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『行動経済学入門』(多田洋介 日経文庫 2014//2003)

著者:多田 洋介[ただ・ようすけ](1973-) 経済企画庁。経済学修士。“官庁エコノミスト”。
NDC:331 経済学.経済思想


行動経済学入門 | 日経の本 日本経済新聞出版


※目次のなかに現れるスミツキ括弧【 】の中の文言は、個人的なメモ。


【目次】
まえがき(2014年6月 多田洋介) [003-009]
  10年ぶりに訪れた「行動経済学」への注目
  本書の構成
目次 [010-019]


第1章 行動経済学とは何か?――「限界知らずの経済人間」への挑戦 021
1 経済学の世界に生きる人間の3つの限界 021  
  「ホモ・エコノミカス」は人にして人にあらず?
  人々は「超」がつくほど合理的ではない
  人々は先送りの誘惑に駆られる
  人々は常に利己的とは限らない
  経済学がホモ・エコノミカスを多用する2つの理由――簡便さと学習効果
2 人々は確率を「正しく」判断するか?――ベイズ・ルール 029
3 ゲームのプレーヤーはすべて合理的か?――ゲーム理論と人間の合理性 032
  囚人のジレンマと「強く支配される戦略の逐次消去」
  囚人のジレンマナッシュ均衡
  伝統的な均衡概念は完璧か?
4 間違いの多い経済学の「くじ」選び――期待効用仮説とその限界 038
  効用の平均が最大になるように行動する――期待効用仮説
  アレ【Allais】のパラドックスと期待効用仮説の欠点
5 将来の消費の選択は難しく移ろいやすい――時間を通じた行動モデルと欠点 041
  人々が2期間のみ生きる簡単なモデル

補論1 ベイズ・ルールの定式化 031
補論2 同時手番ゲームの均衡概念 033
補論3 逐次手番ゲームの均衡 037
補論4 時間を通じた消費モデル(オイラー条件の導出) 045


第2章 人間はどこまで合理的か?――限定合理性の経済学 049
1 人々は日々合理的に過ごしているわけではない 049
  経済学の「合理性」に関する小話
  心理学的には人々は必ずしも合理的てはない
  経済学の反論は妥当か?
2 物を考えるにもコストがかかる――最適化コストと限定合理性 053
  人は完璧な答えを見つける前に満足してしまう
  最適化を実行するためのコストの存在
3 限定合理性の存在を示す事例――ゲーム理論の実証研究 057
  名目価格をとるか実質価格をとるか――貨幣錯覚の現象
  合理的な人はゼロの利得を追い求める?――美人投票の現実
  オークションでは損がつきもの――逆選択と「勝者の呪い
4 非合理的な人間の存在は市場を動かす――限定合理性のインパクト 071
  再び美人投票モデル
  アカロフの近似合理性と貨幣錯覚、価格の硬直性
  マンキューの支出者・貯蓄者モデル

補論5 「よい実験」を行うには 065
補論6 限定合理的な消費者の裏をかく企業? 079


第3章 近道を選ぶと失敗する――信念や判断に潜む罠 083
1 我々につきまとう「近道選び」の誘惑 083
  人々がよく陥る「手短」な判断方法―― 3つの事例 
  不確実性が存在する下で頻繁に起こる近道選び
2 法則がないところにあえて法則を見出す――代表制の近道選び 087
  「AかつBである確率」が「Aである確率」より大きい?――結合効果
  母集団の情報を無視する――基準確率の無視
  サンプルが大きい方がバラツキが大きい?――標本数の無視
  「小数の法則」あるいは「ギャンブラーの過ち」
  将来の予測を歪める代表性の近道選び
  異常値の扱いと「平均への回帰」
3 手っ取り早く手に入る情報を優先する――利用可能性の近道選び 096
4 情報は時に必要以上に影響力を持つ――係留効果 100
  問題文に書かれた情報に潜む罠
  連続して起こる事象には高めの確率を予想する
5 企業や投資家を惑わす自信過剰の問題 106
6 人は間違いを認めたがらない――「認知不協和」を避ける 110


