著者:大屋 雄裕[おおや・たけひろ](1974-) 法哲学。
シリーズ:筑摩選書;0087
NDC:361.1 社会学
筑摩書房 自由か、さもなくば幸福か? ─二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う / 大屋 雄裕 著
【目次】
はじめに
第一章 自由と幸福の一九世紀システム
1 近代リベラリズムと自己決定の幸福
さるかに合戦の契約論
自由と幸福の一致
労働者と飲酒
パノプティコンと主体の生成
報償原理の生み出す社会
自由と幸福の一九世紀システム
2 契約自由の近代性
不幸への自己決定は許されるか
民法と契約自由
正当価格と莫大損害
3 参政権──自己決定への自由
国家運営の不幸
戦争の持つ二面性
軍隊・平等・近代
義務教育に対する抵抗
徴兵逃れと自由民権運動
日露戦争と「国家への自由」
4 権利としての戦争
人民の武装権
動員と社会的認知
5 一九世紀システムの完成──自己決定する「個人」
近代国家のセントラル・ドグマ
近代の確立と他者の排除
第二章 見張られる私── 二一世紀の監視と権力
1 監視の浸透
情報化社会と電子的記録
国家による監視の拡大
監視による幸福
監視するアーキテクチャと自動化される権力
国家法とアーキテクチャの衝突
国家の三要件
企業活動の危険性
2 情報化・グローバル化と国家のコントロール 国家に対抗する情報共有
情報共有の負の側面
国家を超える情報流通
ウィキリークスの光と影
国家のアンダーコントロール
国家のオーバーコントロール
3 「新しい中世」
錯綜する契約と規制
リヴァイアサンのもう一つの顔
確率的な支配、柔らかい支配
空間の分離と社会福祉
第三章 二〇世紀と自己決定する個人
1 一九世紀から遠く離れて──戦争と革命の二〇世紀
私と我々の距離
フェアネスと逆転可能性
自己責任の基礎としての自己決定
自己決定は欲望されるか
自由からの逃走
自由に耐えられない個人
2 個人と人間の距離
「人および市民」の権利
ワイマール共和国の崩壊
闘う民主政
3 個人の変容への対応
事後規制としての法
行為主体側の機能不全
権利主体側の機能不全
労働法以前の社会
ニューディールと労働法の誕生
日本における状況
労働法の意味とその行方
消費者保護が意味するもの
4 Why not be Perfect? ──アーキテクチャと完全な規制
法的救済の限界
Why not be Perfect?
CCCDと統制の限界
一九世紀システムの次に来るもの?
第四章 自由と幸福の行方
不安社会
民主政の憂鬱
1 過去への回帰願望
境界と前近代
前近代と正義
不正義の伝統
「見知らぬ他者」の接遇という神話
一九世紀の再肯定──新自由主義
形式的平等の生み出すもの
2 新たなコミュニティ・ムーブメント
環境犯罪論と防犯エンターテインメント
ゲーテッド・コミュニティの誕生
ゲーテッド・コミュニティと不安の快楽
3 アーキテクチャと「感覚のユートピア」
功利主義と人格の問題
将来の私と現在の他者の非対称性
感覚のユートピア
人格なき海とのコミュニケーション
4 ホラーハウス、ミラーハウス
もう一つの選択肢
裏返しのパノプティコン
ホラーハウス社会の本質的問題
差別と区別
ホラーハウス社会の乗り越えかた
近代の装置としてのパノプティコン
おわりに 三つの将来
「新しい中世」の新自由主義
総督府功利主義のリベラリズム
ハイパー・パノプティコン
絶望的な結論?
ミラーハウスのMAD
謝辞(二〇一三年八月二八日 大屋雄裕)
【メモランダム】
巻末の「謝辞」には、次のようにある。
前著(『自由とは何か――監視社会と「個人」の消滅』ちくま新書、筑摩書房、二〇〇七)に対しては、お読みいただいた多くの方々からご感想をいただいた。そのうち、自由と主体の関係についての分析は分析として、その上で著者としてはどのような社会構想を抱いているのかという疑問に対する一つの回答として、本書は構想された。