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『フェミニズムの歴史《新装復刊》』(Benoite Groult[著] 山口昌子[訳] 白水社 2000//1982//1977)

原題:Le Féminisme au Masculin
著者:Benoite GROULT(1920-)  小説家。
訳者:山口 昌子(やまぐち・しょうこ)



※ルビは亀甲括弧で示した。


【目次】
目次 [003]
献辞 [004]
まえがき [005-013]


第一章 「フェミニズムという言葉が存在しなかった時」 015
原注・訳注 020


第二章 プーラン・ド・ラ・バール 023
原注・訳注 046


第三章 退潮期のフェミニズム 049
訳注 059


第四章 コンドルセ 061
訳注 078


第五章 女性崇拝〔フェミノクラートル〕の時代 083
訳注 104


第六章 スチュアート・ミル 107
原注・訳注 142


第七章 未知なる人サン・シモンと魔術師的理工学者アンファンタン 145
原注・訳注 176


第八章 「フェミニズム」という言葉の発明者へ 179
原注・訳注 217


第九章 女たちのフェミニズム 219
原注・訳注 228


訳者あとがき(一九八一年 春 山口昌子) [229-235]
人名索引 [i-iii]




【メモランダム】
フェミニズムの男性闘士に光を当てる。

・本文もフランス産の本にしては読みやすいが、「訳者あとがき」がさらに簡明なまとめになっている。

・2000年刊行の《新装復刊》版は、旧・日本語版(1982年)を復刊したもの。ただし、印字は荒いまま。




【抜き書き】
 ルビは亀甲括弧〔 〕に示した。

  まえがき


 人類は女嫌い〔ミソジン〕である――この明白な事実に立ち返る必要がある。人々が女嫌いなのは呼吸するのと同様、ごく自然で疑問の余地がない。常識である。歴史や文学、あるいは哲学に取り組むと、女嫌いがかくも根深く、人生のあらゆる行動や私たちの文化にかくも密接に関りあい、かくも世界的な広がりを持ち、かくも……要するに自然であるため見分けることさえできない場合がえてして多いことに気付く。女嫌いはほとんどの宗教に登場し、今日もなお大部分の男性と多数の女性の行動に重くのしかかっている。
 「フロイトを理解するには眼鏡のかわりに睾丸をつけよ」とあるシュルレアリストアンドレ・ブルトンに言った。女嫌いを理解し、またさまざまな変装をした女嫌いを撃退するには、眼鏡の代わりに多分、乳房を持つ必要がある。なぜなら、特権階級というものは決して〔……〕出生や性、あるいは肌の色によって自分たちが差別している者の精神状態を懸念することがない。彼らはあらゆる疑惑から彼らを免除するもの、即ち神、摂理、あるいは自然によって特権を与えられていると常に信じている。
 女嫌いには千一の流儀がある。女性の幸福という名のもとに家族の存続の保証を女性に求める者、女性自身から彼女たちを守護するのだと主張する者、母親としてのみ女性を尊敬する者、性的対象として女性を蔑視することを許容する者、女性なしではいられない者、女性が「殺戮的な労働と雑然たる製造所」を免れるように努める者、女性が問題になるや自然の法則を常に持ち出す者、女性がもっと本能的に宇宙と彼らとの間の仲介者になるべきだと信じる者、男性の知性を補足するものとしての女性美のみに敬意を表する者、「慇懃な者や大げさな者」。こういう人々は残らず、女嫌いである。そして自分たちが女嫌いであることに無知だったり、否定したりすればするほど彼らは危険である。
 〔……〕
 しかし、どうしたら私たちは狡滑な女嫌いや生来の女嫌い、慇懃な女嫌いから解放されるだろうか。この慇懃な女嫌いという意味は「われわれ人類の中で最上なもの」とか、または彼らが前もって定義するのに骨を折るものと女性を評しながら平然と女性に助力を乞う男たちだ。いつ、私たちは一方的に感動を与えてばかりいる状態をやめるのだろうか。いつ、私たちは自分たちが、本当の意味での《最上なもの》であることを確信できるのだろうか。それを発見するのは私たち自身である。女性が一人も含まれていない《議論の余地のない精神的権威者》に勝手なことを言わせてはならない。今の私たちの社会は男性支配の社会であるわけだが、こういう社会ではごくわずかな例外を除いたら、私たちはアリバイ型女性、人質型女性、証拠型女性、あるいは絶叫型女性のみをこれまで念頭においていたといってもいいだろう。
 男性が今日、フェミニストであるためにはたった一つの方法しかない。それは女らしさについて沈黙することである。女性に自由に発言させることだ。
 男女間の力関係は古くから不変であるが故に正当化されてはいるものの、新たに問題にしようとする高潔かつ正義への情熱に燃えた男性がいないわけではない。こういう男性はこの力関係に物事の性質の影響や崇高な神の意志(男性にとってのみの神)を見ることを拒否し、権力の影響、つまり権力の濫用を告発することになる。
 〔……〕
 ところがこれから登場する男性たちにはいったい、いかなる珍しい資質が備わっていたのだろうか。彼らは独立した人格、まったく独自の人間として女性を考えるために、忠実な妻、家庭の守り手、賞賛すべき母といった伝統的なイメージを凌駕したいと望んでいた〔……〕。ほかの無数の男性とは区別されるもので彼らが共通に持っているものはいったいなんなのだろうか〔……〕。
 この例外的な資質を持った男性たちにこそ私たちは光をあてたいと思う。そしてこのあまりにも忘れられ、潮笑され、あるいは無視されることの多い彼らに、わずかながらも近づいて耳を傾けたいと思う。彼らの名前はプーラン・ド・ラ・バール、コンドルセフーリエ、スチュアート・ミル……。彼らはパンテオン入りする価値が十分にある……まだほとんど空っぽのフェミニスト用のパンテオンに。彼らに空想家〔ユートピスト〕という安全な貼紙をつけて片付けたのは少々早計だった。彼らは「ある性を他の性に従属させることは悪であり、人類の進歩に対する主要な障害の一つである」という革命的な思想に感動していたからだ。この思想はたとえ承認されているにせよ、今日でもなお、世界の大半の国々で最も破壊的かつ最も衝撃的で、最も実行不可能なものだが、同時に全人類にとって最も希望に富んだものである。


