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『自由のジレンマを解く――グローバル時代に守るべき価値とは何か』(松尾匡 PHP新書 2016)

著者:松尾 匡[まつお・ただす]
NDC:331 経済学.経済思想


自由のジレンマを解く | 松尾匡著 | 書籍 | PHP研究所


【目次】
まえがき [003-014]
目次 [015-023]


第1章 責任のとり方が変わった日本社会 025
責任のあり方が変わった
二種類の責任概念と「自己責任」論
イラク日本人拘束事件での「自己責任」論の奇妙なねじれ
与えられた役割を果たすのが日本社会の「責任」
なぜ自己責任が強調されるようになったのか
自己決定は善か悪か、「補償」か「詰め腹」か
「道徳的に劣っている」と理解する日本型「自己責任」論
日本社会には「無意識の後ろめたさ」がわだかまっている
イラク日本人拘束事件での「自己責任」論の「悪いとこどり」
「ジョブ型責任」と「メンバーシップ型責任」
人間関係のシステムの二大原理
固定的人間関係による解決
流動的人間関係の解決
流動的人間関係のシステムで固定的人間関係の振る舞いをすると
再び「マグリブ商人 vs. ジェノア商人」
「集団のメンバーとしての責任」の根拠
「自己決定の裏の責任」の根拠
フィットする責任概念が変わった


第2章 「武士道」の限界 063
社会関係資本」の構築の前提になるもの
南イタリアで支配的だったのは「固定的人間関係」
損をしてでも他人の足をひっぱる性質を持つ日本人
流動的人間関係の中では最悪の結果をもたらす
「内集団ひいき」をもたらす心理
固定的人間関係であてはまる内集団ひいき
内集団ひいきが完全協力を引き出すとき
対内道徳と対外道徳が正反対
人間関係システムが人間行動を規定している
武士道 vs. 商人道


第3章 リベラル派vs.コミュニタリアン 095
ロールズ流社会契約論による福祉の位置づけ
リベラル派社会契約のリアリティがなくなった
「国家間バトルロワイヤル」というグローバル市場観
国際競争に勝とうとすると国の独自性がなくなる
文楽」と「君が代」の矛盾はもはや成り立たない
コミュニタリアン思想に依拠した「第三の道
コミュニティ路線が極右排外主義を生んだ
コミュニタリアンのリベラルとの妥協
アメリカのコミュニティだから成り立った妥協
コミュニティの独自性尊重でいいのか
極右の解決はスッキリしているが破滅への道
「国家かコミュニティか」という問題は間違い


第4章 リバタリアンハイエクを越えよ 128
左翼リバタリアンは課税を正当化するが
確定不能な責任補償という位置づけ
ほんとうに「自己決定」なんかしているのか
「積極的自由」と「消極的自由」
人身御供は自由の抑圧とは言えないのか
ハイエクが重視するのは「偉大な社会」の普遍的ルール
誰にも命令されないのにみんなイヤイヤ残業するケース
ミルの「慣習による専制
複数のナッシュ均衡の悪いほうにはまる
独裁者の強権支配も、各自の最適行動によって維持される
不況に陥って失業するのも同じ図式
事前的ルールをも変える自由が求められる
慣習や流行を「望んで」受け入れる人はどこまで自由か?


第5章 自由と理性 167
バーリンの「積極的自由」批判
理性を主人公にする「自由」が抑圧をもたらす
理性だけが「自分」ではない
リバタリアンの「合理的個人像」は矛盾している?
固定的人間関係での「伝統」という解決
私有財産権の「範囲」をあてがう解決


第6章 マルクスによる自由論の「美しい」解決 187
「生身の個人」をそのまま容認できるか
マルクスに共通する二項対立概念
疎外論」を捨てて「唯物史観」になっただって?
唯物史観」も疎外論の一つ
疎外はなぜ起こるのか
前近代ではヒトがヒトを支配する
近代市場経済のシステムでは「モノ」が支配する
資本主義によって「特殊」は「普遍」となる
二十世紀ではマルクスの展望は成り立たなかった
マルクスの展望の復活か


第7章 「獲得による普遍化」という解決――センのアプローチをどう読むか 219
アイデンティティ喪失という解決
「ニーティ」の正義と「ニヤーヤ」の正義
コミュニティの一員としてのアイデンティティの強調がもたらす地獄
アイデンティティの複数性」という解決
事業的解決がセンのイメージ
ロールズをこっそり頭の奥に置いている
カントの「統整的理念」と「構成的理念」
「当事者決定/基準国家」に対応する「ニヤーヤ/統整的理念」
「個」と「全体」の総合の復権


第8章 疎外のない社会への展望 245
大塚久雄の確信犯的改ざん
善玉ヨーマン農民 vs. 悪玉国王・領主・大商人・高利貸し
自立したプロテスタントが勝利する物語
大塚批判の時代
大塚批判がネトウヨにつながった
「生身の個人」を「培地」、行動原理を「ウイルス」だと考えてみる
「培地」の目的と「ウイルス」の目的が異なる場合もある
「培地/ウイルス」モデルで唯物史観を解説する
「培地」にとっての自由
なぜ自殺は止めた方がいいのか
「ウイルス」にとっての自由
新しい観念を創造する自由
淘汰の結果を受け入れるのが「責任」
観念はあまねく広がることを目指す
疎外のない社会の展望




【メモランダム】

・版元サイトに掲載された商品紹介(PR)文の通り、本書は著者の『商人道ノスヽメ』(2009年)を下敷きにしている。

 人間関係が固定的で、個人の責任とは集団の中で与えられた役割を果たすこととみなされる「武士道型」の社会から、グローバル化によって人間関係が流動的な「商人道」型の社会に移行している現代においては、個人の責任は自らの自由な選択に対して課されるようになる。このような時代にフィットすると思われる思想はリバタリアン自由至上主義であるが、リバタリアンは福祉政策にも景気対策にも公金を使わないことを主張することが多い。これらの政策はいかにして正当化されるのか。また、様々な文化的背景を持つ個々人の「自由」の対立は解決できるのか。かつてマルクスは、文化の相違をもたらす、人間のさまざまな「考え方」による抑圧を批判し、単純労働者による団結・調整により自由は現出すると考えたが、労働の異質化が進んだ現代ではその展望は実現しない。しかし、アマルティア・センの提案が大きなヒントになる――。俊英の理論経済学者が、現代の新たな自由論を構築する。