原題:The North Korea: Life and Politics in the Failed Stalinist Utopia (Oxford University Press)
著者:Андрей Николаевич Ланьков[Andrei Lankov] (1963-) 政治学。
訳者:山岡 由美[やまおか・ゆみ](1966-) 翻訳。
解説:이종원[李 鍾元 / Lee Jong Won] (1953-) 国際政治学。
NDC:302.21 政治・経済・社会・文化事情
【目次】
目次 ([i-iv])
凡例 ([v])
序――驚異的な理性の国 001
第一章 金日成のつくりあげた社会とその軌跡 007
金大尉の帰国 008
戦争とその影響 017
モスクワと北京のあいだで――金日成の北朝鮮が推し進めた外交 024
韓国との関係 036
指令社会 045
収容所国家 057
金日成の世界観 062
悪いことばかりではない 075
主体思想の誕生と金正日の登場、超スターリン主義経済の緩やかな死 082
コラム
薄情な友人 019
女性と仕事 034
神聖なる肖像 043
ロイヤルファミリーの色恋沙汰 066
算数の教科書より 073
第二章 危機の二〇年 091
そして世界は変わった 092
よみがえる資本主義 100
薄れる国家の存在感 107
脱出を決意する――大挙して、とまではいかないが…… 113
たどり着いた場所は天国(あるいは資本主義地獄) 117
変わる世界観 121
コラム
カーチャ・シンツォヴァの哀れな一生 097
ニューリッチ 110
2011年のありふれた一日 119
第三章 生き残りの論理 130
改革は政治的集団自殺に等しい 130
市場経済の(不首尾な)取り締まり 141
絶体絶命の危機――2009年の貨幣改革 149
飢餓だけが消え去った 156
コラム
労働者の給与 147
第四章 最高領導者とその時代 163
ついに登場、「若大将」 163
新しい時代の唐突な到来 168
守旧派の失脚 170
新しい政策 180
論理の転換 190
緊張する南北関係 194
コラム
モニュメントの街 202
第五章 生き残りをかけた外交 205
核カードをちらつかせる 206
援助最大化外交 212
韓国の状況(三八六世代の台頭とその結果) 220
太陽の温かかった一〇年 226
斜陽 236
中国の参入 244
コラム
使える投資家を探して 234
小休止 252
未来の輪郭線――次の二〇年間に何が起きるか
第六章 何をなすべきか 264
鞭が弱すぎたわけ 264
飴が甘くなかったわけ(または「戦略的忍耐」が不適切である理由) 269
長期的視野で考える 273
関与することの隠れたメリット 279
情報を届ける 287
脱北者に寄り添う 290
コラム
統一の花 284
第七章 準備を整える 296
最悪の事態について考える 297
最も無難な解決策としての連邦制 307
鎮痛剤を少しだけ投与する 317
コラム
統一の費用 299
結論――容易ならぬ結末 323
謝辞 [328-329]
解説(李鍾元) [331-339]
原注 [6-16]
人名索引 [1-5]
【抜き書き】
ここでは、傍点を黒字で代用した
p. 2
本書では主として、北朝鮮の行動の内部にある論理をみていく。この論理は北朝鮮社会の特異性によって形づくられ、その特異性には長い歴史がある。この国はどんな経緯で国際社会の問題児となるにいたったのか。また、問題視されるようなことを北朝鮮の指導層が好きこのんで行っている、というよりそうせざるをえないのはなぜなのか。それを解き明かすために、私はこの本を執筆した。
pp. 8-9
