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『借りの哲学』(Nathalie Sarthou-Lajus[著] 小林重裕[訳] 太田出版 2014//2012)

原題:Eloge de la Dette
著者:Nathalie Sarthou-Lajus[なたりー・さるとぅー=らじゅ]
訳者:小林 重裕[こばやし・しげひろ] (1979-) 翻訳。
解説:國分 功一郎[こくぶん・こういちろう] (1974-) 近世哲学(17世紀の)、現代フランス哲学。
シリーズ:atプラス叢書;06


借りの哲学(atプラス叢書06) - 太田出版


【目次】
目次 [001-007]


はじめに――《負債》から《借り》へ 010
  借りたものを返せないと奴隷になる 012
  《負債》と資本主義 013
  《借り》と資本主義 015
  《借り》の概念を復活させる 017
  《借り》を肯定的に捉える 018
  《贈与》と《借り》の関係 020
  臓器提供の話 022
  自分には《借り》があると思うことの効用 024


第1章 交換、贈与、借り 029
  ヴェニスの商人――人間関係が持つ複雑性 033
  《贈与》と《負債》が同一の軌跡をたどるとき 037
  《本当の贈与》とは何か? 041
  キリスト教における《負い目の論理》――ニーチェの考え 043
  原始経済における《負債》の理論――モースとニーチェ 045
  モースの『贈与論』 047
  《贈与交換》を取り入れた社会 051
  ニーチェの『道徳の系譜』 053
  《贈与》と《交換》と《借り》の関係 055
  家族における《貸し借り》を共同体が引き受ける 058
  貨幣経済をもとにした資本主義――「《等価交換》―《負債》」のシステム 062
  金融市場を通じた《負債》の増大 066
  《借り》を大切にする社会 070
  《借り》のシステムと政府の役割 074


第2章 《借り》から始まる人生 081
  タラントのたとえ話 083
  神から与えられた才能は世の中に返さなければならない 085
  《借り》と支配 088
  ブドウ園の労働者のたとえ 090
  《生まれながらの借り》 092
  《義務》は物質的な《負債》から生まれた――ニーチェの考え 093
  物質的な《負債》は《義務》から生まれた――バンヴェニストの考え 095
  負債の神学――マラムーの考え 097
  同時代に生きている人々に対する《借り》 099
  家族における《借り》 102
  母と子の関係 103
  ソロモン王の裁判 105
  父と子の関係 108
  サンタクロースの贈り物 111
  家族における《貸し借り》の問題 114
  《借り》と《罪悪感》 118
  ナチスの罪と《罪悪感》 120
  人間は罪を犯しやすい 123
  《返すことのできない借り》――メランコリーと強迫神経症の場合 124
  《象徴的な返済》と《想像的な返済》 127
  《借り》と《責任》 132
  レヴィナスにおける道徳的責任 133
  《他者に対する責任》と《生まれながらの借り》のちがい 134
  《借り》は《責任》の大きさを限定する 137
  《借りの免除》――「赦し」の問題 139
  どうしても赦すことのできない《罪》をどうするか? 141
  「正義」と「赦し」――ニーチェの考え 142
  「赦し」の実体――慈悲の心と感謝の気持ち 145
  スピノザにおける感謝の気持ち 147
  キリストの愛 148
  現代における《借り》とその免除 150


第3章 《借り》を拒否する人々 157
  ドン・ジュアン――《借り》を拒否する人生 159
  《借り》を認めない 161
  自分としか契約を結ばない男 164
  肥大した自己愛 167
  《借り》から逃走する 170
  空虚な内面 173
  個人主義と《借り》の否認 175
  「革命」と「自由」の矛盾した関係 177
  仮面の個人主義 180
  《借り》から逃げることの悲劇 182
  薬物嗜癖と《返すことのできない借り》 184
  現代人と騎士の石像 186
  ドン・ジュアンの末裔たち――自律した人間(セルフ・メイドマン)から機会主義者(オポルチュニスト)へ 188
  自律した人間(セルフ・メイドマン)――《借り》を認めない人々 189
  全能感という幻想 192
  機会主義者(オポルチュニスト)――《借り》から逃走する人々 194
  逃走者の自由 196
  人間の部品化 198
  人間は《借り》から逃げつづけることはできない 200

 
おわりに――《借り》の復権 [204-216]
  《借り》の負の側面 207
  《借り》の正の側面 209
  《返さなくてもよい借り》 212
  新しい自分を目指す 215


