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『《日本の思想》講義――ネット時代に、丸山眞男を熟読する』(仲正昌樹 作品社 2012)

著者:仲正 昌樹[なかまさ・まさき] (1963-) 政治思想史、社会思想史、社会哲学。
NDC:311.21 政治学史.政治思想史
NDC:121.6 日本思想(近代)


作品社|《日本の思想》講義 ネット時代に、丸山眞男を熟読する


※節番号を振った。


【目次】
目次 [001-007]


[前書き]――丸山眞男の“お説教”をもう一度聞く――「3・11」後、民主主義ははたして“限界”なのだろうか? と思う人々へ [009-015]
“政治哲学”の復活 
“分かりやすい議論”の罠 


[講義]第1回 「新しい」思想という病――「なんでも2・0」、「キャラ・立ち位置」、「人脈関係」という幻想 017
1.1 なぜ、丸山を“ひっぱたきたい”のか? 
1.2 “超”国家主義と公/私 
1.3 公/私と「幸福追求権」 
1.4 価値観、世界観の私事化という問題
1.5 明治国家と「かのように」
1.6 《日本の思想》の特異性――国家神道ナチス
1.7 「精神史 Geistesgeschichte」――知の座標軸とは?
1.8 サンデルの読み方!? あるいは精神の欠如について 
1.9 「日本《精神史》」と「《日本精神》史」
1.10 喧嘩=論争――「立ち位置」幻想と“家系図”作り 
1.11 伝統と外来
1.12 「止揚」vs.「ズルズルべったり」
1.13 丸山とデリダ――音声中心主義批判
1.14 ここで思想「ブーム」について考えてみる
1.15 「公式主義」=図式的思考という罠
1.16 「イデオロギー暴露」vs.「イデオロギー批判」
1.17 「新しい」思想という病――日本的なイデオロギーについて
◆質疑応答 072


[講義]第2回 「國體」という呪縛――無構造性、あるいは無限責任 075
2.1 「たこ壺」化
2.2 ねじれた論理――世界史の哲学と近代の超克
2.3 丸山のジレンマ――「湿地帯の現実」
2.4 「國體」とは何か? I ――非宗教的勢力と国家体制
2.5 「國體」とは何か? II ――個人の能力、義務の限界を超えた〈無限責任
2.6 「國體」とは何か? III ――無構造性と曖昧さ
2.7 「國體」とナチス――世界観vs. 抱擁主義
2.8 カール・シュミットと丸山――規範と権威、そして決断
2.9 フーコーと丸山――制度と精神と統治心性
2.10 「天皇制における無責任の体系」
◆質疑応答 


[講義]第3回 フィクションとしての制度――「法」や「社会契約」をベタに受けとらない 117
3.1 京大入試カンニング問題で考える日本の「責任」
3.2 現代日本の「無限責任の体系」――スケープゴートのメカニズム
3.3 「法治国家」と「法の支配」
3.4 「天下は天下の天下なり」――日本では、制度と思想はどう対応するのか
3.5 「〜を神輿としてかつぐ」という思考
3.6 人民主権をめぐる「構成的権力/構成された権力」
3.7 「臣民」の権利
3.8 スピノザホッブズ自然法思想
3.9 精神としての「國體」
3.10 「制度」の虚構性とデカルト‐カント・ラインの「コギトの命題」
3.11 中世自然法と国家理性〈raison d’état〉
3.12 “フィクション”であるという自覚――制度とナマの現実は全面的に対応しているのか
◆質疑応答 


[講義]第4回 物神化、そしてナマな現実を抽象化するということ 165
4.1 「心の問題」と「愛国心教育論争」
4.2 「制度の物神化」
4.3 制度と共同体、中間勢力
4.4 超モダンな全体主義――合理的組織化と共同体的紐帯
4.5 組織と人間――合理的思考vs. 自然な人情
4.6 近代日本の思想と文学
4.7 セカイ系? あるいは、なぜ文学に「社会」は存在しないのか
4.8 マルクス主義の効用と功罪
4.9 抽象「化」するプロセス
4.10 無限責任→無責任――理論の「フィクション」性
◆質疑応答 


[講義]第5回 無構造性、タコツボ、イメージ支配――ネット社会で「日本の思想」という“病”を考える 211
5.1 内面vs. 社会、実感vs. 理論、やまとごころvs. 漢意
5.2 「イメージ」とは何か?
5.3 「イメージ」の持続性と共同主観性
5.4 現代日本のネット社会を考えてみる――「ネ申」信仰の行方
5.5 “化け物”化するイメージ
5.6 “キャラ立ち”という新しい「自己疎外」
5.7 「ササラ型」と「タコツボ型」
5.8 日本の《学問》の根本問題
5.9 論争とは何か?――「一ぱい飲む」ことで解決するのか?
5.10 “インテリ”は死語 か?
5.11 「世論 public opinion」をリードする「政治的公共圏 politische Öffntlichkeit」
5.12 被害者意識とタコツボ型コミュニケーション
◆質疑応答 


