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『現代ニッポン論壇事情――社会批評の30年史』(北田暁大, 後藤和智, 栗原裕一郎 イースト新書 2017)

著者:北田 暁大[きただ・あきひろ](1971-) 社会学
著者:後藤 和智[ごとう・かずとも](1984-) 社会学
著者:栗原 裕一郎[くりはら・ゆういちろう](1965-) 評論。
NDLC:EB98
NDC:302.1 政治・経済・社会・文化事情
NDC:304 評論集.講演集
備考:鼎談形式で書かれている。


http://www.eastpress.co.jp/shosai.php?serial=2777


【目次】
はじめに――ロスジェネの忘却と経済の忘却(二〇一七年四月二五日 北田暁大) [011-003]
目次 [013-017]
写真 [018-019]


第一章 若者論のゆくえ 021
注 074


第二章 文化と政治――社会運動の源流 077
注 132


第三章 トランプが日本のリベラルに突きつけるもの 135
注 


おわりに(二〇一七年四月一四日 仙台市内にて 後藤和智)[222-228]





【抜き書き】


・社会システム理論の濫用(pp. 41-42)

北田  メディアを賑わす少年犯罪が頻発したことで、少年の心の闇云々という議論がメディアに躍るようになってしまった。

栗原  ブイブイ言わせていた九〇年代、宮台真司は何でもかんでも「社会システム理論によれば〜」で語っていたでしょう。ああいう論法を、社会学の人たちはどう見てたんですか?

後藤  確かに。社会システム理論っていうけど、本当にそれ正しかったのかとは思いますね。

北田  僕はそうは思わないけど(笑)。宮台さんの言う「社会システム理論によれば」というのは、「私の考えによれば」以外の何ものでもなくて、システム理論をまじめにやってれば到底あんなこと言えないはずですよ。ルーマン何も関係ないですもん。だからまあ、それはそれということでいいんじゃないですか

栗原  でも、宮台を読んで道を誤った若い人は相当いたでしょう。「社会システム理論を勉強すれば、世の中の現象を全て斬れるんだ」って。ニューアカにもそういう万能感を錯覚させる面がありましたが、その点で、ニューアカ〜宮台というのはつながっていたのではないか。

後藤  私もデータ中心に集めるようになって、宮台さんの言っていた「脱社会化」といったテーゼは間違いじゃないかと思うようになったんです。それを完全に結論づけたのは、科学警察研究所の人たちの研究 (岡邊健、小林寿一「近年の粗暴的非行の再検討――「いきなり型」・「普通の子」をどうみるか」『犯罪社会学研究』三〇号)を見た時です。当時、「若い世代の犯罪は増えていない」という説を採用する社会学者でも、「犯罪の質は変わった」と言う人が多かったんですよね。「最近は『いきなり型』の少年犯罪が増えている」と。ところが、科学警察研究所の研究は、古典的な犯罪や逸脱の見方がいまだに有効であるという話だった。じゃあ結局、今まで社会学者が言っていたのは何だったのか、と。
栗原  管賀江留郎『戦前の少年犯罪』築地書館、二〇〇七)という本もありましたね。僕がはっきり覚えてるのは、加藤智大の秋葉原事件の時、凶悪事件をめぐる言説がガラッと変わったこと。あの事件の後、大澤真幸社会学者、一九五八年生)の監修で『アキハバラ発――〈00年代〉への問い』岩波書店、二〇〇八)という本が出たでしょう。それと同時期に、洋泉社から『アキバ通り魔事件をどう読むか?』(二〇〇八)というムックも出た。当時はもう、浜井さんや芹沢一也社会学者、一九六八年生)さんによる少年犯罪に関する議論が出た後で、宮台的な脱社会化がどうしたという論調は封じられてしまっていました。洋泉社本のほうが先発だったんですが、事件自体を語る前に、少年犯罪を物語化することへの禁忌をいろんな人が口にするといういささか奇妙な状況になっていた。そして、それが図らずも続く大澤本への牽制になってしまっていた。あそこでシフトが変わりましたよね。それまで宮台さんや大澤さんがやっていた、「社会システム理論」とか「第三者の審級」といった伝家の宝刀でバッサバッサと斬るというのができなくなってしまった。

北田  そう考えると、「少年犯罪は増加している」という言説に囲まれて育ち、後藤さんにはいったん宮台さんの本がフィットしたんだけど、二〇〇〇年代半ばから反証が出てきて疑念が生じてくる。そうした時に、ちょうどニートという言葉が話題になって若年労働者の就労問題も出てきた、と。

後藤  はい。その時期に、私の関心も若者バッシングに対する批判から、若者擁護論に対する批判に移っていくんです。