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『不健康は悪なのか――健康をモラル化する世界』(Jonathan M. Metzl, Anna Kirkland[編] 細澤仁ほか[訳] みすず書房 2015//2010)

原題:AGAINST HEALTH: How Health Became the New Morality
編者:Jonathan M. Metzl
編者:Anna R. Kirkland
訳者:細澤 仁[ほそざわ・じん](1963-) 精神科医臨床心理士
訳者:大塚 紳一郎[おおつか・しんいちろう](1980-) 臨床心理士
訳者:増尾 徳行[ますお・のりゆき](1968-) 臨床心理士
訳者:宮畑 麻衣[みやはた・まい](1987-) 臨床心理士
NDC:498.3 公衆衛生 >> 個人衛生.健康法


不健康は悪なのか | 健康をモラル化する世界 | みすず書房


【目次】
目次 [/]


第1章 イントロダクション――なぜ健康に異議を唱えるのか?〔Jonathan M. Metzl〕 003


第I部 ところで、健康とは何だろう?

第2章 健康とは何なのだろう? そして、どうしたら健康になれるのだろう?〔Richard Klein〕 018
  新エピクロス主義 029


第3章 肉体の肥大に伴う危険性――肥満、食事、そして「健康」のあいまいさをめぐって〔Lauren Berlant〕 031


第4章 グローバルヘルスへの異議?――健康を通して、科学、非科学、そしてナンセンスを調停すること〔Vincanne Adams〕 046
  グローバルヘルス 047
  グローバルヘルス・サイエンス 054
  結論――真実の調停者としての健康 065


第II部 道徳から見た健康

第5章 遺伝子時代、健康をめぐっての社会的不道徳――人種、障害、不平等〔Dorothy Roberts〕 070
  人種、そして個人に特化した薬品 072
  生殖遺伝学、ジェンダー、そして障害者の権利 077
  新自由主義、社会的正義、健康 080


第6章 肥満パニック、そして新しき道徳〔Kathleen LeBesco〕 082


第7章 (ときには)おっぱいの育児に異議を唱える〔Joan B. Wolf〕 095
  脆弱な研究 096
  避けがたいリスク 100
  おっぱいの育児にかかるコスト 102


第III部 健康と疾患を造り出すこと

第8章 製薬業界のプロパガンダ〔Carl Elliot〕 108


第9章 受動‐攻撃性パーソナリテイ障害の奇妙に受動‐攻撃的な歴史〔Christpher Lane〕 124


第10章 強迫性障害の氾濫――精神医療への異議〔Lennard J. Davis〕 144
  OCDとは障害なのか、それとも疾病単位なのか 146


第11章 原子力への異常な愛情――あるいはいかにして原子力爆弾は死に関するアメリカ人の考え方を変えたのか〔Joseph Masco〕 160


第IV部 健康になった後の快楽と苦痛

第12章 セックスは健康のために必要か?――無性愛という悦び〔Eunjung Kim〕 186
  病理学に、そして健康という名のもとでの対抗スティグマに反対する 189
  『ボンネットの下は』と『スノー・ケーキを君に』――二つの異なるパラダイム 194
  結語 202


第13章 備えよ――サバイバーシップは癌患者の義務なのか?〔S. Lochlann Jain〕 203
  アメリカにおけるサバイバーシップ 207
  蓄財 209
  時間と蓄財 214
  結論 218


第14章 苦痛の名のもとに〔Tobin Siebers〕 221


第15章 結語――来たるべき健康とは?〔Anna Kirkland〕 235


訳者あとがき(二〇一五年二月三日 訳者を代表して 細澤 仁) [249-250]
注 [iii-xxxiv]
執筆者一覧 [i-ii]






【抜き書き】
・傍点による強調は黒太字で代用した。
・下線は引用者による。
・引用者による省略は、〔……〕で示した。
・註釈は、直後に【 】で本文に埋め込んだ。


□まずはJonathan Metzlによる導入(「第1章 イントロダクション――なぜ健康に異議を唱えるのか?」)。本書の問題設定。
 ところで三段落目の「健康がある設定から別の設定に移行可能な実体であるとの想定」という訳文にある「設定」とは何のことだろう。