[講義]第6回 〈『である』ことと『する』ということ〉を深読みしてみる 265
6.1 「権利」から考えてみる
6.2 「自由」とは何か?
6.3 民主主義は、制度的な虚構か?
6.4 “制度”と“行為・プロセス”の関係を哲学してみる
6.5 「である」と「らしく」――人々の間での“コミュニケーション”の作法
6.6 既存の「状態」=ステータス・クウォー(status quo)への賛美
6.7 「ある」と「する」の複雑な関係
6.8 大学を例に「身分」というものを考える
6.9 「知識人としてのアイロニカルな自己認識」
◆質疑応答 


[後書き]――“即効性”の思想など、ない(二〇一二年四月二三日 金沢大学角間キャンパスにて) [311-313]


◎ ブックガイド [315-324]
◎ 年表 [325-328]





【抜き書き】
・ルビは亀甲括弧〔〕にくくった。
・引用者(Mandarine)が省略を行う場合は、〔……〕を使う。


 19頁では、その例として本居宣長(1730-1801)を引き合いに出しています。〔……〕『日本の思想』のこの箇所でも「からごころ」批判の話が出てくるのですが、丸山は宣長が、儒教の哲学的構築性、「くだくだしき」理論内容よりも、「支配者あるいは簒奪者の現実隠蔽あるいは美化に奉仕するイデオロギーとして暴露」することに重点を置いていることに重点を置いていることに注目します。

ただこの場合いちじるしく目立つのは、宣長が、道とか自然とか性とかいうカテゴリーの一切の抽象化、規範化をからごころとして斥け、あらゆる言あげを排して感覚的事実そのままに即〔つ〕こうとしたことで、そのために彼の批判はイデオロギー暴露ではありえても、一定の原理的立場からするイデオロギー批判には本来なりえなかった。〔……〕一切の論理化=抽象化をしりぞけ、規範的思考が日本に存在しなかったのは「教え」の必要がないほど事実がよかった証拠だといって、現実と規範の緊張関係の意味自体を否認した。

 宣長のやっているのは、「イデオロギー暴露」であって、「イデオロギー批判」ではないということがポイントなのは分かると思いますが、両者の違いが分かりにくいですね。分かりにくいのは、私たちの多くが漠然と“イデオロギー批判”だと思っているものは、丸山の言う「イデオロギー暴露」であって、本当の「イデオロギー批判」にはなっていないからだと思います。
 イデオロギー暴露というのは、簡単に言うと、相手の言っていることが、単なる理屈であって現実に対応していない、という形で攻撃することです。そういう“批判”よくありますね。というか、日本の論争って、ほとんどそんなのばかりのような気さえしますね。

 [仲正2012:58ー59頁]



本文に戻りましょう。20頁から21頁にかけて、宣長が「からごころ」に浸蝕される以前の日本の「固有信仰」をどう捉えていたか、という話が出てきます。そこには、キリスト教などに見られる、人格神がいないだけでなく、究極の理法のようなものもない。日本神話では、祀られる神が同時に他の神を祀る存在だったりする。決まった教義がなく、信仰の対象も定まっておらず、無構造なわけですね。それで荻生徂徠は、昔は「神道」などというものはなかったと言い切った。そういう風に言われるのは、国学の立場としては不名誉なことではないか、という気もします。しかし、イデオロギー暴露的な戦略を取り、あらゆる「からごころ=抽象化」を拒否しようとする宣長はそれにのっかる。丸山は、そうした国学的な神道観の逆説を指摘します。

  「新しい」思想という病――日本的なイデオロギーについて
 「神道」はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習合」してその教義内容を埋めて来た。この神道の「無限抱擁」性と思想的雑居性が、さきにのべた日本の思想的「伝統」を集約的に表現していることはいうまでもなかろう。〔……〕国学が試みた、「布筒」の中身を清掃する作業――漢意〔からごころ〕、仏意〔ほとけごころ〕の排除――はこの分かちがたい両契機のうち前者(すなわち「道」のないこと)を賞揚して後者(すなわち思想的感染性)を慨嘆するという矛盾に必然当面せざるをえない。

