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『古事記誕生』(工藤隆 中公新書 2012)

著者:工藤 隆[くどう・たかし] (1942-) 日本文学(上代の口承文学)、演劇。
NDC:913.2 日本文学(古代前期[上代]:奈良時代まで)



中央公論新社


【目次】
はじめに [i-iv]
目次 [v-ix]
凡例 [x]


第一章 点としての誕生――和銅五年(七一二)一月二十八日 003
第一節 二つの誕生 003
  最古の書物
  点としての誕生
  線としての誕生
  〈古代の古代〉と〈古代の近代〉
  日本書紀続日本紀に成立の記録がない
  「記序」の信憑性
  「記序」の概略
第二節 「記序」は偽書 017
  偽書説の概略
  太安万侶の実在性と「記序」署名
  上代特殊仮名遣いによる書き分け
  上表文が序でもある形式
  日本書紀古事記の編纂の相違点
  稗田阿礼の人物像
  内容分析による「記序」の検証
第三節 時代の流れに逆行した古事記 032
  古事記権威化の必要性
  政治的リアリズムの強化
  時代に遅れた書物古事記
   〈古代の近代化〉に逆行
  古事記は「古」への回帰、日本書紀は現代政治史
  周到な自己保身
  「記序」全文を解読する
  「記序」と一般的な「序」の相違点
  天皇賛美と国譲り
  太安万侶日本書紀の編纂にも関与していた
  日本書紀古事記の編纂が同時進行
  二つの史書は時代に対する姿勢が逆向き
  ムラ段階文化と国家段階文化が両立した日本古代国家


第二章 線としての誕生――無文字・ムラ段階から文字・国家段階へ 075
  無文字時代をどう考えるか
  原型生存型文化に素材を求める
  長江流域文化帯との実態的交流
  話型・話素による比較研究
  表現態・社会態の視点
  話型・話素と表現態・社会態を組み合わせる
  兄妹始祖神話文化圏
  歌垣文化圏
  生きている神話を〈第一段階〉に位置づける
  ムラ段階社会の中での「表現態」の違い―― 〈第二段階〉から〈第四段階〉まで
  クニ段階社会では神話の統合が進む――〈第五段階〉
  クニ段階から国家段階への過渡期の神話――〈第六段階〉
  国家段階で初めて古事記が誕生した―― 〈第七段階〉
  古事記は派生神話と共に現代まで生き延びた――〈第八段階〉


第三章 祭式が語る誕生 119
  アメノイワヤト神話前段を層分けする
  古来の伝承が基盤を成している
  アメノイワヤト神話前段
  神祇官祭祀の源流
  女が主役の古層のニイナメ
  祓いの原始性
  酔って吐くのは神懸かりのしるし
  馬を殺すのは時代に遅れた行為だった
  逆剝ぎとは何か
  死んだのはアマテラス自身だった


第四章 考古学が語る誕生 163
  アメノイワヤト神話後段を層分けする
  アメノイワヤト神話後段
  鹿の肩胛骨を用いる占いは弥生文化の特徴
  天孫降臨の段との重なり合い
  銅から鉄への価値観の変化
  勾玉と鏡
  勾玉と榊は日本独自
  自然の生命力を身に着ける
  たまふり・たましずめ
  縄文時代から古墳時代末までの層が見えた


第五章 少数民族神話が語る誕生 197
  アメノイワヤト神話の源流を探る
  アマテラスの死は卑弥呼の死を投影している
  大嘗祭と四つの復活
  長江流域少数民族の太陽神話との連続性
  【ミャオ族の太陽神話】
  【イ族のチュクアロ神話】
  【プーラン族のグミヤ神話】(全文)
  アメノイワヤト神話の最古層
  少数民族太陽神話と歴史の諸段階


終章 新しい日本像をもとめて 232
  古事記と近代国家と天皇
  日本人であることのアイデンティティ
  島国文化・ムラ社会
  天皇文化はムラ段階文化から
  ホログラフィー古事記以前を探る


あとがき(二〇一二年三月五日 工藤 隆) [252-255]
引用・参照文献一覧 [256-258]




【抜き書き】 

□239頁。この一節の論旨からはずれるが、著者の言う「日本論」が何を指すのかは、この一冊を読んだあとも明確にならない。

 二十一世紀の日本では、天皇制だけではなく、それと一体である神社文化も健在である。ギリシャアクロポリス神殿の廃墟は今では単なる観光資源だが、伊勢神宮や各地の神社は、依然として現在形でその本来的な存在を保っている。『古事記』の高天原神話によれば、神社体系の頂点に位置する伊勢神宮主祭神天照大御神[あまてらすおおみかみ]は、黄泉の国から帰還したイザナキのみことの禊ぎで誕生し、その孫であるホノニニギのみことが地上に降臨して初代天皇の神武が誕生したという。したがって、天皇の「万世一系」も神社体系も、突き詰めれば結局は『古事記』に辿り着くことになる。だからこそ、『古事記』の読みを深めることは、単なる日本文学史の問題にとどまらず、現代日本論を根源から深めるためにも不可欠の問題なのだが、このことが現在の日本の多くの知識人の意識から脱落している。『古事記』をしっかり読み込んで日本古代国家成立のリアルな状況を把握することが必要なのにそれを怠っているので、しばしば現在の知識人の多くは現代日本の重要ななにかを見落とすのである。要するに、“等身大の日本像”を把握したうえでの日本論でないかぎり、日本国の命運がかかるような極限状態に対処するのには役に立たないのである。