第4章 プロスペクト理論――リスクが存在する下での選好理論 113
1 不確実性が存在する下で人々はどういう行動パターンに従うのか 113
  「不確実性をどのように認識するか」と「不確実性下でどのように行動するか」
  カーネマンとトヴェルスキーのもう1つの発見――プロスペクト理論
2 プロスペクト理論とは――リスクに直面する人間行動の妙を見事に示すモデル 116
  出発点からの相対的な変化が重要――価値関数の「参照点」
  利益に比べて損失は2倍――価値関数の「損失回避性」
  損得の期待値がゼロの賭けに乗るべきか?
  得するときはリスクを回避し、損するときはリスクを追い求める
  わずかな確率でも見た目より大きい――確率ウェート関数
3 プロスペクト理論の応用例 129
  毎日のノルマは体に毒―― NYのタクシー運転手の労働供給の謎
  一度手にしたものは手放しにくいもの――現状バイアス
  困ったときは大穴に賭けろ?――競馬ギャンブルにおける大穴バイアス
  事故の可能性は低くても心配――過剰な保険加入
  現職候補は顔が知られているから選挙に強い?――選挙とプロスペクト理論
4 お金の捉え方次第で人の行動は変わる 135
  心の家計簿=頭の中の会計処理
  どれくらい得をしたかが重要――海の家よりもホテルのバー
  「先払い」は人々の心を変える
  定額制は魅力的?
  お金をどこに貯めるかにより使い方が異なる
5 人は曖昧さを嫌う――ナイト流の不確実性と曖昧性回避 140

補論7 フィリップス曲線の「謎」 143


第5章 非合理的な投資家は市場を狂わす――行動ファイナンスの世界 147
1 行動ファイナンス行動経済学の最先端の応用分野 147
2 伝統的に正しいとされるファイナンス理論とは?――効率的市場仮説 149
  金融・資本市場の分析と伝統的な合理性経済学の関係
  効率的市場仮説の2つの仮定――投資家の合理性と市場裁定の可能性
効率的市場仮説の3つのバリエーション
  効率的市場仮説への反動(1)――「投資家の合理性」への批判
3 非合理的な投資家のせいで市場裁定が機能しない――ノイズ・トレーダー・モデル 157
  効率的市場仮説への反動(2) ――市場裁定の限界
  非合理的な投資家=ノイズ・トレーダーのモデル
  ノイズ・トレーダー・モデルの現実への応用例
4 逆張り戦略は有効か?――投資家心理と株価の予測可能性 162
  非合理的な投資家の内面
  投資家が現在の株の動きに過剰に反応するから逆張り戦略は有効
  合理性経済学の反論は「合理的」か?
  投資家はニュースに反応しない場合もある――保守的行動
5 株式プレミアム・パズルと近視眼的損失回避性 167
  プロスペクト理論ファイナンス分析への応用
  歴史的に株式は債券よりもかなりリターンが高い――株式プレミアムの謎
  行動経済学による株式プレミアム・パズルの解明――近視眼的損失回避性
  プロスペクト理論を用いたその他の事例
6 合理的な投資家も非合理的な投資家も共犯?――価格バブルと行動経済学 172 
  ファンダメンタルズから乖離した価格は「合理的」に説明できるか?
  行動経済学によるバブルの解明 ――ポジティブ・フィードバック

補論8 資産価格のファンダメンタルズとは 155


第6章 人間は「超」自制的か――先送り、その場の快楽、自己制御 177
1 時間を通じた行動を現実的に捉える試み 
2 いつまで経っても「今」が大事?――伝統的モデルのパズル 177
  選好の逆転――時間が経つと好みが変わる
  割引関数、割引因子、割引率
  単純な割引モデルとしての時間整合性の仮定は現実的ではない
3 双曲的割引モデル――常に近い将来を大きく割り引く行動 179
  準双曲的割引モデル経済学に頻繁に応用される簡易モデル
4 双曲的割引関数を持つ意思決定者のパターン――洗練されたもの VS. ナイーブな者 189
  コミットメントが可能な人の場合
  コミットメントが不可能な人(1) ――洗練された人
  コミットメントが不可能な人(2) ――単純な人
  3つのパターンにおける行動の違い――宿題の例
  時間非整合的モデルの理論的な欠点
5 双曲的割引モデルを使った応用例 195
  ①アメリカ人は借金がお好き?
  ②タバコ・麻薬中毒は合理的か否か?
  ③401(k)は不十分か?
  ④その他の応用例
6 時間を通じた選好に関するその他のモデル――限定合理性、習慣形成、本能 206
  合理性に限界があるから将来のことを考えるのが難しい
  人が行動を決める際にはこれまでの習慣が重要
  本能に流されることにより行動は移ろいやすくなる
  時間を追って「効用」の捉え方が変化する


