・アンダーソンは、ある国の「国語」が、その国の「正統的な言語」として体系化される以前は、ヴァナキュラー=「俗語」という状態にあり、文法や辞典の整備をはじめとする国家による制度化を経て、「国語」になってゆく過程を明らかにした(ベネディクト・アンダーソン想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行白石隆・白石さや訳、リブロポート、一九八七年)。
  このようなヴァナキュラー=俗語という認識は、この語が「権威ある正統的なラテン語」に対する「崩れたラテン語」の意味で長く使われてきたことに由来する。〔……〕一般人が使った「俗語」としての「俗ラテン語」がヴァナキュラーである[注 vernacularは、さらに、「土着的(native, domestic, indigenous)」 を意味する vernaculus、「地元で生まれた奴隷(homeborn slave)」を意味するverna にまで語源を遡ることができる。]。
  第二次世界大戦後、〔……〕ヴァナキュラーという言葉は、建築の世界でも用いられるようになった〔……〕。さらにその後は、言語、建築のみならず、芸能、工芸、食、音楽などさまざまな対象を表す語としても用いられるようになっていった。また並行して、この語の持つ学問的意義の理論的な洞察も深められていく。二〇〇〇年代に入ると、ヴァナキュラーは、アメリ民俗学における最重要のキーワードにまで成長した。


p.38 以下の約600字の文章を要約すると、「一般の人々が民俗学と「民俗」という語に対して誤解を既に抱いているので、一般向けの本書では「民俗」という語を使わずに民俗の内実について書く。この工夫によって、読者をしてさきの誤解に気づかせることができると著者は思っている」。

  本書は、この誤解を払拭すべく、「現代学」としての民俗学、すなわち「現代民俗学」とはいかなるものか、その一端を紹介する。そしてこの場合〔……〕現代民俗学の研究対象を、「ヴァナキュラー」という英語由来の言葉で表現する。
  もっとも、このようにいうと、なぜ、日本語の「民俗」の語ではなく、英語由来の「ヴァナキュラー」の語を使うのか、疑問に思う方もおられるだろう。
  私は、民俗学のキーワードである「民俗」という言葉を否定して、ヴァナキュラーという語に置き換えようと思っているわけではない〔……〕。「民俗」とは「人びと(〈民〉)の〈俗〉」のことであり、「人びと(〈民〉)の〈ヴァナキュラー〉」と同義であるからだ。
  ただ、世の中の一部で、民俗学と同様に「民俗」も、何となく「古くさい」過去志向の概念だと誤解されているきらいがないわけではない。そのため、このような誤解に対して警鐘を鳴らし、誤解なき「民俗」概念の存在に人びとの意識を向けさせるための方便として、あえて、本書では「ヴァナキュラー」という目新しい語を用いるのである。
  ヴァナキュラーの語を使ったからといって、「人びと(〈民〉)の〈俗〉」としての(誤解なき)「民俗」の語を消し去ろうとしているわけではない。また、「民俗学」という学問名称を、何か別の名称に替える必要があるなどと考えているわけでもないのである。


・日本のスピ・ブーム(pp. 226-227)

  「パワースポット」という考え方の普及過程は、さきに見たパワーストーンの場合とよく似ている。パワースポットをめぐる観念や実践は、一九八〇年代から見られたが、当時は、ニューエイジ関係者の間での浸透であった。それに対して、二〇〇〇年代に入ってからは、スピリチュアル・ブームの展開の中で、世の中に広がっていったのである(堀江宗正『ポップ・スピリチュアリティ――メディア化された宗教性岩波書店、二〇一九年)。
  もっとも、パワースポットについても、伝統的な宗教的ヴァナキュラーとの類似性を指摘できる。民俗学者の野本寛一は、文字どおり全国津々浦々を歩き回った「現代の宮本常一」といってよい研究者だが、彼の著作の一つに『神と自然の景観論――信仰環境を読む』(講談社、二〇〇六年)という本がある。
  この本で野本は、長年の民俗調査で蓄積した事例の中から、現地の人びとが神を感じ、神聖感を抱いてきた場所を取り上げて分析を行い、その結果、岬、浜、洞窟、渕、滝、池、山、峠、森、川中島、島、温泉、磐座など、一定の特徴ある地形の場所が、いくつかの諸条件と連動した場合、そこが「聖地」とされていくことを論証している。
  野本が取り上げている膨大な「聖地」の事例を見ていくと、「パワースポット」とは、日本に社らす人びとが長い年月を通して伝承してきた「聖地」信仰の一形にすぎないともっとも、パワースポットの場合には、メディアとマーケットの強力な介在がある。そして、パワースポットの存在を認めるか否かはもちろん、何をパワースポットとするのかも、個人による差が大きい。このことは、パワーストーンの箇所ですでに指摘したことと一致する。現代の宗教的ヴァナキュラーを分析する上で、メディア、マーケット、「個人による多様性」の視点は欠かせない。