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『憲法と平和を問いなおす』(長谷部恭男 ちくま新書 2004)

著者:長谷部 恭男[はせべ・やすお](1956-) 憲法公法学
NDC:323.01 憲法学.国法学.比較憲法


筑摩書房 憲法と平和を問いなおす / 長谷部 恭男 著


【目次】
目次 [003-006]
まえがき [007-009]


序章 憲法の基底にあるもの 011
  立憲主義とは何だろうか
  立憲主義をなぜ問題にするのか


第I部 なぜ民主主義か? 017

第1章 なぜ多数決なのか? 018
  多数決をとる四つの理由
  自己決定の最大化
  功利主義
  すべての人を公平に扱う
  コンドルセの定理


第2章 なぜ民主主義なのか? 029
  多数決と民主主義の異同
  二つの見方
  第一の見方をさらに二分する
  アーレントの民主主義観
  民主主義の自己目的化?
  民主主義の失敗
  民主主義の限界


第II部 なぜ立憲主義か? 043

第3章 比較不能な価値の共存 044
  「自然権」は自然か?
  「正義の状況」
  宗教戦争懐疑主義
  ハムレットドン・キホーテ
  比較不能な価値観の対立
  立憲主義への途
  公と私の人為的区分――政治の領域の限定
  民主的手続の過重負担
  ジョン・ロックの抵抗権論


第4章 公私の区分と人権 065
  「公」と「私」の人為的な境界線
  信教の自由
  自己決定
  「愛国心」の教育


第5章 公共財としての憲法上の権利 073
  社会の利益の実現を目指す権利
  公共財
  自由な表現の空間
  マスメディアの表現の自由
  マスメディアの部分規制
  民主主義にとっての討議の意味
  「多数者の英知」と「集団偏向」


第6章 近代国家の成立 088
  社会契約というフィクション
  平等な人一般の創出
  天皇制という変則
  天皇という象徴
  外国人という変則
  国籍の意味
  分権の意味
  国境の意味
  人道的介入
  「人道」という美名


第III部 平和主義は可能か? 111

第7章 ホッブズを読むルソー 112
  ホッブズにとっての戦争と平和
  自然状態
  戦争と戦争状態
  人民武装
  国家間同盟
  社会契約の解消
  「市民ルソー」対「合理的計算人ルソー」


第8章 平和主義と立憲主義 128
1 なぜ、そしてどこまで国家に従うべきなのか 130
  「権威」に関するラズのテーゼ
  調整問題
  囚人のディレンマ
  ホップズと国家の正当化
  ゴーティエの問題提起
  チキン・ゲーム
  「戦争」=「地獄」理論
  日本における受容
  より強い者の権利
2 国家のために死ぬことの意味と無意 150
  集団安全保障
  軍事力による防衛の実際的困難
  合理的自己拘束
  原理的困難
3 穏和な平和主義へ 160
  穏和な平和主義
  パルチザン戦の遂行
  非暴力不服従
  「善き生き方」としての絶対平和主義
  「世界警察」、そして「帝国」
  九条改正はほんとうに必要か?
  平和的手段による紛争解決
  修復的司法とその応用


終章 憲法は何を教えてくれないか 178


文献解題 [182-202]
あとがき(二〇〇四年一月 Y・H) [203-206]





【抜き書き】



・導入部分より。黒字強調は引用者によるもの。

  まえがき

 この原稿を書いている時点(二〇〇四年一月)では、衆参両院の憲法調査会が活動している。〔……〕改正すべきか否かの焦点となっているのが憲法第九条であることについては、大方の見方が一致している。
 改正が必要だという人々は、条文と実態とが乖離していることを理由として挙げることが多い。九条は軍備の保持を禁止しているはずなのに、実際には自衛のための実力組織である自衛隊が存在している。〔……〕実態を変えるのは非現実的であるから、条文の方を変えようというわけである。
 他方で、改正に反対する人のなかには、九条は人類普遍の理想を指し示しているのであるから、これを変えるべきではないという人がいる。もっとも、単に理想を示しているだけで、実態と何ら関係がない条文なのであれば、あってもなくてもよいはずであるから、単なる理想だというわけではないはずである。
 さらに、改正に反対する人のなかには、九条はいますぐにも実現すべき人の生きる道を示しているのだという人もいる〔……〕。
 筆者の見るところ、九条をはじめとする憲法改正論議には欠けている視点がある。立憲主義(詳しくは序章で述べる)という視点である。そもそも何のために憲法典(たとえば日本国憲法のように、文書としてまとめられた憲法のことを「憲法典」という)を作って国家権力を制御しようとするのか、それを説明する視点である。
 いや、全くないわけでもない。ただ、そこにあるのは、立憲主義とは与えられた憲法典にただ従うことを意味するのだという単純な理解のように見える〔……〕。
 ただ、こうした議論は立憲主義の生半可な理解に立脚しているように思われる。そもそも、なぜ立憲主義という考え方が生まれたのか。それを探っていくと、戦争と平和の問題に行き着く。さまざまな考え方を持つ人が平和に共存して社会生活を営む基本的枠組みとして何が必要なのか、その問題へと行き着く。立憲主義という考え方をつきつめたとき、そこからは、憲法九条の理解について、日本の平和をいかに守るべきかについて、一定の方向性が導かれる。
 本書で以下、展開される議論は、憲法九条に関する学界の通説的な理解――自衛のための最低限の実力の保持さえ憲法違反であるという理解――とは異なっている。筆者の見るところ、憲法九条に関する通説的な理解は立憲主義と簡単には両立しない。そのことを説明するためには、まず立憲主義とは何かを考える必要がある。
 以下で述べる議論は、残念ながらあまり単純ではない。憲法と平和の関係は単純であるはずだという人は、なぜこんな複雑な議論をしなければならないのかとの疑問を抱くであろう。なぜかといえば、問題自体が単純ではないからである。以下では、なるべくわかりやすい説明を心がけたつもりではあるが、問題を単純化してはいない。単純でない問題を単純であるかのように説明するのは、詐欺の一種である。戦争と平和という、正邪の観念や情緒論が入り込みやすい問題を冷静に考えるには、少々の複雑さを我慢していただく必要がある。

