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『歴代首相の経済政策 全データ[増補版]』(草野厚 角川新書 2012//2005)

著者:草野 厚[くさの・あつし] 政治学、外交論、政策過程論。
NDC:332.107 経済史・事情.経済体制


「歴代首相の経済政策 全データ 増補版」 草野 厚[角川新書] - KADOKAWA


【目次】
戦後主要経済データ [i-xvi]
  国会議事堂の空撮写真
  歴代内閣の主な出来事(1945〜2011年)
  歴代内閣の(1945〜2011年)
  為替レート・公定歩合日経平均株価(1945〜2011年)
  一般会計予算・社会保障費・公共事業費・防衛費・ODA(1945〜2011年)
  GDP・一般会計予算・国際発行残高(1945〜2011年)
  霞が関の空撮写真(2001年1月)
  西暦・年号対応表

目次 [001-005]
凡例 [006-007]
はじめに [008-017]
  日本経済の回復
  歴代内閣と日本経済
  日本の戦争被害


第一章 戦後の処理内閣 019

第四十三代 東久邇稔彦 020
  東久邇稔彦内閣―― 54日間の皇族内閣(1945年8月17日~1945年10月9日)


第四十四代 幣原喜重郎 022
  幣原内閣――占領軍の意向を受けた首班(1945年10月9日~1946年5月22日)
  敗戦直後に爆発したインフレーション


第四十五代 吉田茂 028
  第一次吉田内閣――第一党の自由党から首相を選出(1946年5月22日~1947年5月24日)
  吉田内閣の経済政策
  当時の国内政治状況


第四十六代 片山哲 034
  片山内閣――重要産業の国有化を実現(1947年5月24日〜1948年3月10日)
  連立内閣の苦悩
  大きく変わった国際情勢


第四十七代 芦田均 040
  芦田内閣――徐々に進む経済復興(1948年3月10日〜1948年10月15日)
  芦田内閣の経済政策


第二章 国際社会への復帰内閣 045

第四十八~五十一代 吉田茂 046
  第二次吉田内閣――議会を解散し、政権基盤を強固に(1948年10月15日〜1949年2月16日)
  第三次吉田内閣(1949年2月16日〜1952年10月30日)
  物価上昇の解消が急務
  第三次吉田内閣の経済政策
  ドッジ[Joseph Morrell Dodge(1890―1964)]のデフレ政策の副作用と赤狩り
  朝鮮戦争の勃発
  朝鮮特需
  米国の援助打ち切り
  長期金融機関の設立
  講和条約日米安全保障条約の締結
  第四次吉田内閣――激しさ増す権力闘争(1952年10月30日〜1953年5月21日)
  バカヤロー解散
  第五次吉田内閣―― 6年2カ月の長期政権に幕(1948年10月15日〜1949年2月16日)


第五十二~五十四代 鳩山一郎 074
  第一次鳩山内閣――再軍備憲法改正に意欲(1954年12月10日〜1955年3月19日)
  第二次、三次次鳩山内閣――日ソ国交回復を実現(1955年3月19日〜1956年12月23日)
  鳩山内閣の経済政策
  神武景気


第五十五代 石橋湛山 083
  石橋内閣―― 1000億円の減税を表明(1956年12月23日〜1957年2月25日)
  石橋内閣の経済政策
  

第五十六~五十七代 岸信介 087
  岸内閣――石橋内閣の閣僚を留任(1957年2月25日〜1960年7月19日)
  警察官職務執行法
  日米安保条約改定
  内閣改造
  岸内閣の経済政策


第三章 高度経済成長時代の内閣 099
第五十八~六十代 池田勇人 100
  池田内閣――高度経済成長の時代(1960年7月19日〜1964年11月9日)
  池田内閣の外交
  池田内閣の経済政策
  池田と佐藤


第六十一~六十三代 佐藤栄作 108
  佐藤内閣――「社会開発」へのこだわり(1964年11月9日〜1972年7月7日)
  佐藤外交
  佐藤内閣の経済政策
  ニクソン・ショック