  健康に異議を唱える立場をとることなど誰にできようか?〔……〕私たちは健康に賛意を表するべきではないのか?
  著者を代表し、私は、次のような信念を宣言することで、これらの疑問に答えることにしよう。どなたでも、本書を読む前、読んでいる最中、読み終わった後、不調を感じているならば、医学的診察をただちに求めるべきである。感染症の原因は病原微生物である。ペニシリンは有効である〔……〕。バイクのヘルメット、日焼け止め剤、腸溶性錠剤に賛成であり、豚インフルエンザと闘う。おそらく、私たちのほぼ全員が、疾患の発症率と有病率における格差は、収入と社会的サポートの格差と密接に関連していると思っている〔……〕。多くのアメリカ人にとって、ヘルスケアを受け、健康保険を十分利用できるという目標は、今なお達成できていない。私たちは、そのような格差は是正されるべきであると思っており、昨今のヘルスケアの適用範囲の拡大を強く支持する。
  同時に、本書の使命をただ単にヘルスケア資源の再配分を要求することと定めてしまうと、正鵠を射ることができない。なぜなら、資源の再配分を支持する議論は、健康がある設定から別の設定に移行可能な実体であるとの想定に基づいていると理解できるからである。たとえば、富める者は健康を手にすることができるが、貧しき者にはそれが叶わない、となる。このような主張は正当なものであるが、そのように主張してしまうと、健康それ自体は、取り扱われるべき問題の一部にすぎないことが見過ごされてしまう
  合衆国内における最近の政治的論争が示しているように、「健康」は価値判断、ヒエラルキー、盲目的想定に満ちあふれた用語である。そこから、幸福だけではなく、権力や特権との関連も同程度に伝わってくる。健康は望ましい状態ではあるが、規定された状態でもあり、イデオロギー的立場でもある。誰かがタバコを吸うのを見ると、反射的に「喫煙は健康に悪いよ」と言ってしまうのだが、その都度、私たちはこの二分法を現実化しているのだ。その際の真意は「タバコを吸うなんて、悪い奴だ」ということなのである〔……〕。そして、私たち自身の健康の定義は、一部分、他者に対する価値判断に依拠している。私たちは、彼ら(喫煙者、過食者、活動家、人工栄養で育児を行う人)を見て、そのプロセスの中に私たち自身の健康を認識する。


・巷でマジックワードとして用いられる「健康」について。下記のように、強い主張がこの言葉に覆われて日常に氾濫していることを指摘している。この章では三つの例を挙げているが、そのうち一つを抜粋。

  「なぜ健康に異議を唱えるのか?」という疑問に答えるため、私はある戦略を立てた。友人、親戚、あるいは患者さえも、この疑問を提起する。その際、私は返答する代わりに、対話者に、日々の生活の中、一日でよいから健康という言葉の用法に注意を払うよう求めるのだ。「この用語はどのような場面に表れるでしょうか?」と私は尋ねる。「その意味は何でしょう?」や「その目的は何でしょう?」など。この簡単な課題には、健康は明らかに普遍的な善であるという想定を複雑化する意図がある。
 〔……〕
  テレビをつけると、あなたの子どもの健康に訴えることで、あなたに禁煙を請う公衆衛生広告が放映され、さまざまな健康についての考えが出現する。最近のミシガン・キャンペーンでは、家や車の中で、ひとり残された子どもたちが登場する。子どもたちは、孤立無援で、親の副流煙を吸い込むはめに陥っている〔……〕。ナレーターは、「あなたが子どもの周囲でタバコを吸うとき、子どもたちもタバコを吸っているのと同然なのです」と説明する【「これはあなたのものですか?」ミシガン・コミュニティ・ヘルス局とミシガン放送局協会.http://www.youtube.com/watch?v=mE-_zA-ZZIO, http://anti-smoking-ads.blogspot.com,2008年10月3日にアクセス.】。
  このようなアピールを道徳主義命名すると、ある特定の批判が巻き起こるだろう。この広告は副流煙の有害な影響を突きつけており、それは確かに重要なことである。しかし、それを健康命名すると、これらのキャンペーンが、喫煙者は、無責任で怠慢な親〔……〕あるいは己の唯我独尊的嗜癖をもって子どもをゆっくりと殺す親である、という実に幅広い一連の想定を造り出すことが許容されてしまう。この定式化において、胸膜の健康は良識と密に提携している。一方、喫煙という疾患は、肉体だけではなく、魂をも蝕むのである。


・続いて、(医療)社会学者からなされた指摘について。ビッグネームが並んでいる。
 この抜粋部分以降には、Peter Conradの「医療化レトリック」や、はたまた消費者側(患者側)・医師側の双方から声の上がる、「大量消費主義レトリック」まで列挙されている。

