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『韓国のイメージ――戦後日本人の隣国観[増補版]』(鄭大均 中公新書 2010//1995)

著者:鄭 大均[てい・たいきん/정 대균/Chung Daekyun](1948-) 東アジアのナショナル・アイデンティティ研究。評論。
NDC:361.42 社会学 >> 国民性



【目次】
はじめに [i-viii]
目次 [ix-xi]
題辞 [xii]


第一章 変化するイメージ 001
世論調査の結果 002
時期区分 011
話題書の推移 021


第二章 関心型 033
植民地体験型 034
贖罪型 042
イデオロギー型 048
古代史型 052
異文化型 055


第三章 戦後イメージの原型 059
隣国の存在 060
「悪者」のイメージ 063
「李ライン」への眺め 071
もう一つの眺め 081


第四章 独裁国家の行方 099
独裁国家」 100
「千里馬の国」 109
幻想から幻滅へ 126
朴正熙への再評価 141


第五章 似て非なる国 151
異質性の発見 152
文化的韓国論の問題 157
類似性の議論 169


第六章 共存するイメージ 181
好感 182
非好感 196
アンビヴァランスの例 211
進歩派とポリティカル・コレクトニス 217
善玉と悪玉のイメージ 226


第七章 時は流れる 231
韓流ブーム 232
敵意や憎悪 241
隣国の発見 251


あとがき(二〇一〇年夏 鄭大均) [256-259]
参考文献 [260-266]




【抜き書き】
・Mandarineによる中略は 〔……〕 
・著者の鄭大均による中略は (中略)
・本書は引用文を山括弧〈 〉で括って示している。しかしそのままでは極めて読みにくいので、インデントを付けて区別した。



・冒頭で引用された題辞、(なお、ライディングの方は出典が分からなかった)というかmaximチックな文を孫引き。xii頁。

 隣り合う二国間で、メキシコとアメリカぐらい異質性の際立った例はおそらく世界にない。(中略)隣り合っていながらも、これだけお互いを理解していない隣人の例もおそらく世界に例がない。二つの国は発展段階の相違によるというよりは、言語や宗教、人種、哲学、歴史によって分け隔てられている。アメリカはわずか二百年ほどの歴史を持ち、二一世紀に邁進する国であるが、メキシコは数千年の歴史を持ち、いまだに過去に引きずられている国である。
(アラン・ライディング)

 隣り合った二つの国で、フランスとイギリスほど長い間ほぼ同等の足場に立ち、これほどしばしば戦い、これほど多くの挨拶を交し合い、あるいは社会的知的な交流をおこない、また相対的にこれほどわずかしか相互に貿易をおこなわず、これほど明瞭な主体性を維持しつづけた二国は、世界のほかの場所には見当たらない。(中略)この関係についてもっとも驚くべき特徴のひとつは(中略)相手の国の生活についての広範囲にわたる根強い無知である。(中略)ロンドン駐在の元フランス大使がこう書いている、「これはたびたび言われてきたことだが、私としてはもう一度くり返して言いたい。隣接していながら相手をこれほど知らない二つの国は他にない」。
(リチャード・フェイバー)



・経済評論家の長谷川慶太郎(1927-2019)の語る韓国論について(p.163)。余談だが、〈文化的韓国論〉というネーミングは、微妙だと思う。

 長谷川慶太郎がここで指摘しているのは、日韓の差異の確認の重要性と、差異のいくつかの項目であるが、〔……〕それは著者の中では韓国の経済現象を解明する鍵として登場する。これは文化的韓国論の典型的な方法で、文化というものはプロパーのテーマというよりは二次的なテーマとして語られるが、それは韓国のリアリティを解明する鍵として語られる。文化が理解できれば韓国が理解できる。そんな了解が文化的韓国論には共有されているようなのだが、ここにはいくつかの問題がある。



・つづいて記者の黒田勝弘(1941-)について。(pp.164-167)

