編者:伊勢田 哲治・戸田山 和久・調 麻佐志・村上 祐子
[執筆者]
伊勢田哲治 (はじめに、ユニット1背景説明・課題文、ユニット3課題文、ユニット9背景説明・課題文、スキル1・4-1・6-2・9-2・10-2、知識1・9-2、コラム1・3~10、あとがき)
井上 研 (ユニット2背景説明・課題文、ユニット3課題文)
鈴木真奈 (ユニット2課題文、知識2-1)
吉満昭宏 (スキル2・3)
岩崎豪人 (スキル5-1、知識2-2・3-1)
久木田水生 (ユニット5課題文、スキル4-2、コラム2)
出口康夫 (ユニット3背景説明・課題文、知識3-2)
元吉忠寛 (ユニット4背景説明・課題文、ユニット5背景説明・課題文、知識5-2)
青木滋之 (ユニット4課題文、ユニット7背景説明・課題文)
北島雄一郎 (知識4-1)
*調 麻佐志 (知識4-2・7-1)
標葉隆馬 (知識4-2・7-1)
久保田祐歌 (スキル5-2・6-1・7)
*村上祐子 (ユニット7背景説明・課題文、知識5-1)
宗像慎太郎 (ユニット6背景説明・課題文、知識6-1・6-2)
*戸田山和久 (知識7-2・8-1)
菊池 聡 (ユニット8背景説明・課題文)
平山るみ (スキル8-1・8-2、知識8-2)
奥田太郎 (ユニット9課題文、スキル9-1、知識9-1)
上村 崇 (ユニット10背景説明・課題文、スキル10-1、知識10)
三浦俊彦 (ユニット10課題文)
【目次】
はじめに [i-x]
目次 [xi-xiv]
ユニット1 遺伝子組換え作物 001
背景説明 001
ユウさんの議論 遺伝子組換え作物は推進するべきだ 003
タクミさんの議論 遺伝子組換え作物は推進するべきではない 008
スキル1 議論を特定する 014
知識1 予防原則 021
コラム1 思いやりの原理 025
ユニット2 脳神経科学の実用化 027
背景説明 027
タクミさんの議論 脳神経科学は実用化のための研究を推し進めるべきではない 029
アスカさんの議論 脳神経科学の成果はどんどん実用に使われるべきである 034
スキル2 三段論法と妥当な推論 039
知識2-1 原因推定の方法 048
知識2-2 EBM 052
コラム2 推論のタイプ 055
ユニット3 喫煙を認めるか否か 058
背景説明 058
ユウさんの議論 喫煙が有害だという根拠はなく、有害だとしても禁止を押し付けるのは個人の自由の侵害である 061
アスカさんの議論 喫煙は有害であり、個人の自由は問題とならない 066
スキル3 暗黙の前提の明示化 071
知識3-1 自由主義とパターナリズム 077
知識3-2 統計リテラシー 079
コラム3 逆・裏・対偶 082
ユニット4 乳がん検診を推進するべきか 083
背景説明 083
タクミさんの議論 乳がん検診は早期発見に役立つし日本の乳がんによる死亡者数は増えているから推進するべきだ 086
チアキさんの議論 乳がん検診の有効性は科学的根拠があまりないしデメリットもあるから推進するべきではない 092
スキル4-1 対立点を整理する 098
スキル4-2 リスク分析 101
知識4-1 二重盲検法 105
知識4-2 リスクコミュニケーション 107
コラム4 協調原理 111
ユニット5 血液型性格判断 113
背景説明 113
チアキさんの議論 血液型性格判断は当たるし楽しい 116
ユウさんの議論 血液型性格判断は根拠がなく有害である 122
スキル5-1 定義の明確化 130
スキル5-2 社会調査の質を疑う 133
知識5-1 異文化コミュニケーションとしての科学コミュニケーション 136
知識5-2 社会的CT 139
コラム5 藁人形論法 143
ユニット6 地球温暖化への対応 144
背景説明 144
タクミさんの議論 地球温暖化の原因と将来予測については異論があり、対応には慎重になるべきである 147
ユウさんの議論 地球温暖化は既に無視できない段階に至っており、早急な対策が必要である 149
スキル6-1 通約不可能な関係を避けるために 151
スキル6-2 意思決定 154
知識6-1 シミュレーションの信頼性 158
知識6-2 レギュラトリー・サイエンス 161
コラム6 論点ずらしの誤謬 163