神道」というのは、何でも中に包み込むことかできる布筒みたいなものだということですね。形の決まった容器ではないので、融通が利くわけです。それが利点のように見えるけれど、容器の形が決まっているわけではないので、これまでの話に出てきたように、中身が構造化されないで、いろんなものが整理されることなく、雑然と放り込まれている。
 そういう融通無碍で、決まった「道」がないことを宣長たちは、神道のすばらしさとして賞揚しているわけですが、その一方で、布筒の中に「漢意」「仏意」などの「不純物」が入っているからといって排除しようとする。これは確かに矛盾ですね。本当に融通無碍であるのなら、「漢意」や「仏意」も、元から布筒の中にあったものと混ざってしまって、純粋な「固有信仰」と外来信仰をきれいに区別することなどできないはずですから。融通無碍でありながら、固有の性質を保持している、というのは無理な話のような気がします。
 これは一般化すると、「アイデンティティがないことがアイデンティティになるか?」あるいは「特性がないことが特性になるか?」という問題です。無論、個人に関しても地域や国に関しても、純粋な意味では成り立ちません。〔……〕宣長国学は、日本の神道や神話の無構造性を前提にしながら、固有信仰の在り方を探求しようとするから、自己矛盾に陥ってしまったわけです。そうした矛盾を抱えているせいで、場面ごとに、汎日本主義的になったり、逆に、排他的になったりする、という機会主義的な態度をとることになる。日本のナショナリズム超国家主義の原型が出来上がったわけです。
 丸山は、国学儒教批判から生まれてきた、日本的なイデオロギーの五つの特徴を列挙しています。

(i)イデオロギー 一般の嫌悪感あるいは侮蔑、(ii)推論的解釈拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直観的解釈を絶対化する結果となる)、(iii)手応えの確かな感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、(iv)論敵のポーズあるいは現行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式、(v)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」=牽強付会として反発する思考(…)


 国学批判というより、“論争”好きのはずなのに、理性的な思考を嫌がり、抽象的な理屈をこねる相手を人格的に罵倒する、現代のダメな“論客”に対する当てこすりのように聞こえますね。自分が日常的に感じているものを自明の理とし、それを否定する“論理”を受け付けないので、話が通じない。現代の自称ネット論客にこういう人多いですね。
 言うまでもないことですが、不勉強・不真面目の極みのような現代のネット論客と違って、宣長は古典を丹念に読み解きながら“真に日本的な思考”を発見しようと努力した結果、「やまとごころ」という所に行きついたわけで、その学問的な業績は丸山はちゃんと認めています。しかし、無構造で融通無碍に見える“日本の思想”の系譜を、自ら理論的に再構造化しようとするのではなく、“無構造”のまま記述しようとしたせいで、日本的イデオロギーの元祖のような、ヘンな言説を紡ぎ出してしまったわけです。学問的には真摯でも、理論の在り方について反省するメタ理論的な考察が欠けていた。
 だからこそ丸山は、そうした“無構造の精神史”を総括して、きちんと構造化するために、これを含めていろんな論文を書いているわけですが、こういう試みって、かなり逆説的ですね。何故かというと、「これまでの“日本の精神史”は無構造であった……」と認めた時点で、その“無構造の精神史”(というイメージ)の再生産に寄与することになってしまうからです。私のこういう解説も、それにほんの少し貢献しているのかもしれません(笑)。これは、二項対立構造の存在を指摘すると、その二項対立の再生産に寄与することになってしまう逆説と同じような図式、あるいは、逆ヴァージョンですね。
 無論、「これまで無構造だったから、ここで私が『構造』を与える……」と宣言するという態度もありえますが、それだとまるで神のようですね。そういう宣言のようなものを出したがる人も時々いますが、そこは丸山は謙虚というか慎重ですね。私などは元々そんな宣言ができるような大物ではないですし、イタイ人になりたくもありません(笑)

  [仲正2012:62ー66頁]