 問題を整理すると次のようになる。第一に、著者の日韓比較文化論は、日韓の間にある相対的な文化差を絶対的な差異に増幅してしまう。日韓の文化には、当然のことながら、異質性もされば類似性もあると考えられるが、著者が注目するのは類似性よりは異質性の部分であり、その異質性の部分が「韓国文化」として表象されてしまう。つまり、ここに見てとれるのは日韓の双方にそれぞれ一つの文化を想定するという文化一元論の態度であり、それぞれの文化が持つ偏差や変化が無視されている。
 第二に、右の比較文化論は文化に対する私たちの態度、つまり善と悪、光と影、近代と非近代、成熟と未熟といった価値の仕分けとセットになっていて、韓国の文化に対しては否定的な判断が下されるとともに、自文化に対しては現状維持をよしとする態度を生み出してしまう。ここから出て来るのは「変わるべきは韓国」「模範とすべき日本」という自他態度であり、それは韓国人としては傾聴に値するものであるかもしれないが、日本のそれを基準にして韓国の文化を測るという態度がはたして妥当なことなのかという疑問がわく。国際社会の中でさまざまな葛藤・摩擦を経験し、日本文化論そのものの否定性が問われているはずの日本人は、このような比較文化論に接して、なにか楽天的な自己イメージを築き上げてしまうのではないだろうか。
 長谷川慶太郎のそれより「明」に近いところに位置する〈中間の文化論〉は、日韓の国民性の相違を記した次のような言説である。

〈韓国人と日本人の異なるポイント、あるいは韓国人の特徴をひとつだけあげてほしいといわれたときの答えがあります。それは「韓国人は感情に忠実である」ということです。すでに書いたように、韓国人は日本人のような「顔で笑って心で泣いて」ではありません。〔……〕他人に合わせるのが生き抜く道であった日本人に比べ、韓国人にとっては他人に合わせずひとり際立ち抜きん出るのが、生きる道だったのでしょう〉[黒田、1986:170‐171]


 著者の黒田勝弘は第三期の韓国論をリードしてきた代表的ジャーナリストであり、その韓国論には比較文化論的エピソードがよく登場する。しかし氏の比較文化論も、「コンセンサス社会」とか「集団主義」といった日本文化論による「特性」を基準にした韓国文化の特定であり、多くの文化論者がそうであるように、韓国人や韓国の文化は一元的にとらえられ、モーダル・パーソナリティ(集団の成員が共有する特徴)の分布とかパーソナリティと社会規範の関係には無頓着である。たとえば「韓国人は感情に忠実である」というが、これは韓国人が感情を表出する時に見せるある部分に注目して、それを日本人の「特性」に対置させただけの話であって、他の一面に注目するなら、逆に日本人の率直さやナイーブさに対して、韓国人のしたたかさを論ずることもできるだろう。かつて杉本良夫とロス・マオアが指摘したように、そもそも日本人なり韓国人なりの行動様式は一様なものではない(「くたばれジャパノロジー」『現代の眼』1979年6月号)。ソウルの高校生の行動様式は江原道の山間部の老人のそれよりも東京の高校生のそれに共通するものが多いという可能性もあるのであり、だとしたら、年齢や職業を基準にした文化は国籍を単位にした国民文化より上位のカテゴリーにあると理解することもできるだろう。要は、韓国なら韓国という社会が持つ多様性を無視しないという態度である。黒田には文化相対主義的な注意深さはあるが、国民や民族を単位にした人間の弁別がステレオタイプや偏見に結びつきうるという危険性には無頓着であるように思えるのである。



・下線は引用者による。また、青木『「日本文化論」の変容』など。

 それにしても、なぜ文化的韓国論は第三期に入って急増したのだろうか。この点に関してよく語られるのは、韓国の異質性を無視したがゆえに韓国像を歪めてしまったのだという政治的韓国論への批判と韓国を理解する方法としての異質性確認の重要性の二点であるが、異質性の確認がなぜ文化論という形をとることになるのかについては何も語られていない。文化論は他者理解、他国理解の方法として、何か当然のこととして実践されているのである。文化論が当然のこととして志向される背景にあるのは、「日本文化論」の隆盛という70年代から80年代にかけての日本の時代状況であろう。日本と韓国の文化を二項対立的に語るという方法、あるいはそれぞれの文化が持つ偏差や変化を無視した一体観的眺めは、「日本文化論」が主に欧米との対照、対比で日本の特性を語った方法に類似したものであり、端的にいえば、文化的韓国論とは「日本文化論」の派生物といえるものである。つまり、文化的韓国論者は「日本文化論」の方法を韓国論に取り入れることによって、韓国論という閉鎖的で時代錯誤の分野をメインストリームの世界に合流させることに成功し、それは日本人の隣国の眺めを好転させることにも寄与したのである。
 だが、文化的韓国論には負をもう一つの負で補うような性格がある。青木保は「日本文化論」をその内容変化に即して、第一期「否定的特殊性の認識」(45‐55年)、第二期「歴史的相対性の認識」(55‐63年)、第三期「肯定的特殊性の認識」前期(64‐76年)、後期(77‐83年)、第四期「特殊性から普遍性へ」(84年以後)と時期区分しているが(青木、1990:28)、文化的韓国論はその第四期に登場しながらも、その方法態度は第三期の後期、つまり「『日本文化』中心主義」の方法によるもので、杉本良夫やハルミ・ベフ、河村望、青木保といった人々によって指摘された「日本文化論」の否定性は顧みられていない。文化的韓国論は政治的韓国論の時代錯誤を改革するのに貢献したと先に記したが、それは相変わらず時代から一歩遅れたところに位置しているのである。しかし、一方で、韓国にも「韓国文化論」というものがあることを考慮にいれると――その80年代のチャンピオンは『「縮み」志向の日本人』(1982年)等の著書で日本でも知られる李御寧である――状況はやや違ったものに見えてくる。韓国における「韓国文化論」も多分に「日本文化論」の影響を受けたものであるが、文化的韓国論の登場は韓国における「韓国文化」中心主義の台頭の時期に符合するもので、文化的韓国論は、「日本文化論」と「韓国文化論」のちょうど中間に位置しながら、その両方の性格に規定されたものであるということもできるだろう。
 韓国は善かれ悪しかれ、日本人が長い接触と研究を蓄積してきた外国であり、文化的には類似するところが多く、しかも類似した近代化を遅ればせながら経験している国である。そういう国をして〔……〕。