第六十四~六十五代 田中角栄 120
  田中内閣――日中国交正常化の実現(1972年7月7日〜1974年12月9日)
  田中の外交
  田中内閣の経済政策
  オイル・ショック
  田中の退陣


第六十六代 三木武夫 130
  三木内閣――脇役から主役へ(1974年12月9日〜1976年12月24日)
  三木内閣の経済政策
  第一回サミットとロッキード事件


第六十七代 福田赳夫 136
  福田内閣――難航した組閣人事(1976年12月24日〜1978年12月7日)
  福田内閣の経済政策
  福田外交


第六十八~六十九代 大平正芳 142
  大平内閣――九つの諮問機関を設立(1978年12月7日〜1980年7月17日)
  大平内閣の経済政策
  一般消費税で選挙に敗北


第四章 経済大国・行財政改革時代の内閣 149

第七十代 鈴木善幸 150
  鈴木内閣――異例の内閣総理大臣(1980年7月17日〜1982年11月27日)
  鈴木内閣の経済政策
  鈴木内閣の外交


第七十一~七十三代 中曽根康弘 156
  中曽根内閣――田中派の協力を得て組閣(1982年11月27日〜1987年11月6日)
  中曽根内閣の経済政策
  プラザ合意
  中曽根内閣の外交
  党内の中曽根降ろし


第七十四代 竹下登 166
  竹下内閣――念願の消費税を導入(1987年11月6日〜1989年6月3日)
  竹下内閣の経済政策
  記録的な内閣支持率の低下


第七十五代 宇野宗佑 172
  宇野内閣――超短命に終わった内閣(1989年6月3日〜1989年8月10日)


第七十六~七十七代 海部俊樹 173
  海部内閣――竹下派影響下の内閣(1989年8月10日〜1991年11月5日)
  海部内閣の経済政策
  海部内閣の外交上の課題


第七十八代 宮澤喜一 179
  宮澤内閣―― PKOへの積極参加を表明(1991年11月5日〜1993年8月9日)
  宮澤内閣の経済政策
  自民党単独政権の終焉


第五章 乱連立の時代の内閣 187

第七十九代 細川護熙 188
  細川内閣――高支持率短命内閣(1993年8月9日〜1994年4月28日)
  細川内閣の経済政策
  

第八十代 羽田孜 193
  羽田内閣――連立の狭間に生まれた短命政権(1994年4月28日〜1994年6月30日)


第八十一代 村山富市 194
  村山内閣――護憲のみ一致した内閣(1994年6月30日〜1996年1月11日)
  村山内閣の経済政策
  

第八十二~八十三代 橋本龍太郎 200
  橋本内閣――日米同盟を再確認(1996年1月11日〜1998年7月30日)
  橋本内閣の経済政策
  六つの改革
  大手銀行に公的資金を注入


第八十四代 小渕恵三 208
  小渕内閣――自らを経済再生内閣と位置付け(1998年7月30日〜2000年4月5日)
  小渕内閣の経済政策
  バブル経済の精算と財政の悪化


第八十五~八十六代 森喜朗 215
  森内閣――権力の空白を埋めた内閣(2000年4月5日〜2001年4月26日)
  森内閣の経済政策
  

第八十七~八十九代 小泉純一郎 220
  小泉内閣――派閥にとらわれずに組閣(2001年4月26日〜2006年9月26日)
  小泉内閣の経済政策
  成果あげた外交
  小泉経済政策のその後
  予算編成の主導権を確保
  不良債権処理の加速
  小泉内閣の苦境
  長期政権の最期


第六章 自民党時代の終焉 241
第九十代 安倍晋三 242
  安倍内閣――国家観にこだわり、憲法改正の手続きを決める(2006年9月26日〜2007年9月26日)
  

第九十一代 福田康夫 247
  福田内閣――洞爺湖サミットが花道で降板(2007年9月26日〜2008年9月24日)


第九十二代 麻生太郎 250
  麻生内閣――民主党政権も評価したエコポイントを導入(2008年9月24日〜2009年9月16日)


第七章 政権交代民主党内閣 255
第九十三代 鳩山由紀夫 256
  鳩山内閣――政権交代の期待を裏切った政権(2009年9月1日〜2010年6月8日)