ユニット7 宇宙科学・探査への公的な投資 165
背景説明 165
チアキさんの議論 宇宙科学・探査への公的な投資を推進するべきである 167
ユウさんの議論 宇宙科学・探査への公的な投資を推進するべきではない 172
スキル7 問題のフレーミングを疑う 178
知識7-1 科学コミュニケーション 182
知識7-2 科学技術政策の変遷 188
コラム7 情報の裏をとる 193
ユニット8 地震の予知 194
背景説明 194
アスカさんの議論 動物の異常行動や地震雲などの前兆現象は科学的に証明されており、地震予知のためにおおいに活用できる 198
チアキさんの議論 動物の異常行動や地震雲で地震を予知できるというのは、単なるニセ科学にすぎない 203
スキル8-1 確証バイアスと利用可能性バイアス 208
スキル8-2 四分割表と錯誤相関 212
知識8-1 科学的事実が確立するには 219
知識8-2 「予断」 の必要性 223
コラム8 対人論法 228
ユニット9 動物実験の是非 230
背景説明 230
アスカさんの議論 動物には人間と同種の権利があり、実験などにみだりに使ってはならない 232
タクミさんの議論 人間は他の動物とは異なっており、これからも動物実験は続けてよい 237
スキル9-1 二重基準と普遍化可能性テスト 242
スキル9-2 自然さからの議論 244
知識9-1 カント主義 248
知識9-2 動物としての人間 250
コラム9 仮定をおいての推論 256
ユニット10 原爆投下の是非を論じることの正当性 258
背景説明 258
チアキさんの議論 原爆投下について論じることには意味がある 260
アスカさんの議論 原爆投下について論じることには意味はない 265
スキル10-1 実践三段論法 270
スキル10-2 メタCT ――クリティカルなのは本当によいことか 274
知識10 功利主義とマクシミン規則 278
コラム10 誤った二分法 282
あとがき(2013年3月 執筆者・編集を代表して 伊勢田哲治) [283-285]
索引 [286-289]
執筆者一覧 [290]
【抜き書き】
□pp. 25-26
生産的な議論・会話において参加者に守ってほしいこと。
なお最終段落に出てくるCTは、Critical Thinkingの略(本書ではCTで通している)。Computed Tomographyではない。
コラム1 思いやりの原理
思いやりの原理(principle of charity,慈善の原理などとも訳される)は言語哲学の文脈で出てきた考え方である。簡単に言えば,思いやりの原理とは,相手の発言や行動を解釈する際には,できるだけ筋が通ったものになるように解釈せよ,という原理である。たとえば,相手が一見誰でも知っていることを知らないように見えたり,不合理な欲求を持っているように見えたりする場合,できるだけそうした不合理性が少なくなるように解釈してやらなくてはならない。
たとえば A さんとBさんが二人で街なかをあるお店に向かって歩いていたとしよう。しかし A さんはそのお店の看板の前を素通りしてどんどん先に行ってしまった。Bさんから見て A さんの行動には無数の解釈の余地がある。A さんは看板の文字が(日本語で書いてあるにもかかわらず)読めなかったのかもしれないし,「たいていの店はその店の名前の看板のある建物の中にある」ということを知らないのかもしれない。Aさんは急にすこし散歩がしたい気分になってあえて店の前を素通りしたのかもしれないし,ことによったら,目的地にまっすぐ向かうと不吉なことがあると信じているのかもしれない。しかし,Aさんにそういう基本的な知識が欠けているとか妙な欲求を持っているとか妙な信念を持っているとか仮定しなくても,「看板を見落とした」と考えれば A さんの行動は無理なく説明できる。そういう無理のない解釈をせよ,というのが思いやりの原理である。