司馬遼太郎(1923-1996)と、佐藤誠三郎(1932-1999)(pp. 171-172)。
 ここで参照されている著書は、それぞれ『日本の朝鮮文化:座談会』(司馬遼太郎上田正昭金達寿[編]、中公文庫、1978=1982年)、『「死の跳躍」を越えて――西洋の衝撃と日本』(佐藤誠三郎都市出版、1992年)。

 もちろん、日韓の類似性は生活文化に限定されるものではない。日韓の類似性や類縁性はしばしばシャーマニズム文化圏や仏教、漢字、儒教文化圏というより拡がりのある範疇で語られるものでもある。司馬遼太郎は次のようにいう。

言語学服部四朗博士が(中略)日本語の祖語について「大体、北九州あたりで使われていた言葉がしだいにひろがって日本語になった」という意味のことを書かれていた記憶がある。もしそうなら(中略)海峡一つ越えた南朝鮮の南方海岸地方の言葉と、原型はおそらくおなじものであったにちがいない。〔……〕似ていたであろうと想像される両民族の言語が、のちに内因、外因によるそれぞれの発展によって差が大きくなり、いまでは遠い親威語というぐあいのへだたりになってしまっている。いわでものことだが、血液型も似ているという。(中略)その生体測定においても世界でもっとも似た民族とされるし、第一、古代南朝鮮においておこなわれていた水稲耕作文化と日本の弥生文化とはほとんど一つのものであった。〉[司馬他、1982a:11‐12]

 より包括的に日韓の類似性を整理しているのは政治学者の佐藤誠三郎である。氏はそれを、自然環境、種族・宗教的同質性、歴史的連続性、文化、西欧列強への対応、折衷主義、西欧列強に対抗するための内政改革等の項に分けて整理しているが、その種族・宗教的同質性と文化の項は次のように記されている。

〈種族的には日本の方が北方系と南方系とがより大規模に混淆しており、おそらく異質性の度合いがやや高い。また宗教的にも、朱子学の権威がすみずみまで行きわたった李朝朝鮮と比較すれば、仏教・儒教神道の諸流派が併存し、さまざまな度合いで混淆していた徳川日本の方が異質的だったであろう。しかしそれは限定的な差にすぎない。朝鮮を除けば、日本は世界でもっとも同質的な社会であろう。/(中略)文化的にも両国はおおくのものを共有している。日本は有史以前から江戸時代初期にいたるまで、主として朝鮮を通じて、大陸の先進文明を輸入してきた。さらにいえば、新羅王朝と大和朝廷がそれぞれ統一国家を形成する以前の段階では、朝鮮半島南部から北九州をへて、畿内までが一つの文化圏をなしており、朝鮮とか日本とかいう区別がそもそも意味をなさなかった。漢字も大乗仏教も日本に最初にもたらされたのは朝鮮からであった。徳川儒学の基礎は、豊臣秀吉朝鮮侵略のさい日本にもたらされた大量の書籍や捕虜として日本につれてこられた姜沆などの儒学者によってつくられた。そして李朝の生んだ最大の朱子学李退渓の著作は藤原惺窩から横井小楠にいたる、江戸時代の様々な儒学者に大きな影響を与えた。〉[佐藤、1992:51‐52]

 このように、日韓の間には様々な類似性といえるものがあるが、現実にみる日韓の間には様々な異質性があり、類似性を指摘する者の関心はその異質化の過程に向けられる。