第九十四代 菅直人 259
  菅内閣――往生際が問われた首相(2010年6月8日〜2011年9月2日)


第九十五代 野田佳彦 264
  野田内閣――消費税引き上げに不退転の首相(2011年9月2日〜)



旧版おわりに [267-283]
  歴代内閣と経済政策
  官僚の権力と労組
  改革と外国の圧力
  国家の改革に必要なものは何か
増補版あとがき(二〇一二年四月 草野厚) [284-286]
参考文献 [287-292]
索引 [293-303]





【抜き書き】

・「はじめに」

■歴代内閣と日本経済
 本書の目的は、歴代の内閣が計画し実施してきた経済政策を確認し、その成果はいかなるものであったかを検証しようという、些か大胆な試みである。そうした試みは、政策が実施され効果が表れるまでに、一年から一年半の年月がかかることを考えれば、あまり意味のないことかもしれない。〔……〕もっとも、そうしたタイムラグの限界を踏まえたうえで、歴代内閣が、どのような経済的課題に直面し、その解決、改善のために、どのようなことを試みようとしたかを整理することは、意味があるかもしれない。
 政治学者の私が、なぜ経済政策を扱うのか。経済は選挙の最大の争点であるように、有権者、国民の最大の関心事である。増税はなぜ行われるのか、我々の納めた税金はどう使われるのか、なぜ景気が悪くなるのか、多くの人々が興味を持っているに違いない。私もその一人である。一般的に政治と経済は分離しているように思われるが、それは違う。経済政策は閣議決定され、予算案としてあるいは、法律案として国会の審議に付されるが、その過程は政治そのものである。限られている財源をどのように配分するのか。歳入をいかに増やすか。そこでは、既得権益をもった官僚機構や、与党の族議員や、業界内、業界間の対立、与野党の衝突といった政治的ゲームが観察できる。このように、経済政策の立案や実施は、その政策目的よりもはるかに、政治的営みである。
 もっとも、そうした政策過程を分析するには、あまりに紙幅が限られている。なにしろ、新書一冊で、戦後の歴代内閣をすべて振り返るのだ。そこで、各内閣が直面した経済的課題は何であり、それにどのように対処しようとし、その成果はどのようなものであったかを明らかにする。そこから日本が、経済大国への道を辿るにつれ、様々な新たな課題に直面することになったことがわかるであろう。経済と政治が不即不離であることから、首相がどのように選出されたのか、選挙の結果を含め紹介する。また、なぜ、退陣を迫られたのか、辞任に至る経緯も明らかにした。意外に、経済問題がらみのことがあることに気がつくはずだ。経済以外の政策のうち、外交については、日本が経済大国化していく過程をよりよく理解するために、また、国際社会からの要求が日本の経済政策を制約しているという理由から、折に触れ言及した。〔……〕また、日本が敗戦から立ち直り、なぜ、かくも早く経済大国化する一方、今では巨大な財政赤字に苦しんでいるかが、わかるであろう。もとより自ら一次資料を駆使して、そのような課題に応えることは難しい。〔……〕一つ類書に比べ特徴的なのは、歴代内閣の首相の所信表明演説、施政方針演説、大蔵大臣(財務大臣)の財政演説、経済企画庁長官(経済財政政策担当大臣)の経済演説の大半に目を通し、そのテキストの一部を紹介している点である。意外に、演説のみを丹念に読みこなすだけで、その時代の課題とその背景が読めて興味深かった。