解説 借りに満ちた世界、そして……(國分功一郎) [217-229]
  本書の企図――いくつかの概念 217
  借りを巡る諸問題(1)  220
  借りを巡る諸問題(2)  222
  家族と資本主義 224
  借りの哲学の展開に向けて 226
  注 229




【抜き書き】


pp. 47-49
・贈与論の贈与交換について(すこし長め)。

 最初はモースの『贈与論』である。マルセル・モースは20世紀の前半に活躍したフランスの社会学者、文化人類学者で、幼少の頃から、有名な社会学者である叔父のデュルケムの薫陶を受け、メラネシアポリネシアアメリカ先住民など、いわゆる「原始的な民族」とされる人々の宗教、社会、経済の研究を行なった。『贈与論』は、その代表作である。
 この本のなかで、モースはまず「原始社会においては、生産物が単純に交換されることはなく、経済的な事物のほかに、饗宴、儀礼、軍事活動、舞踏、祭礼、そして、女性や子どもなどが、部族と部族の永続的な契約の一部として、全体的に交換された」としている。その《交換》は、「ある部族が契約を交わしている部族を饗宴に招き、舞踏などで歓待しながら、女性や子ども含めた贈り物をすると、次に贈り物を受けた側が返礼として、同じように相手を招待して、贈り物をする」というかたちで行われる。すなわち、経済のみならず、宗教、道徳、文化など、あらゆる分野で、《贈与》の《交換》が行なわれるわけである。モースはこの《贈与交換》のシステムを「全体的給付体系」と呼び、市場の確立や貨幣の発明に先立つものであるとした。
 さて、こうして「全体的給付体系」について説明したあと、モースはこのシステムの発展的な形態であるポリネシアの「ポトラッチ」やメラネシアの「クラ」について考察する。「ポトラッチ」とは、部族の指導者などが家に客を招待し、贈り物を含めて、「相手をもてなす」というかたちで行なう《贈与》のことである。この《贈与》は一方的に行なわれるものではなく、もてなされた客のほうも、これに返礼するかたちで相手を招待し、最初に招待された《贈与》の借りを返した。この場合、《贈与》は「どちらがより多くのものを与えるか」という名誉と威信を懸けたものになり、競争的なものになった。
 いっぽう、「クラ」のほうはメラネシアの島々で行なわれる祭儀的な交易で、象徴的な贈り物として、赤い貝でできた首飾りと白い貝でできた腕輪が島々のあいだを一周するかたちで人から人に《贈与》されていった(赤い貝の首飾りは時計まわりに、白い貝の腕輪は反時計まわりに島々をめぐって、逆にまわることはない。また、赤い貝の首飾りを《贈与》された者は、その返礼として白い貝の腕輪を《贈与》することになるが、この交換は必ず日を置いて行なわれ、同時にされることは禁じられていた。それによって、少なくとも形式的には、《交換》ではなく、《贈与》がなされたことになるからである。そして、このクラの機会に物の交換や知識や情報の交換が行われた)
 ここでまず大切なことは、ポトラッチにしろ、クラにしろ、「全体的給付体系」においては、《贈与》に対して必ず返礼が行なわれるということである。実際、モースによると、「全体的給付体系」には、三つの義務がある。「贈り物を与える義務(贈与の義務)」、「贈り物を受け取る義務(受領の義務)」、「贈り物にお返しをする義務(返礼の義務)」である。そして、この三つの義務を拒否すれば、争いの種になったり、あるいは義務を果たさなかった不名誉を身に受けることになるのであるが、このうち、最も強制力があったのは、「返礼の義務」であったという。


□50頁

〔……〕ここには本当の意味での《贈与》はない。《贈与》を受けたら、それは《借り》になり、返さなければならないのである。「返礼」を通じて、《贈与》は交換される。《贈与交換》と呼ばれる所以である。
 この《贈与交換》において、もうひとつ大切なことは、《贈与》を受けた《借り》は返さなければならないが、そのときに返されるものは、もらったものと等価ではないということである。つまり、そこでは「等価交換の法則」が成り立たないのだ。



□贈与と信頼について。
58頁

 ニーチェは「借りたものを返すことによって、人は約束を守る存在になる。すなわち、責任を持った、信頼される存在になる」と言ったが、この《贈与交換》における「信頼」はニーチェの言うものとはまたちがったものになる。それは「あらかじめ相手を信頼する」ということだ。「貸したものが返ってきて、初めて相手を信頼する」、あるいは「借りたものを返して、初めて信頼される存在になる」のではなく、「相手に贈り物をすれば、きっとそれがなんらかのかたちで返ってくる」と、返ってくる前から、お互いに相手を信じることなのである。