contents memorandum はてな

目次とメモを置いとく場

『ナショナリズムの克服』(姜尚中,森巣博 集英社新書 2002)

著者:姜 尚中(1950-) 政治学
著者:森巣 博(1948-) 作家(評論など)。ギャンブラー。
NDLC:A38
NDC:311.3 政治学.政治思想 >> 国粋主義ナショナリズム民族主義
内容:国民国家論を対談形式でおさらいする本。


ナショナリズムの克服/姜 尚中/森巣 博 | 集英社 ― SHUEISHA ―


【目次】
目次 [003-009]


森巣博から姜尚中への招待状 010
姜尚中から森巣博への返信 014
森巣博から担当編集者への手紙 016


  第一部 ナショナリズム/自由をめぐる対話――東大教授、豪州博奕打ちに会いに行く(二〇〇一年一二月七、八、九日/オーストラリア、サウスコート某所)


序章 石原慎太郎の「中国人犯罪者民族的DNA」発言を容認してしまう空気は何か? 020
森巣博、チューサン階級を代表し、九〇年代になぜ、日本万歳な人たちが増えたのかを質問する 


第一章 姜尚中教授の特別課外授業スタート! 講座名はズバリ、「日本ナショナリズム小史」 032
姜尚中、二〇〇〇年五月の「神の国発言」をきっかけに、日本型ナショナリズム=「国体」ナショナリズムについて、考えはじめる 
森巣博、渾身の切り返し! ところで先生、「国体」って、いったい、何ですか? 
▼「国体」ナショナリズムの形成――本居宣長から、一九四五年の敗戦まで 
▼「国体」ナショナリズムの温存―― 一九四六年の「年頭詔書」 
▼経済ナショナリズムの誕生――敗戦から冷戦崩壊までの日米談合体制 
▼経済ナショナリズムは、かえって、ナショナル・アイデンティティを社会
の隅々にまでゆきわたらせたのではないか? 
姜尚中教授による、九〇年代ネオ・ナショナリズムの総括 
森巣博が提唱する「ちんぽこ」モデル――戦後日本の、数多くの日本論・日本人論を素描してみよう! 
▼九〇年代日本のネオ・ナショナリズムが、意外に手ごわい理由――ナショナリスト自身が、国家をフィクションと認めてしまうなんて!? 
▼日米談合の知の枠組みをいかに越えるか――カルチュラル・スタディーズの三〇年遅れの紹介と、ハリー・ハルトゥーニアンを知らない日本文化研究者 


第二章 知られざる在日韓国・朝鮮人二世の青春――経済ナショナリズム体制下の、姜尚中の個人的体験 082
ナショナリストは、誰も日本人とは何かを教えてくれない―― 一九七〇年一一月二五日、三島由紀夫自決事件 
アイデンティティという言葉の意味を、ここでガッチリとおさえておこう!――森巣博が唱える「アイデンティティを隠す自由」「アイデンティティへの自由」「アイデンティティからの自由」とは? 
▼物語を失った在日二世たち―― 一九七〇年、梁政明の焼身自殺 
通過儀礼、そして、日本名を捨てて「姜尚中」になるまで―― 一九七一年、ソウルの大衆食堂から見た夕焼けの記憶 
▼知られざる七〇年代前半の、在日韓国・朝鮮人たちの学生運動――姜尚中がかかわった、権益擁護運動とは? 
▼民族的虚無主義――アイデンティティは、歴史がなければ成立しない? 
▼維新体制前夜・その①/一九七一年、衛戍令――考える場を確立するための闘い 
▼維新体制前夜・その②/一九七二年、南米共同声明~ 一九七三年、金大中拉致事件――北と南の談合関係を見抜いた、姜尚中の先輩 
▼一九七五年、姜尚中が、マックス・ウェーバーを学ぼうと思ったきっかけ――なぜ、自分たちはこんなに惨めなんだろう 
▼七〇年代後半の知的雰囲気――なぜか柳田国男ブーム!? 
▼一九七九年、ドイツ留学――ドイツの在日問題との出会い
▼経済ナショナリズム下の苦闘/一九八一年、ドイツからの帰国~ 一九八六年、指紋押捺拒否問題
▼一九八九年、昭和天皇の死 
▼姜先生、長々とお疲れさまでした!


◎ 担当編集者から森巣博への手紙 140
森巣博から担当編集者への返信 142


  第二部 グローバリズム/故郷をめぐる対話――豪州博奕打ち、東大教授に会いに行く(二〇〇二年四月一九日/東京お茶の水山の上ホテル


第三章 知られざる和製イージー・ライダーの青春――グローバリズムの渚における、森巣博の個人的体験 146
▼不可解な人、森巣博への尋問開始!――イマジンド・コミュニティ(想像の共同体)から、リイマジンド・コミュニティ(再想像の共同体)へ 
▼一九七一年、森巣博、ジェリー・ルービンと『イージー・ライダー』にイカれ、アメリカへ渡る 
▼一九七三年、第一次オイルショック――森巣博が、ヨーロッパ放浪時に体感した真理、「人間っていうのは同じなんだな」 
▼一九八一年、二人の転回点――森巣博のオーストラリア移住と、姜尚中の日本への帰国 
▼故郷とは何か―― 二つの立場から 
アイデンティティへの自由――二つの立場から 


第四章 民族概念をいかに克服するか 175
森巣博姜尚中にレクチャーを強要される 
▼民族①――森巣博の、プチ特別課外授業スタート! (すぐ終わるけど) 
▼民族②――告白する必要のない者(多数者)には、民族概念はない
▼人種――近代がつくりだした諸民族の階層秩序(判断基準は、進歩の度合い) 
グローバリズム①――福祉国家の挫折 
グローバリズム②―― 一億総「在日」化 
グローバリズム③――グローバリズムが、国家を要請する 
▼資本主義①――貧困問題 
▼資本主義②――資本主義はどん詰まりに来ているのか? 
▼難民①―― 一〇〇万人の難民を殺せるか? 
▼難民②――世界のどこにも、外部などない 


終章 無族協和を目指して 214
▼無族協和とは何か――リイマジンド・フォーエバー(巨人軍は消滅しても、再想像は永遠です) 
天皇制の国際化 
▼終わりに――記憶による歴史の抹殺 


あとがき(姜尚中) [232-235]
用語解説 [236-253]
推薦図書 [254]




【メモランダム】
・本書の内容には直接関係しないが、森巣博のスタンスが気になる。
 「私は中卒だから」という(自身の発言の厳密さを放棄するため)エクスキューズと、「私の読んだ△△というアカデミックな文献によると……」という権威付けとを恣意的に使い分けているが、明らかにダブルスタンダードだろう。
 なお、森巣氏は他の場でも度々、「私は“チューサン階級”だ」という言葉で自己の学歴と階級を表明しているが、嵐山光三郎も1977年の著作(『チューサン階級の冒険』)に使用しているので、流行り言葉または流行りのスタンスなのかもしれない。


・本書の内容について:「ナショナリズムが流行る状況に二人が異を唱える」というテーマ設定上仕方ないともいえるが、「ナショナリズムは悪だ」「ナショナリズムは克服すべきものだ」という図式に頼りすぎている。もちろんそうでない部分もあるが、かすんでいる。集英社による本書のPR文が《上野千鶴子氏、絶賛!「治ってしまえばあれはビョーキだったとわかる、爽快なナショナリズム論」》なので、マーケティング面でもその図式に頼り切りになっている。