第二次世界大戦での被害のデータ

■日本の戦争被害
 いったい、一五年にわたる戦争で、日本はどのような被害を受けたのだろう。あるいは、日本をとりまく国際環境はどのような変化を遂げたのだろう。

 第一に、本土決戦にはならなかったものの、空襲による爪あとは大きかった。当時市と呼ばれていた行政単位で、戦火に遭わなかったのは、エコノミストの内野達郎によれば、京都、奈良、金沢などごくわずかであった(内野達郎、『戦後日本経済史』)。原爆投下にあった広島、長崎はじめ、戦災により破壊された住宅は二二〇万戸、被災者は九〇〇万人に上ったという。道路、鉄道、橋梁、港湾施設といった経済インフラの被害も大きく、武器、航空機、艦艇類を除いた平和的国富の戦争被害は、終戦時の価格で六五三億円(武器等を含めると九九二億円)であり、これは、全体の約二五パーセント(武器等を含めると約三五パーセント)にのぼった。人的被害は、軍人・軍属だけで一九九万人、一般国民で六九万人、計二六八万人あまりであった。ちなみに、四六年度一般会計当初予算は、五六〇億八八〇〇万円であった。〔……〕経済学者の正村公宏によれば、戦時中に軍需生産が拡大し、設備が増加した産業では、戦前の生産設備能力と比較した戦後の落ち込みはあまり大きくなく、戦後の重化学工業化の基盤になった。ただし、爆撃による破壊が大きかった石油精製設備は例外で、生産能力は半減した。また、戦前の典型的民需産業である綿紡績の設備は五分の一以下となった(正村公宏、『図説戦後史』)。戦争中、綿糸など繊維製品は、石油輸入用外貨獲得のための輸出にまわされ、国内消費向け民需用にはほとんどまわらなかった。生産実績は、後述する傾斜生産方式の必要性の根拠となった鉄鋼、石炭が典型例であるように、敗戦時には激減した。〔……〕

 第二に、日本の領土は、大幅に縮小された。日本が受諾したことにより敗戦が確定した連合国の「ポツダム宣言」は、「日本の主権は本州、北海道、九州、四国と我々が決定する諸小島に限定される」とした。これは、戦前の領土の約五六パーセントである。面積が半分になった結果、満州、中国、朝鮮半島、東南アジアから日本は完全に閉め出された。このことは二つの点で重要である。
 一つは、その地域から内地への六〇〇万人を超える、兵隊や民間人の引揚者問題である。当時の日本の人口は約七五〇〇万人であったから〔……〕約八パーセントもの人々が一挙に内地に帰国し、新たな職場や住居を求めることになった。有力な雇用確保の場であった軍が解体されたことは、当然ではあったが、街に失業者を溢れさせた。〔……〕
 二つは、戦前、これら外地に依存していた、石油や石炭、鉄鉱石、木材などの天然資源、コメ、砂糖、大豆、塩などの食糧が輸入できなくなったことである。戦前の日本は、コメも自給できず、朝鮮、台湾、東南アジアからの輸入に頼っていたが、戦争末期には、輸送力の低下で、それも難しくなった。こうした状況が、敗戦後さらに深刻化したのだ。結果として、日米開戦の年の四一年に、国民一人当たり二一七〇キロカロリーあった摂取量は、敗戦の年の四五年には、一七九三キロカロリーまで低下した。

 第三は、日本をとりまく国際社会の変化である。〔……〕既に述べたように敗戦した日本、ドイツと枢軸国側は、領土を縮小されるとともに、主権国家としての地位を追われた。「ポツダム宣言」の第七項は、旧勢力の追放、非軍事化、言論・宗教・思想の自由、賠償など占領目的が達成され、平和的傾向を有する責任ある政府が樹立されるまでは、連合国は日本を占領すると述べていた。無条件降伏とはいえ、日本政府は、天皇と日本政府を通じた間接統治の観点から、中立国との外交関係を維持したいと総司令部側に申し入れたが徒労に終わり、外交権は停止された。
 他方、連合国が中心となり、四五年には、国際連合が設立され、日本やドイツのような国際社会の脅威の台頭には、国連軍による集団安全保障で対処することが決まった。また、三〇年代の各国によるブロック経済の流れが、第二次世界大戦の誘引となったとの理解から、自由、無差別、多角を標榜する自由貿易の遂行が確認され、GATT(貿易と関税に関する一般協定、WTO世界貿易機関)の前身である)が設立された。敗戦した日本は、いずれの機関にも参加を認められず、国際社会で孤立を余儀なくされた。
 以上のように、日本は内外ともに、政治的にも、経済的にも極めて厳しい状況のもと、国家としての再建の道を歩むのである。