“ 「回り道ついでに、「責任」という概念についてもう少し考えてみましょう。フランスで仕事をしている社会心理学者の小坂井敏晶さん(1956- )が、『責任という虚構』(東京大学出版会 2008)という本を出されています。丸山は、日本では西欧世界のように、主体としての個人が自分が意識的に引き起こした事態に対して責任を負うという発想が定着していないように見えることを問題にしていたわけですが、小坂井さんはむしろ、そうした責任概念が生まれてきたのは近代に入ってからであり、前近代では、責任の帰属のさせ方はもっと曖味で、動物裁判や植物裁判、魔女裁判など、自由意志の存在や因果関係などとは関係なく、“責任”を帰属させていたということ、その意味で「責任」は自然なものではなく、虚構性が高いことを例証しています。レーデラーの日本体験のことも――丸山からの孫引きの形で――例として取り上げられています。
 小坂井さんの議論を私なりにまとめると、「責任」概念の起源は、ある共同体において、秩序が破られ、メンバーの間に激しい怒りや悲しみの感情が広がった時、その犯罪を象徴する何かあるいは誰かを、スケープゴートとして破壊する儀礼にある、ということです。破壊することで、秩序の存在を再確認する。「責任」は、そのスケープゴートの割り当てにすぎない、というわけです。近代の個人主義的な「責任」概念は、そのスケープゴートを、具体的な行為者に限定するロジックであるけれど、その背後には、象徴的な処罰によって秩序を回復しようとするスケープゴートのメカニズムが働いている。凶悪犯罪が起こった時に、その身内にまで非難が及んだり、飲酒運転などで学校の教員が逮捕された時に、校長が謝罪会見などするのは、その現われだというわけです。小坂井さんの現状認識だと、現代日本では新自由主義の影響で個人の自己決定が称揚されているように見えるけど、それと反比例するように、秩序の回復のためにスケープゴートを求める風潮がかえって強まっているということです。
 小坂井さんは、個人主義的な「責任」概念が虚構であるのと同様に、その根拠としての「自由意志」も理論的な虚構ではないか、と示唆しています。これは刑法と法哲学の境界領域でしばしば指摘されたことです。動物のように物理的因果法則によって動く存在ではなく、「自由意志」を持った自己の行動を制御できる「主体」であるからこそ、「責任」を問うことができるというのが、近代法の前提です。心神喪失の人は、自由意志を喪失したまま――ある意味、動物のように――違法行為をしてしまったので、「責任」を問うことができないわけです。しかし、そうは言っても、本当に私たちの内に「自由意志」があるのか、よく考えてみると、疑問です。
 西欧哲学で、個人の「自由意志」を最も徹底して追求した哲学者は、カントです。カント研究者として有名な中島義道さん(1946- )は、『後悔と自責の哲学』(河出書房新社 2006)で、カントが言っている「自由意志」というのは、実在するものではなく、事が終わった後で、「こういう風にやっていればよかった。実際、そうできたのではないか? どうしてああい選択をしてしまったのか?」という後悔の念によって、過去に投影される形で生み出される「虚構」ではないか、と示唆しています。実際には、その瞬間にはいっぱいいっぱいになっていて、理性的に考える余裕もなくそういう行動を取ってしまったかもしれないのに、後から、他行為が可能であったかのように想像してしまう。その「自由意志」の虚構に基づいて、「責任」概念が制度化されるようになった、というわけです。
 そういう風に考えると、丸山は西欧近代が作り出した「虚構」を実体視して、持ちあげすぎているのではないか、という気がしてきますが、42頁でも述べられているように、丸山は、西欧的な制度を支える諸概念が「虚構(フィクション)」であることを十分に意識しています。それどころか、「虚構」であることをはっきり自覚してはじめて、「制度」をちゃんと運営することができるようになる、ということを示唆しています。「制度」が「現実」に完全には合致しないことを分かったうえで、両者の緊張関係を保持していくことが重要です。むしろ、虚構性を意識しないで、制度的な諸概念を,自然な、ものと見做す態度、実体視してしまう態度こそ問題である、というのが丸山の立場です。
 いずれにしても、「個人」の「責任」の範囲を厳密に規定しようとする、西欧式の制度的虚構は日本社会にはうまく定着せず、前近代的なものを感じさせる独自の“責任”観が作用している、ということですね。これは、丸山だけでなく、いろんな人が指摘している問題です。割と最近の議論としては、柄谷行人(1941- )が『倫理21』(平凡社 2000)で、大事件の犯人の「親の責任」が追及され、しかも、その親が子供を擁護することが許されない空気が生まれることを、日本的な倫理の問題として言及しています。

  [仲正2012:124ー126頁]




〔……〕丸山が何故「虚構性の自覚」を強調しているかははっきりしていますね。日本では、虚構性についての自覚が薄かったわけです。天皇を中心とする「國體」イデオロギーを国民の内面へ浸透させ、人々の生をコントロールすることがある程度成功したおかげで、自分たちの法や政治が「虚構」に基づく「制度」であることが次第に忘却されていった。しかも、それを批判的に想起させるような思想や言説があまり育たなかった。そこを強調したいのだと思います。憲法制定時の伊藤・森論争のようなものを想起すれば、「國體」が決して日本の伝統的風土とか国民の本性に根ざしたものではなく、「虚構」であることは見え見えですが、「それは制度上のフィクションだろ?」、と問いかける声が弱いので、極めて人為的に構築された統治の仕組みが、自然視されるようになる。
 こらは丸山というより私自身の意見ですが、日本の政界や論壇には、法律や条例、倫理指針などを作ることによって、人の心や態度まで変えることができるかのような物言いをする人が多いような気がします。例えば、教育基本法などの法律を改正して、愛国心、郷土愛、ボランティア精神、利他心などを教えることについての是非をめぐる議論がありますね。法律で、子供たちの欲望が“悪いも”に向かわないよう制度的にコントロールする、という話です。〔……〕どっちも、「制度」が「虚構」であることを忘れ、制度と生の現実が全面的に対応しているかのような語り方をしがちです。宮台さん式の言い方をすると、制度をベタに受け取ってしまう。

  [仲正:161頁]