  本書の目的は二つの部分に分けられる。第一の目的は、第二の目的と比べると、はるかに容易である。第一の目的は、健康を分析し、その構成に含まれるイデオロギー、構造、塩基対、盲目的想定を探究することである。この点に関しては、多数の理論的道具が準備されている。たとえば、著名な社会学者であるアーヴィング・ゴッフマンの著作を通じて、健康はある種のスティグマ化レトリックであると批判されるだろう。そのようなレトリックは「異種族間の出会い」の瞬間に定義されるのであり、その出会いの中で、サイズ、色、能力に基づく差異の刻印が、正常者の集団と、そこから排除された他の人々の集団とを創り出すのだ。ゴッフマン的見解からは、自分自身の健康を確認するためには、他者の不健康を絶えず認識すること、それどころか、他者の不健康を創出すること、が必要となる【Erving Goffman, Stigma : Notes on the Management of Spoiled Identity (Englewood Cliffs, NJ: Prentice Hall, 1963)】。
  哲学者であるイヴァン・イリイチの著作は、同じく、健康を潜在的植民地化レトリックとして批判するのに役立つ〔……〕。その本(引用者注:『脱病院化社会』)の中で、医療制度は、臨床的、社会的、文化的「医原病」の産出を通して、「健康への脅威」をもたらすと論じられている【イリイチにとって,西欧医学は,治癒,老化,死といった問題を医学的疾病として概念化することで,人間の生を効率よく「医療化」したのである.そのため,個人と社会はこれらの「自然な」プロセスを取り扱い難くなってしまったのである. Limits to Medicine: Medical Nemesis, the Expropriation of Health (London: Marion Boyars, 1976) を参照のこと.次の論文も参照のこと.Renee C. Fox, “The Medicalization and Demedicalization of American Society" in Doing Better and Feeling Worse : Health in the United States, ed. John H. Knowles (New York: Norton, 1977), Peter Conrad, "The Discovery of Hyperkinesis : Notes on the Medicalization of Deviant Behavior", Social Problems 23, no. 1 (October 1975): 12-21, Jonathan M. Metzl and Rebecca M. Herzig, "Medicalization in the 21st Century : Introduction", The Lancet 369, no. 9562 (February 2007): 697-98.】。一九八〇年代には、イリイチは、健康の定義それ自体を含むべく自らの批評を拡張した〔……〕。イリイチは、人々が病気や疾病からの解放を求めるべきではないと言いたいわけではない。むしろ、彼は、アメリカ社会は、達成不能な理想に基づく健康の定義を推進しており、そこには、苦痛、老化、死、その他自然な過程の入り込む余地がなくなっていると論じたのだ【Lee Hoinacki and Carl Mitcham, eds, The Challenges of Ivan Illich : A Collective Reflection (Albany: State University of New York Press, 2002) を参照のこと.また,"Ivan Illich at Penn State: Continuing the Conversation", Penn State University, http://www.pudel.uni-bremen.de/pdf/sym11_04_psu_en.pdf も参照のこと.2007年2月28日の Robert M. Duggan との私信からの引用)】。
  また、タルコット・パーソンズアーヴィング・ゾラ、その他多数の医学社会学者による研究は、健康に規範化レトリックの役割を割り振っている。たとえば、ゾラは、「一時的健常者」というフレーズを支配的な健康概念に挑戦する方法として擁護し、身体性、能力、そして究極的には正常性といった問題を決定する際に、「医学的影響がもたらす社会・政治的帰結」を批判した【Irving Zola, "In the Name of Health and Illness: On Some Socio-Political Consequences of Medical Influence", Social Science and Medicine 9, no.2 (February 1975): 83-87 を参照のこと.また,Irving Zola, "Bringing Our Bodies and Ourselves Back In : Reflections on a Past, Present, and Future Medical Sociology", Journal of Health and Social Behavior 32, no.1 (March 1991): 1-16 も参照のこと.さらに,私たちは,哲学者ルイ・アルチュセールの著作を紐解き,健康を患者・医師双方を迎え入れ,定義する改変レトリックとして定義するだろう.たとえば,患者が,薬の広告に迎え入れられた後に,病院を受診し,広告にあった商標名の薬を名指しで希望するとしよう.その際,この見解は諸契機を分析するのに有用である.なるほど,そのような諸契機は消費者エンパワメントを表してはいるのだが,そのエンパワメントは,ジェネリック,ハーブ療法,ホリスティック医学,健康経済の外部として代謝される他の解毒剤を知る機会を奪うような象徴的指揮下に入るという犠牲を伴う.】。そして、もちろん、フランスの社会学ミシェル・フーコーは、健康を権力の言説、すなわち、抑圧的というよりもむしろ生産的な言説として理解することを正統的に促進した。フーコー的観点から眺めれば、アメリカ社会における際限のない健康談義は、それ自体とその話題を生産し、統制しているのである〔……〕。私たちの意に沿わない発言も、意に沿う発言も、そのような生権力に隷属している。どちらの発言にしても、私たちを真の抵抗の可能性から遙か彼方に遠ざける役目を果たしているのである【Michel Foucault, The History of Sexuality (New York: Pantheon, 1978)を参照のこと.】。