・「訳者あとがき」から、本書の概要と位置づけについての箇所。

 本書はフランスで一九七七年に出版されたLe Féminisme au Masculin〔……〕の全訳である。著者のフランス人作家、ブノワット・グルー女史が〔……〕記しているように、歴史の中で時には故意に忘れられ、無視され、あるいは冷笑の対象として扱かわれてきたプーラン・ド・ラ・バール、コンドルセ、サン・シモン、アンファンタン、フーリエ、スチュアート・ミルといったフェミニズムの男性闘士たちに光を当てることで、フェミニズムの歴史を明らかにしたものである。
 グルー女史は七五年、優れた女性論『最後の植民地』(原題 Ainsi soit-elle)(有吉佐和子・カトリーヌ・カドゥ訳、新潮社)を発表しているので、本書はそれに続く「女性論」の“第二弾”である。
 『最後の植民地』が人類二千年の“男尊女卑”の歴史と闘ってきた古今東西の女性たちの事例や、一見共通点のなさそうな孔子、ナポレオン、ポードレール、フロイトニーチェ、ドゴールらを《女嫌い》という共通項でくくることで、時空を超えて常に不利な“女性の条件”を白日のもとにさらしてみせてくれたのに対し、本書はフェミニズムとは何かをその根源にさかのぼって根本的に問い直した歴史書であり、概論であり、入門書である。
 本書を読むと、《フェミニズム》という言葉がフーリエの造語であること、四百年も前にすでにプーラン・ド・ラ・バールが考察した内容と現代の男女差別に関する論争がまったく同じであること、アンファンタンが百五十年前に理想的な男女平等の世界を実現しようとして挫折したことなど、いまさらながらにフェミニズムが古くて新しい人類の課題である点に驚かされる。と同時に、フェミニズムに対して、「ペニスを持ちたいという欲望を圧し殺しているハイミスたちのヒステリー現象」と言ったフロイト的見方をする偏狭の人や、フェミニストとフェミノクラートとを混同している時代遅れの人の目も見開かせてくれる。そういう点では“啓蒙の書”ともいえよう。
 今、《フェミニズム》という言葉が、かつてないほどもてはやされていながら、この言葉に対する正確な情報がそれほど多くないとき、豊富な資料と知識に裏打ちされたグルー女史の明噺な解説と鋭い洞察は貴重だ。
 〔……〕
 『最後の植民地』は国際婦人年に出版されたという背景もあって、フランスでは発売されるや大反響を呼び、たちまちベスト・セラーのトップに躍り出た。本書も〔……〕フランスではやはり三十万部を越すベスト・セラーになった。両書とも、シモーヌ・ド・ポーヴォワール女史の『第二の性』と並んで、フランスではフェミニズムの“聖典”となっている。