一連の激しい軍事作戦はごく短い期間で大成功のうちに終わり、そのころソ連軍が朝鮮半島の北部を完全に掌握していた。ソ連軍の上層部が望みさえすれば南部も獲得できたと思われるが、この段階ではソ連政府もアメリカ政府との合意事項を重んじる姿勢をみせていた。合意のひとつは朝鮮半島を暫定的に分割占領するというもので、ふたりのアメリカ軍佐官が三〇分ほどの検討作業ののち、ソ連の作戦地帯とアメリカの作戦地帯を分ける暫定的な(と彼らは思っていた)境界線を引いた――ちなみに佐官のひとりはのちにアメリカの国務長官となる人物である。朝鮮半島はおおむね三八度線に沿う形で分けられた。ところがふたつの領域は面積こそほぼ均等だったものの、人口の規模と潜在的な工業力には大きな違いがあった。南は北の二倍の人口を抱えていたが、工業化は深刻なまでに遅れていたのだ(独立以前の南部は基本的に農村地帯で、発展から取り残されていた[Jongsuk Chay, Unequal Partners in Peace and War: The Republic of Korea and the United States, 1945-1953 (Praeger, 2002) ])。
北部を管轄することになったソ連人たちは、この国の政治と社会の現実をよく理解できていなかった。一九四五年八月にソ連軍が朝鮮にやってきたとき、朝鮮語の通訳がひとりもいなかったことを指摘しておけば充分だろう。いたのは対日本戦のための日本語通訳のみ。八月も終わりに近づいたころになってようやく、朝鮮語を話す将校が到着した(全員が朝鮮系のソ連人だった)。
機密指定を新たに解除されたソ連の文書から推測できるのは、一九四六年のはじめごろまで、ソ連政府には朝鮮の将来に関する明確な計画がなかったのではないかということだ。〔…中略…〕そのようなわけで、ソ連は四六年はじめにかけ、自国に友好的で制御しやすい政権を占領地域に設ける方向へと次第に向っていった(アメリカもまた南部に同様の計画をもっていたことは間違いない)。友好的で制御の容易な政権とは、当時の環境を考えれば共産主義政権以外にありえない。ただ問題がひとつあった――北部朝鮮には共産主義者がいない(正確には、いないに等しい)という問題だった。
朝鮮人による共産主義運動は一九二〇年代はじめごろに生まれ、植民地時代には朝鮮の知識人のあいだでマルクス主義が強い伝播力をもっていた。しかし日本の植民地政権が苛烈な政策をとったことから、一九四五年には主立った朝鮮人共産主義者はほとんど国外で活動するようになっていた。かりに朝鮮で共産主義者をみつけることができたとしてもソ連占領地域内ではなく、その大多数はソウルにいた。このため占領軍司令部は四五年半ば以降、ほかの場所にいた共産主義者を北部朝鮮につれてきたのだった。
pp. 15-16
一九八〇年代後半、韓国ではマルクス主義や準マルクス主義の政治勢力や知識人勢力が登場し、誕生初期における北部の政権が〔…中略…〕新しい史料が発表されてソ連による統制の度合いがはっきりし、自分たちの幻想が打ち砕かれるようなことがあると、そうした歴史家はこれを黙殺してしまうのだが、それも当然といえば当然だろう。
他方、韓国の右翼は南の李承晩[イ・スンマン]政府が「朝鮮半島における唯一の正当な政府」であることを示したいという願望に縛られている。だから、金日成の政府が誕生当初に多くの人々から実際に支持されていたことを示す資料には(そう結論づけるに足る充分な量の文書が存在するにもかかわらず)、目を向けようとしない。
こうしたイデオロギー的議論はときに激しいやりとりに発展し、何十年とはいわないまでも何年ものあいだ続く傾向にある。しかしこの論争は誤った二分法が引き起こしたものといえるだろう。なぜなら一九四〇年代後半には外国軍の占領と民衆革命の両方が存在したからだ。ソ連軍が占領していたこと、そして共産主義の教理がかなり広く受け入れられたことにより、その後の北部朝鮮の社会と制度の形が整った。しかし共産主義者が計画したことのほとんどが、当時北部の民衆がいだいていた願望と合致していたのも間違いない。万人の平等と豊かさを、善意の国家が(監視の目を光らせながらも)実現してくれる。そんな夢にあらがうのは難しい。しかも「近代的」で「科学的」なマルクス・レーニン主義の用語とともにそうした社会の青写真が示され、なおかつ人々の目にはソ連がすばらしい成功を収めているかに映っていた。ソ連に優秀な戦闘機と世界で最高のバレエ団があることを誰もが知っていて、三〇年代に数百万の農民が餓死したことはほとんど知られていなかった時代のことである。このため政府の打ち出した構想は、たとえそれがソ連による押しつけだったとしても、民衆からの熱烈な反応で迎えられたのだった。