・イントロの締めとなる部分。本書が、単なるイデオロギー暴露にとどまらず、健康への批判と実現可能な選択肢の提案を行うとのこと。
 一段落目の「一連の疑問」は分量が多かったのでだいぶ省略した。
 二段落目は、批判と提案について書いてある。

  さまざまな健康批判に取り組むことで、本書の意図の中心にある一連の疑問が避けがたく湧き上がってくる。今日の健康概念は、従前の健康概念を単に拡張したものにすぎないのだろうか、それとも、現在の生政治の時代において作用している異質な力なのだろうか?【たとえば,John Dewey, Theory of Valuation, vol.2. No.4 of International Encyclopedia of United Science, ed. Otto Neurath(Chicago: University of Chicago Press, 1939), 1-67を参照のこと.】〔……〕こうした新たな状況により満たされるのは、誰の指針なのだろうか? そして、阻止され、取って代られたのは、誰の指針なのだろうか? エリート主義者、保守主義者、自由主義者構造主義者、活動家、移民、新たに死すべき者となるのは誰なのだろうか? そして、なぜ? 
  この部分、すなわち理論的部分を頭に浮かべるのは比較的簡単である。実際のところ、あらゆる健康批判には、私たちが異議を唱えようとしている当のコンセンサスを形成してしまう危険性がある。私たちがそれに関して何をなすべきか問いを立てることは、はるかに困難な課題である。私たちが前進を望んでいるとして、健康批判は私たちをどこに連れてゆくのだろう?〔……〕要するに、私たちが健康ではないとしたら、私たちが得たものは何なのだろう? こうした「何をなすべきか」という疑問に答えるためには、抽象的なことを犠牲にして、具体的なことを強調する必要がある。というのも、健康があまりにイデオロギー的な概念であると批判するならば、必然的に、私たちはこの同じ基準に対して抵抗しつづけなければならないからである。そして、健康を批判するだけではなく、実現可能な一連の選択肢を提案するつもりならば、私たちはそれらの疑問に取り組まなければならない。
  それゆえ、健康は長寿の条件であるとともに、イデオロギーの条件でもあると考える学問的ムーブメントが盛んになってきているが、引き続き、そのムーブメントの識別を試みることにする。私たちの分析は、けっして委細を尽くしたものではなく、ある一定の指針を表現しているわけでもない。むしろ、私たちは、さらなる議論を喚起すべく、探究、討論、さらに意見の相違さえも、その中心線を強調している。本書の著者たちは、とりわけ医学、法律、生命倫理、歴史、ジェンダーLGBTの研究、アフリカ系アメリカ人の研究、障害の研究、文学研究、等々の学問分野を代表するオピニオン・リーダーである。多くの章が、合衆国における健康の構成に焦点を当てている〔……〕。全体の統一のため、それぞれの著者に、「なぜ健康に異議を唱えるのですか?」という同一の質問に答えるよう求めた。
  本書は、テーマ別に四部構成となっている。各部とも、健康がイデオロギー的に生産される特定の道筋を取り扱っている。



【メモランダム】
・健康言説を扱った日本語文献の一例。


佐藤純一池田光穂野村一夫・寺岡伸吾・佐藤哲彦[共著]、『健康論の誘惑』文化書房博文社〈ソキウス健康叢書1〉、2000年。

第1章 不健康な医薬品たちへ――陀羅尼助からのメッセージ
第2章 健康クリーシェ論――折込広告における健康言説の諸類型と培養型ナヴィゲート構造の構築
第3章 「生活習慣病」の作られ方――健康言説の構築過程
第4章 健康は普遍的か?――多元論的健康を考える
第5章 “健康論”の存立構造――あるいは、不在についての語り、について
第6章 健康言説の政治解剖学――構築分析から因果論批判へ
第7章 健康の批判理論序説