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『日本を意識する――東大駒場連続講義』(齋藤希史[編] 講談社選書メチエ 2005年)

【執筆者(章順)】
義江 彰夫
鈴木 広光
大澤 吉博
菅原 克也
伊藤 徳也
野志 隆光
三角 洋一
杉田 昌彦
徳森 誠
Robert Campbell
齋藤 希史


『日本を意識する』(齋藤 希史):講談社選書メチエ|講談社BOOK倶楽部


【目次】
目次 [001-003]
本文関連年表 [004]
はじめに [005-010]


第1部 日本のすがた

第一章 異文化体験で私は何を発見したか――日本研究の視点から 義江彰夫 012
  私の二つの異文化体験
  事前認識と実体験の大きなギャップ
  異文化への感情的反発をその克服
  異文化比較――宗教複合という視点
  ヨーロッパの基層信仰とキリスト教
  破壊された泉と神殿――ゲルマン信仰
  制圧の論理
  ケルト信仰とキリスト教
  包摂されたケルト信仰
  ヨーロッパ宗教複合を規定した歴史的背景
  五臺山――宗教複合の縮図
  神々が共存する背景
  日本的宗教複合の形式
  日本的合理思想の前提
  宗教複合の多様性と共通性
  注


第二章 立ち現れた「日本語」のすがた 鈴木広光 038
  意識されることば
  最古の日本語文法書
  大航海時代の言語政策
  ことばに輪郭を与える
  活版印刷術の光と影
  江戸の多様な印刷書体
  「国民的出版後」の創出
  「普遍」的書体としての明朝体
  相性の悪い「和洋」かな
  変容を遂げたひらがな書体
  様式規範の継承
  誰のものでもない文字
  参考文献


第2部 外からの日本

第三章 日本女性の不可解性と理想化――『お菊さん』と『蝶々夫人』 大澤吉博 064
  ヨーロッパとの出会い
  ルイス・フロイスの目に映った日本
  バジル・ホール・チェンバレンの指摘
  ピエール・ロチの『お菊さん』
  外から眺めた心理描写
  小説内にただよう疑惑と不安
  いつな不可解さ、そして魅力
  ロチと『マダム・バタフライ』
  仮想の日本
  イデオロギー批判と表現の質
  オペレッタ『ミカド』をどう見るか
  日本を意識すること、しないこと
  参考文献


第四章 脱和入欧の心理――ロチと日本の作家たち 菅原克也 089
  「外側」の目からの日本
  世界の片隅にある夢の国
  『お菊さん』――フランス海軍士官の描いた日本
  辛口の日本批評
  オリエンタリズム的な想像力
  大正期の作家たちの反応――永井荷風志賀直哉
  芥川龍之介のロチ評価
  芥川に見るオリエンタリズム
  日本人が日本に感じるエキゾティシズム
  高みから見下す視線
  ロチが日本人作家に与えた「はしご」
  注


第五章 周作人の日本――「生活の芸術」と倫理的主体 伊藤徳也 113
  近代中国の知的巨人が見た日本文化
  「人情美」
  和辻哲郎『日本古代文化』からの啓発
  天然の愛好、簡素の尊重
  宗教的情緒
  「生活の芸術」と日本文化
  共感と同情の裏側
  倫理的主体のあり方を見つめて
  注


第3部 日本の自意識

第六章 どのようにしてこの国の名が「日本」となったか 神野志隆光 134
  神功皇后の物語から
  朝鮮との関係における「日本」
  「日本」の設定と承認
  中国の世界像と「日本」
  「日本」の転換


第七章 唐土にたたずむ貴公子たち 三角洋一 154
  平安期の二つの物語
  『浜松中納言物語』の中国故事の出典
  中国でもみとめられる美貌
  唐人の率直な物言い
  物語文学史における『浜松中納言物語』『松浦宮物語』
  定家の大胆な試み
  弁の少将氏忠の唐土体験
  三国意識の形成
  天竺の天狗
  宋で活躍した日本人僧の話


第八章 「物のあはれ」の日本 杉田昌彦 176
  本居宣長と「物のあはれ」
  宣長の二つの命題
  「物のあはれを知る」とはどういうことか
  感動を言語に有形化する
  「物のあはれを知る」説と共感の心理
  作中人物への感情移入
  「うさをもなぐさめ、心をもはらす」
  人情主義思想の系譜
  「女童心」の説
  拒絶反応――後世からの批評
  中国文学者の視線
  命題の普遍性
  本居宣長の再評価


第4部 開かれる日本

第九章 時代観察の方法――杉田玄白と海保青陵 徳盛誠 200
  杉田玄白による時代観察の書
  描き出される世相
  田沼意次批判
  「天下泰平」の実体
  時代の表現がみずからの表現
  玄白のもうひとつの書物
  ジャパン・コンシャスの発生
  海保青陵――コンサルタント型知識人
  青陵の論理展開
  感覚型と論理型の知識人
  注


第十章 明治零年代の「繁昌」 ロバート キャンベル 221
  はじめに
  士族官吏から見た新階級制度
  育まれたナショナリズムの素地
  相対する世界
  繁昌をめぐる物語
  世界経済の連繋
  一軒家の主
  注


第十一章 旅人の自画像 齋藤希史 244
  旅行記の時代
  漢学者の中国紀行
  士人の視点
  国民の耳目
  新聞記事の事実
  志士の渡航
  英雄の気概
  志士から留学生へ
  鴎外の誇りと懊悩
  鏡に映った姿――夏目漱石
  河上肇比較文化
  街角の異邦人
  注


あとがき(二〇〇五年二月 齋藤希史) [269-271]
文献案内 [272-273]
執筆者紹介 [274-276]
索引 [277-278]




【抜き書き】
 東大駒場の講義から。なお、はてなダイアリー「揮発性メモ」に目次がある。筆写する前に気付きたかった。
 比較日本文化論の各種授業を読めるが、注目すべきは冒頭。まえがきにこれほど共感したのは久しぶり。

 書店に行くと、日本論や日本人論は一つのジャンルをなしていて、書棚の少なからぬ部分を占めている。〔……〕あえて言えば、日本を語る言葉これらのことばにとって、日本という存在はあまりにも自明のことのようであるらしく、そもそも日本は語りうるものなのか、日本を語るとはいったいどういう行為なのか、という点については、あまり自覚的でない。もちろん、文化なるものは語りうるのか、という問いも眼中になさそうだ。
 一方で、日本を語る行為、文化を語るという行為そのものの意味について論じた書物や文章も、実は一つのジャンルをなしている。〔……〕国民国家論やカルチュラルスタディーズ、あるいはポストコロニアリズムといった方法論を標榜することもあるし、そういう旗印は関係ないと言う書き手もあるだろうけれども、こうしたことばがやはり一つのまとまりをなして、互いに参照し合いながら語られていることは事実だろう。〔……〕修士論文や博士論文のテーマとしても、単純な日本文化論よりもずっと論文らしく書けると思われるのか、人気のようだ。
 生産と消費のサイクルがそれぞれ別で、互いに噛み合うことがない。片方のジャンルの読者はもう一方のジャンルの読者にはならない。書く方も、むろんそうだ。奇妙な光景ではないだろうか。
 〔……〕
 私たちはすでに日本を語ることばに囲まれているし、それを完全に離れて思考することは難しい。日本なるものを意識することは、それが近代の産物だと宣言されても、無くなるわけではない。文化という観念にすっかり浸かってしまっているわが身が鏡に映るばかり、ということにもなりかねない。けれども、鏡を見て悦に入るのも、鏡を割ってしまうのも、どちらもしたくはない。

[p.6]