第7章 人間は他人の目を気にするもの――「目には目を歯には歯を」の経済学 213
1 「超」利己的な人間像は完璧ではない 213
2 人が純粋に利己的ではないことを示す3つのゲーム 215
  人は「貢献」に価値を見出す――公共財ゲーム
  分け前は相応に――最後通牒ゲーム
権力者にも慈悲の心がある?――独裁者ゲーム
3 利己的? 利他的? 第三の道?――人々の動機付けの数々 222
  「他人のことを思う」「他人のことを思うことに満足を覚える」―― 2つの利他的動機
  目には目を歯には歯を――相互応報的動機
  平等志向
4 相互応報的な行動がもたらすもの――具体的な応用例 231
  応用例1:独占的供給者の価格設定
  応用例2:労働契約――高賃金と努力の交換
5 さらなる応用例――日本人はより「公平」か?(社会規範と相互応報性) 237


終章 心理学的アプローチの限界と可能性 240
  本書のおさらい
  行動経済学に対する「いわれなき」批判
  行動経済学が抱える「本質的」な限界 ――規範的学問としての機能
  政策面への行動経済学の応用可能性
  行動経済学の可能性


ブックガイド [250-254]
参考文献 [255-261]
注 [262-268]




【抜き書き】

   まえがき 

●10年ぶりに訪れた「行動経済学」への注目
 2013年のノーベル経済学賞は、金融資産市場の分析に対する貢献として、シカゴ大学ユージン・ファーマ教授、ラース・ハンセン教授とともに、イエール大学ロバート・シラー教授が受賞しました。この同時受賞、特にファーマ教授とシラー教授が名を連ねるというのは、ある意味衝撃的なものでした。両氏は、株式や債券などの資産価格の将来の動きは果たして予測可能なのかどうかという研究が受賞理由ということでは共通していますが、その思想は正反対と言ってもよいくらいだからです。
 つまり、ファーマ教授は、本書でも紹介する、金融資産市場は市場参加者が最大限合理的に行動することで資産価格が形成されるという「効率的市場仮説」の重鎮である一方、シラー教授は、必ずしも合理的ではない市場参加者の影響によって資産価格が動くという「行動経済学」(behavioral economics)の代表選手です。シラー教授といえば、2008年のリーマンショックにつながったサブプライム・ローン問題に代表されるアメリカ住宅市場の状況にいち早く警鐘を鳴らしていたということや、アメリカの代表的な住宅価格指数(ケース=シラー指数)の考案者として有名ですが、行動経済学中興の祖でもあります。氏のノーベル経済学賞受賞は、「行動経済学」という学問分野が再び注目を集めるきっかけになったと言えるでしょう。
 ここで「再び」としたのは、ノーベル経済学賞を契機に「行動経済学」が大きく脚光を浴びた時期が約10年前にもあったからです。読者の皆さんの中には、ジョージメーソン大学のバーノン・スミス教授とともに、プリンストン大学の心理学者ダニエル・カーネマン教授が2002年のノーベル経済学賞を受賞したことを記憶している方も多いでしょう。受賞の理由は、簡単に「不確実性下における人間の判断や意思決定に関して、心理学の研究成果を経済学の考え方に統合したこと」とされていますが、これは経済学の歴史の中でも一つの画期的な転換点たりうる業績でした。
 〔……〕心理学の発想を経済学の理解に活かそうという研究グループは、それまでノーベル経済学賞を総なめにしてきたような伝統的な経済学の考え方、つまり新古典派経済学のように経済プレーヤーとしての人間を完璧なクールヘッド(理性の持ち主)である「合理的」な者と捉えるのではなく、間違いも起こせば、感情に流されたりもする、より身近で現実味のある人間像を前提として経済活動や経済現象の分析にアプローチしようとしている点にありました。
 我々に近い、より「普通の」人間を経済主体として位置付け、資産選択や消費と貯蓄の選択、労働契約関係などを分析することにより、後々見ていくように伝統的な経済学では答えることのできなかった様々な謎や矛盾(これを本書では「アノマリー」と呼ぶことにします)を解くきっかけが発見されており、経済学の新しい可能性が広がってきています。
 〔……〕
 本書は、先述のカーネマン教授の研究を礎とする「新しい」経済学の分野である「行動経済学」あるいは「経済心理学」(psychology and economics)についての入門書です。改めて行動経済学とは、ここ20年ほどの間に急速に広まった経済学の一つの分野です。新古典派による標準的な経済学のように、数学的に一貫した整合的なモデルを提供するというよりは、経済学の標準モデルをベースにしつつ、現実の経済現象や人間行動を説明するようこれを補完するアプローチが中心となっています。このため、本書においても一つの整合的なモデル体系を提示するのではなく、代わりに、カーネマンらの古典的な論文やいくつかのトピックスを紹介しつつ、行動経済学に関わるいくつかのモデルや考え方の断片を「つまみ食い」するという方法論をとります。