これは生産的な議論を行う上では必要不可欠な原理である。日常生活で,数学における証明のような形で厳密に全ての前提を明示するような形で議論をすることはまずない。相手も共有しているだろう前提は省略してしゃべるし,逆に省略しなければ煩雑すぎて会話が成立しない(会話の中に新しい言葉がひとつ登場するたびに言葉の定義をするような会話をちょっと考えてみるとよい)。省略された部分についてはいろいろな解釈の余地が発生する。そういう部分を曲解して批判すればいくらでも批判は可能である。課題文の例でも,「この相手は遺伝子組換え作物は品種改良の延長線上だから推進すべきだなどという飛躍した議論をしている」とまとめて批判することはできなくはない。しかし,そんなことをしても,本当に遺伝子組換え作物を推進するべきかどうかについて議論が深まるわけではない。
CTにおいて思いやりを働かせることを奇妙だと思う人は,論争というものを勝ち負けでとらえているのかもしれない。とにかく相手を言い負かしたら勝ち,というゲームだと思ったら,相手に対して思いやりを働かせる理由はなくなるだろう。しかし,CT を行う理由が少しでも真実に近づきたい,あるいは少しでも合理的な結論にたどりつきたい,ということなのだとすれば,論争の相手は,実はその同じ目標のために協力する大事なパートナーなのである。
□pp. 58-59 イントロの部分のみ抜粋。内容に関心があるので。
ユニット3 喫煙を認めるか否か
背景説明
20世紀初頭までは稀な病気だった肺がんが,突如として,各国で急増しだしたのは1920年代以降だった。一方,大量生産が可能となった紙巻きタバコ(シガレット)が急速に普及し,各国で喫煙者の数が激増したのが1910年代。すると当然,「喫煙が肺がんの原因では?」と睨んで、その仮説を実証しようとする研究者が出てくる。そのはしりの一人が,1929 年に「自分が診察した肺がん患者には喫煙者が圧倒的に多い」という研究結果を発表したドイツのリキントである。彼の研究は,その直後に成立したナチス政権が推し進めることになる禁煙政策に大きな影響を与える一方で,戦前・戦中期のドイツで行われた喫煙の害をめぐる一連の研究の呼び水ともなった。
ナチス政権崩壊後下火になったドイツでの研究に代わって,戦後の禁煙運動の火付け役となったのは50年代にイギリスとアメリカで行われた研究である。リキントの研究と同じく,これらの研究も喫煙ががんを引き起こす因果的なメカニズムを調べるものではなく,喫煙と発がんの相関関係を統計的に調べる「疫学研究」だった。疫学研究にはいくつかのタイプがあるが,最初に実施されたのは,肺がん患者のグループ(「ケース群」)と健康な人のグループ(「対照群」)との間で、過去の喫煙の有無・頻度・期間などを比較する「ケース対照研究」。続いて,喫煙者と非喫煙者のグループを設定した上で,それらを追跡調査し,両グループ間で肺がん発生率を比較する「コホート研究」も行われた。そして,いずれの研究も「喫煙が肺がんの一因である」という結論を導いた。
これらの研究は学界内外で大きな反響を呼び,賛否両論の論議を巻き起こした。そのクライマックスは,1957年に開かれたタバコの広告規制をめぐるアメリカ下院の公聴会だろう。そこでは,個々の研究の細部の問題点を指摘する意見も出されたし,「そもそも統計的な相関関係と因果関係は別物なので,相関関係だけを根拠に因果関係の存在を主張できない」といった原理的な批判も繰り広げられた。だが,この「論争の季節」は,少なくとも科学界では長続きはしなかった。50年代末には,それまでに得られた数多くの疫学研究の結果を総合的に評価しつつ,それらに対してなされた反論を各個撃破的に論破した上で,「喫煙は肺がんの一因であることには十分な科学的証拠がある」と結論づけたサーベイ論文が相次いで発表されたからである(たとえばCornfield et. al. 1959)。それ以降,有力な学術雑誌で,喫煙と肺がんの因果関係を否定する論文を見かけることはなくなったのである。
喫煙と肺がんの因果関係をめぐる研究は,臨床医学の分野で疫学的手法を用いた最初の例の一つだった。その因果関係が医学界の大勢に支持されたことは,疫学の方法自体が,臨床医学で公認されたことをも意味する。今日,隆盛を極める「臨床疫学(clinical epidemiology)」がここに成立したのである。