  [『憲法と平和を問いなおす』(pp. 7-9)]




・いわゆる「人権」へのある見方。なかなかリアリスティックな雰囲気がある。

〔……〕立憲主義的な憲法典で保障されている「人権」のかなりの部分は、比較不能な価値観を奉ずる人々が公平に社会生活を送る枠組みを構築するために、公と私の人為的な区分を線引きし、警備するためのものである。

[『憲法と平和を問いなおす』p.65-66)]





・終章から。立憲主義の、ある種の“不自然さ”と意義。

 ヨーロッパでの成立の経緯に照らしてみればわかるように、立憲主義は、多様な価値観を抱く人々が、それでも協働して、社会生活の便益とコストを公正に分かち合って生きるために必要な、基本的枠組みを定める理念である。そのためには、生活領域を公と私とに人為的に区分すること、社会全体の利益を考える公の領域には、自分が一番大切だと考える価値観は持ち込まないよう、自制することが求められる。
 立憲主義は、ありのままの人間が、自然に受け入れられる考え方ではない。少点無理をしなければ理解できないし、身につくはずのない考え方である。自分が一番大切だと思う価値観、自分の人生に意味を与えてくれる価値観を、みんなのためになることを議論し、決定する場には持ち込むなというわけであるから。
 しかし、そうした自制がないかぎり、比較不能な価値観の対立は、「万人の万人に対する闘争」を引き起こす。それは、遠い昔の話でもなければ、ただのおとぎ話でもない。いまも世界のいたるところで、そうした闘争はつづいている。立憲主義はたしかに西欧起源の思想である。しかし、それは、多様な価値観の公正な共存を目指そうとするかぎり、地域や民族にかかわりなく、頼らざるをえない考え方である。
 立憲主義にもとづく憲法――日本国憲法はその典型だが――は、人の生きるべき道や、善き生き方について教えてくれるわけではない。それは、個々人が自ら考え、選びとるべきものである。憲法が教えるのは、多様な生き方が世の中にあるとき、どうすれば、それらの間の平和な共存関係を保つことができるかである。憲法は宗教の代わりにはならない。「人権」や「個人の尊重」もそうである。さまざまな信仰を持つ人々、無信仰を奉ずる人々が共存する術を教えるだけである。
 立憲主義は現実を見るように要求する。世の中には、あなたとは違う価値観を持ち、それをとても大切にして生きている人がたくさんいるのだという現実を見るように要求する。このため、立憲主義と両立しうる平和主義にも、おのずと限度がある。現実の世界でどれほど平和の実現に貢献することになるかにかかわりなく、ともかく軍備を放棄せよという考え方は、「善き生き方」を教える信仰ではありえても、立憲主義と両立しうる平和主義考え方は、ではない。
 別の側面から見ると、立憲主義憲法は、民主政治のプロセスが、自分では処理しきれないような問題を抱え込まないように、民主政治で決められることをあらかじめ限定する枠組みでもある。根底的な価値観の対立を公の領域に引きずりこもうとしたり、大きなリスクをともなう防衛の問題について、目先の短期的考慮で勇み足をしないように、憲法は人為的な仕切りを設けようとする。引かれた線が「自然」な線に見えないという指摘は、反論にはならない。憲法が扱うさまざまな線のなかに、「自然」な線などどこにもないからである。「自然」な線ではないからこそ、いったん後退を始めると、踏みとどまるべきところはどこにもない。
 立憲主義は自然な考え方ではない。それは人間の本性にもとづいてはいない。いつも、それを維持する不自然で人為的な努力をつづけなければ、もろくも崩れる。世界の国々のなかで、立憲主義を実践する政治体制は、いまも少数派である。立憲主義の社会に生きる経験は、僥倖である。〔……〕

  [『憲法と平和を問いなおす』(pp. 178-180)]