◆章構成と概要。

   本書の構成
 本書の構成は以下の通りです。 
 第1章では、イントロダクションとして、標準的な経済学が前提としている経済主体としての人間の見方にどのような問題があるのかを考えます。また、標準的な経済学の基本的な分析道具である期待効用仮説や異時点間の消費決定モデルなどを批判的におさらいします。
 第2章は、前章で見た経済学における人間像の問題点の一つである「超合理性」という仮定を緩め、合理性に限界があるような場合(「限定合理性」と言います)の人間の行動や社会へのインパクトについて、具体例を用いて考えます。
 第3章では、限定合理性に関連して、不確実性が存在するような環境において、人々が陥りやすい思考方法や判断プロセスを見ます。具体的には、前述したカーネマンと共同研究者のトヴェルスキーが提唱した「近道選び」(ヒューリスティックス)という行動原理を紹介します。
 第4章は、前章に引き続き、カーネマンとトヴェルスキーによるもう1つの重要な理論である「プロスペクト理論」とその応用について主に見ていきます。プロスペクト理論は、リスクが存在するような状況で、人々がどのような選択を行うかについて、経済学が基本とする「リスク回避」とは異なる視点から説明するものです。
 第5章では、ここまでの復習も兼ねて、行動経済学の応用分野として最もポピュラーなファイナンスの分野について考えます。行動経済学の金融・資本市場分析への応用は、一般に「行動ファイナンス」と呼称されています。ここでは、株価リスク・プレミアムの存在や、価格バブルの形成など、有名な事例を中心にこれまでの研究成果を紹介します。
 第6章は、前章までと視点を少し変えて、時間を通じた人々の行動に焦点をあてます。特に、人々があらかじめ決めた将来の計画を実行するに際して、誘惑などに負けずにどの程度自分を律することができるか(どの程度自制が働くか)という論点を吟味します。経済学の標準理論では、消費者などの経済主体は自分を完全に律することができると仮定しています。これに対し、この章では、計画した行動と実行する行動が食い違うという「時間非整合性」の存在を指摘し、その応用研究について紹介していきます。
 第7章では、人々は利己的なのか、そうではないのかという点を見ていきます。ここではいわゆる利他的な動機に基づく行動のみならず、相手が自分に好意的な行動をとれば好意的に、敵対的な行動に対しては敵対的に振る舞うという動機付け(これを「相互応報的動機」と呼びます)にウェートを置き、このような動機付けがもたらすインプリケーション(含意)について幅広く議論します。
 終章では、全体の議論を簡単におさらいしつつ、行動経済学の可能性と限界について考察して、本書の結びとします。
 本書は、最初2003年に単行本として日本経済新聞社より刊行しました。行動経済学経済心理学の分野に関する日本語の書物は、当時もいくつか存在しましたが、その後、翻訳や国内オリジナルを問わず数多く出版されています。一方、行動経済学の理論的な基盤は2003年時点と現在とで大きく変わるものではないことから、今回の文庫化にあたって内容は大きく変更せず、行動経済学の「古典」文献に則り、限定合理性、時間を通じた行動、利他的モデルといった基礎的理論をカバーしつつ、できる限りマクロ経済への応用例に言及するというスタイルを維持しています。一方、よりアップ・デートな内容を補完するという意味で、巻末には筆者なりに選んだ行動経済学(応用を含む)に関するブックガイドを用意しました。