さて,学界での「合意」を受け,次に行政サイドが動き出す。1964年,アメリカの保健衛生局は「喫煙と健康」という報告書を発表し,その中で喫煙が肺がんなどの病気の原因となっていることを公式に認めた。その後,アメリカではタバコに対する公的規制が相次ぐことになる。タバコのパッケージ上での「喫煙の健康被害警告」表示の義務づけ(1966年),テレビ CM の禁止措置 (1971年)などがそうである。
70年代に入ると,論争の「主役」は、喫煙者本人による,タバコの吸い口からの煙(主流煙)の喫煙,即ち「能動喫煙」から,喫煙者の子供や配偶者や同僚など喫煙者の身近にいる非喫煙者による,タバコの先端からの煙(副流煙)や喫煙者が吐き出した煙(呼出煙)の吸引,即ち「受動喫煙」に交代した。両親の喫煙と乳幼児の呼吸器疾患の関連性を示した研究や,主流煙よりも副流煙の方が有害物質を多く含むという研究が発表され,たとえば旅客機内に禁煙席を設けるといった,受動喫煙を防ぐ措置がアメリカでとられだしたのである。
受動喫煙と健康に関する初の本格的な疫学調査は,1966年から79年にかけて行われた平山雄[ひらやま・たけし]のコホート研究である(Hirayama 1981)。この研究が発表されて以降の世の中の動きは,先に見た能動喫煙のケースと同様の経過を辿った。まず平山論文をめぐる賛否両論がわき起こり,それに対するあら探し的な批判もなされる。一方,同様の研究が数多く行われ,1986年には,それら多数の研究結果をサーベイした上で,「受動喫煙も健康を害する」と結論づけた論文が複数公表された。それを受けて各国の政府や機関も受動喫煙の危険性を認定し始め,防止策を講じ出す。たとえば,日本の厚生省(当時)が 1987年に出した「たばこ白書」も,受動喫煙がもたらす健康被害について触れているのである。また 1992年に国際民間航空機関が国際線の全面禁煙化の方針を打ち出したのを受け,1998年までにほとんど全ての旅客機が全席禁煙となった。
統計的な相関関係に加え,喫煙ががんを引き起こすメカニズムも今や明らかになったと言われる。たとえば「タバコの煙に含まれる 60 種類以上の発がん物質のうち,ベンゾピレン等については発がんメカニズムが詳細に解明された」といった主張がしばしばなされるのである。また喫煙がもたらす病気としては,肺がん以外にも,喉頭がん,心臓病,肺気腫,解離性大動脈瘤等々が指摘されている。
70年代から喫煙が引き起こすとされるさまざまな生活習慣病を「予防可能な最大の疾病」と位置づけてきた WHO(世界保健機関)は,2003 年の総会で「たばこ規制枠組条約」を採択し,各国に公共の場での受動喫煙防止策の制定を求めた。日本でも同年,「健康維持を国民の責務」と語った「健康増進法」が施行され,その条文の一つで,学校・病院・飲食店・鉄道車両・タクシーなどの「多数の者が利用する施設」の管理者に対して,利用者の受動喫煙を防止するため(全面禁煙ではなく)分煙の努力義務が(罰則規定はないものの)課せられた。それを受けて,現在,さまざまな「公共の場」に分煙や全面禁煙の措置が導入されている。
本ユニットでは喫煙をめぐる問題を,統計的データにもとづいた科学的知識をどう評価すべきかという視点と,喫煙の害が「証明」された場合,喫煙を禁止することが個人の自由の侵害にあたるのかという角度から考えてみる。この二つの観点はさしあたっては独立だが,どのような科学的証拠があれば,個人の嗜好に対する公的な介入が許されるのか,という問題を考える際には密接に関達することになる。引用・参考文献
デイヴィッド・サルツブルグ(竹内惠行,熊谷悦生訳)(2006)『統計学を拓いた異才たち――経験則から科学へと進展した一世紀』日本経済新聞社 [第18章 「喫煙はがんの原因か」]Cornfield, J., et al. (1959) Smoking and lung cancer : recent evidence and a discussion of some questions. Journal of the National Cancer Institute 22, 173-203
Hirayama, T. (1981) Non-smoking wives of heavy smokers have a higher risk of lung cancer: a study from Japan. British Medical Journal 282, 183-185