◆補論(pp 142-144)。経験的に得られたフィリップス・カーブについて行動経済学からの解釈、というコラム。図表は割愛した。これはどうでもいいが、官庁エコノミストの書く文章なだけあって、読点が驚くほど多い。

[補論7]フィリップス曲線の「謎」
 プロスペクト理論の有名な応用例については本文でも一節を割いて紹介しましたが、この他、「なぜ銀行は不良債権の直接償却による会計上の損失の確定をためらうのか」などといった問題に適用することも可能です。
 ここでは、マクロ経済への応用としてフィリップス曲線プロスペクト理論の関係について取り上げます。マクロ経済学をかじったことがある方は、フィリップス曲線について聞いたことがあるでしょう。フィリップス曲線とは、一般的には、失業率と物価上昇率ないし賃金上昇率との右下がりの関係のことです。つまり失業率が低いときは物価上昇率が高く、失業率が高いときは物価上昇率が低いという、トレードオフの関係を意味します。
 フィリップス曲線の妥当性については、名付け親であるフィリップスの発見以来、1970年代のオイルショック時には右下がりの関係が認識できなくなったとの批判が なされるなど賛否両論様々な議論が行われてきました。
 最近の主流なマクロ経済学においては、人々の物価上昇に対する期待が現実と一致しないような「短期」においては、依然右下がりのフィリップス曲線の関係が保たれるが、期待と現実が一致するような「長期」においてはフィリップス曲線は垂直になる、というのが通説となっています。
 この考え方に基づけば、最近の日本で、インフレ率が低位で安定しているにもかかわらず失業率が悪化しているという現象は、垂直の長期フィリップス曲線が右側にシフトしていることで説明されるでしょう。
 図表4-5 は、70年代から直近までの年次データをプロットした、簡単な日本のフィリップス曲線です。これを見ると、右下がりの関係を確認できる一方、失業率が低い局面では垂直に近い傾きを持つものの、物価上昇率が低い(あるいはマイナス)の局面では、むしろ水平に近い形を示していることがわかります(つまり、インフレ率のわずかな低下による失業率悪化の影響が大きいということです)。
 ノーベル経済学賞受賞者のアカロフ教授ら(Akerlof, et al. 2001)は、こうした最近のフィリップス曲線の形状、特にインフレ率が低い局面で曲線が水平に近い右下がりになるという特徴に対して、心理学的な観点から説明を試みています。

 図:フィリップス曲線(1973-2013)
(出所)総務省消費者物価指数」、「労働力調査」より、1973~2013年の計数。

 一つの要素は、労働者は名目賃金カットに抵抗し、企業もそれをためらうことが多いということです。これは、プロスペクト理論において、現在の名目賃金を参照点とする価値関数の損失回避性によって説明可能です。つまり、労働者は現状の給料のカット、すなわち損失を嫌うわけです。第2章で述べた貨幣錯覚の現象は、 こうしたプロスペクト理論の説明を補強します。
 カーネマンらの実験(Kahneman et al. 1991)は、人々が、インフレ率12%の際の7%の名目賃金上昇を、ゼロ・インフレ時の5%の名目賃金カットよりも好むということを発見していますが、これは損失回避性や貨幣錯覚の妥当性をサポートするものといえるでしょう。こうして、インフレ率が低い場合には、産業間の賃金調整がうまく働かない――つまり業績の悪い産業では、賃金上昇の抑制によって労働コストを抑えられる高インフレ時と異なり、労働者の抵抗などにより賃金をカットできない――ため、物価上昇と失業のトレードオフはシビアなもの(水平に近い傾き)になります。
 心理学的な説明の第二の要素は、「インフレーションが低い時には、インフレ自体が人々にとって『目立つ』(salient) ものではないため、賃金契約などにおいて将来の物価上昇という要素が無視されやすい」というものです。このような場合には、物価はある程度硬直的な動きを示すことが予想されます。
 このように、いずれの心理学的な説明によっても、インフレ率が低い局面では、物価上昇率と失業率はトレードオフの関係を持つことが正当化されますし、高失業率において曲線が水平に近くなることも説明できるのです。
 なお、関連して、マンキュー氏らは、最近の論文で、価格を決める企業等が、情報収集能力や第2章で述べた「計算コスト」といった限定合理性により、マクロ経済に関する情報を瞬時には取り込めないという仮定を置くことで、右下がりのフィリップス曲線にアプローチしています。この「粘着的情報」(Sticky information)モデルは、金融政策とマクロ経済の関係をより的確に説明できるという点で、注目を集めています。



□中毒性の高い嗜好品について(pp. 199-201)。

◆タバコ・麻薬中毒は合理的か否か?
 双曲的割引モデルの応用分野として興味深いものの1つに、一部の消費財に対する中毒性という現象が考えられます。中毒性を持つと考えられる消費財の代表的なものは、お酒やタバコ、麻薬といった財です。中毒性のある財は、①消費している時点では効用を高めるが、②アルコールなどの著積により長期的には人々の厚生にマイナスである、という二律背反の特徴を持っているといえます。ここで、双曲的割引モデルに代表される時間非整合的な消費者がなぜ中毒性を示すかについては、双曲的割引関数を持つ消費者が常に「その場の快楽」に身を委ねる傾向があることを思い出せば理解が容易でしょう。
 つまり、将来の効用まで視野に入れれば、タバコや麻薬をやめる方が厚生上好ましいにもかかわらず、消費者は常に近い将来を大きく割り引くので、タバコなどをやめるという計画を「先送り」する可能性があるというわけです。この結論は、消費者を洗練されている者と仮定しようと単純な者と仮定しようと、大きくは変わりません。
 しかし、合理的経済モデルを重んじる経済学者には、麻薬などの中毒的な消費行動も、消費者の「合理的」な選好から導かれる性質であるという理論を提唱するグループもあります。
 これは「合理的中毒性」(rational addiction)と呼ばれる理論で、ノーベル経済学賞受賞者のベッカー教授らによって唱えられています。 
  ここでいう合理的とは、選好が時間を通じて安定している、つまり双曲的割引関数ではなく、標準的な指数的割引関数に基づく時間整合的な選好を意味しています。詳細なロジックについてはベッカーとマーフィー(Becker and Murphy 1988)を参照すべきですが、極めて簡単にいうと、消費者は先に述べたタバコなどの中毒財が持つトレードオフ関係を正しく認識した上で、これを消費することの便益が費用を上回ると判断して、あえてアルコールなどの財を摂取しているということです。背景には、過去に中毒財を摂取しているほど、さらに中毒財を消費することによる効用が高まるという要因があります。
 中毒現象が合理的なものかそうでないのかは、中毒性を持つ消費財に対する政策のあり方について全く異なるインプリケーションをもたらします。例えば、タバコに対する課税を考えてみましょう。ベッカーらの合理的中毒モデルにおいては、タバコへの課税は価格の上昇によってタバコの消費を減少させますが、これは同時に消費者の効用を低下させます。
 一方、時間非整合的な選好を持つ消費者に対しては、タバコ税は一種のコミットメント手段を与えることになります。つまり、消費者は自己制御に問題を持っているため、タバコを「やめたくてもやめられない」状態にあるわけですが、タバコ税は価格の上昇を通じてタバコの消費を減少させると同時に、「タバコをやめる」というコミットメントを助けることで、結果として消費者の厚生を高めることができるというわけです。
 こうなると、現実に中毒症状のある消費者が「合理的」であるのか、「時間非整合的」であるのかを識別することが重要になってきます。しかし、実在するデータから個人の時間選好の形態を推測することは至難の業でもあります。そこでグルーバーら(Gruber and Mullainathan 2002)は、消費者の満足度に関するアンケート調査をもとに、アメリカにおいてタバコ税が増税されたときに、消費者の満足度が向上したか否かを観察しました。
 驚くことに、研究の結果として、タバコの増税に伴って消費者の満足度が向上したということが発見されています。主観的な満足度を用いることにどの程度の信頼が置けるかについては、経済学の世界でも長らく激しい議論が行われていますが、この研究は、中毒的消費の原因が合理性ではなく、選好の時間非整合性にあることを示す1つの有力な材料といえるでしょう。