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『マスクと日本人』(堀井光俊 秀明出版会 2012)

著者:堀井 光俊[ほりい・みつとし] (1977-) 社会学
装幀:真田 幸治[さなだ・こうじ](1972-) 

マスクと日本人

マスクと日本人

【目次】
目次 [001-004]


第一章 序論 005
はじめに 006
マスクの定義 010
時代的な背景 013
本書の構成 022


第二章 マスクを客観視する 025
英語メディアにも登場  028
予防に関する科学的根拠 034
新型インフルエンザの流行 050
小括 061


第三章 日本ではどう使われているのか 063
風邪やインフルエンザにたいする利用 066
花粉症対策としても 072
筆者による調査結果 076
  グリッドとグループ
  ①「支持、高頻度使用」=「高グリッド、高グループ」=ヒエラルキー
  ②「非支持、高頻度使用」=「低グリッド、高グループ」=平等主義
  ③「非支持、低頻度使用」=「低グリッド、低グループ」=個人主義
  ④「支持、低頻度使用」=「高グリッド、低グループ」=運命論
  「マスクを着けるか否かは、その人の性格や人間性が関係していると思いますか?」
  「マスクを着けなければいけないような気分にさせられたことはありますか?」
  「マスクを着けるべきではない場所があると思いますか?」
  「諸外国、とくにアジア圏外の国々ではマスクを着けないと言われます。それは、本当だと思いますか? また、そのように思うのはなぜですか?」
小括 096


第四章 インフルエンザが呼び起こした黎明期 097
サージカルマスクの起源 098
「スペイン・インフルエンザ」 100
日本におけるマスク前史 102
一九二〇(大正九)年一月 108
一九二〇(大正九)年二月以降 113
日本人とインフルエンザの文化史 115
大正時代における象徴的意味 122
小括 131


第五章 ワクチン接種と花粉症予防 133
終戦~一九五〇年代 135
  「イタリア風邪」
  「アジア風邪」
一九六〇年代 144
  「香港風邪」
一九七〇年代 149
一九八〇年代 151
  花粉症用マスクの登場
一九九〇年代 155
  反ワクチン
小括 167


第六章 二〇〇〇年以降も社会的に浸透 169
二〇〇〇年代 171
  マスク川柳
  感染予防マスクの再登場
  SARSの影響
  SARS以降
女性にとっての価値 179
「咳エチケット」 183
道徳としての予防 186
二〇〇九年の新型インフルエンザ報道 190
  第一期=発生当初期
  第二期=水際対策期
  第三期=国内感染発生期
  第四期=報道転換期
  第五期=報道収束期
小括 203


第七章 リスク儀礼としての位置づけ 205
リスクと行為 208
マスク着用の「構造」 212
「お守り」の一種か 217
道徳と機能型 221
社会的な配慮として 224
健康の「個人化」型 227
「後期近代」の危機 231
孤立する自己を守る 238
小括 246


おわりに [251-257]
主要参考文献 [258-267]





【抜き書き】



□本書の目的(pp. 9-10)

〔……〕なぜならば、日本ではマスク姿が「自然」であり、注目するに及ばないほど「当たり前」で、疑問を抱くことが許されないかのような迫力をもって存在するのである。 
 そのような違いを体験すると、「日本人はなぜマスクを着けるのか?」という疑問が湧いてくる。それが、本書を書き始めるきっかけなのだ。
 マスク着用という行為は、それを正当化する科学的な語彙を伴う言説で語られながらも、必ずしも科学的根拠に根ざしているわけではない。しかし、マスクを着けない欧米が科学的=進歩的で、使用する日本は非科学的=後進的といった価値判断をするつもりはまったくない。マスク着用の有無は、科学ではなく「文化」の問題と言えよう。その行為を受容し、個々人が日常生活のなかで選択、実行するという日本の文化の構造を探ってみるのが、本書の目的とするところだ。


□本書の構成(p. 22-23)

 次の第二章では、まず英語の文献で紹介されている日本のマスク着用に関する意見を紹介し、日本人にとって「当たり前」な習慣を、「ソト」の視点から眺めることにより、その不思議さを提示してみたい。そして、マスク着用の「科学的根拠」について説明を加える。実は、その効果は科学的に怪しいようなのだ。加えて、二〇〇四(平成一六)年以降の日本に現れた、マスク着用に関する公式見解について解説したい。
 第三章においては、マスク着用という習慣に関する調査結果を分析する。効果の有無ではなく、なぜマスクを着けるのかといった動機を探りたい。既存のデータを紹介した後で、筆者が実施した調査結果を文化理論によって分析する。この章の目的は、多くの日本人が日常的に実践しているマスク着用という行為自体について、徹底的に深く掘り下げることにある。しかし、その行為自体を洞察して構造がある程度は解明できても、「日本人はなぜマスクを着けるのか?」という問いへの答えに到達するのはなかなか難しい。
 第四章から第六章にかけては、マスク着用の社会史を分析する。日本社会でマスク着用の習慣がどのように始まり、社会全体に浸透し、人々の日常生活の一部になったのか。〔……〕
 第七章では、リスクという言葉をキーワードにマスク着用を論じたい。危険ではなくリスクと言うとき、そこには個々人へ予防対策の実践を促す推進力が生まれる。それにより、リスク回避としてのマスクが着用される。そこで重要なのが、それはきわめて儀礼的な行為ということだ。マスク着用はリスク儀礼として機能し、それにたいする不安を象徴的に吸収する役割を担うことを論じる。人々がリスク回避の方法が見えない不安に直面するとき、その混乱は文化の象徴的レベルで秩序化される。マスク着用という行為が、個々人が容易に実践できるリスク回避の行動規範として提示されれば、不安はマスク着用という行為のレベルまで昇華し、マスク自体へ象徴的にろ過、または吸収されるわけである。


□マスクの範囲についての説明(pp.10-12)

  マスクの定義 
 マスクとは、人体のうち顔の一部または全体にかぶる、または覆うものを指す。頭部まで覆うものを含める場合もある。一般的には、衛生または防護の目的で口や鼻を外界と遮断するものをいう。概して、空気中の微細な浮遊物が体内に取り込まれるのを防ぎ、口や鼻からの分泌物などを周囲にまき散らさないようにするための装置や用具であり、本書では仮装用のマスク(仮面)などについては扱わない。意匠としては、作業用と衛生用に大別される。商業的な文脈においては、前者は「産業用マスク」と呼ばれ、後者は「医療用マスク」「家庭用マスク」に分類される。
 「産業用マスク」に関しては、それらの性能について公的な測定方法や国家検定規格が決められている。産業用マスクとはいわゆる「防塵マスク」のことで、その代表格が「N95マスク」だろう。この「N」は、「Not resistant to oil = 耐油性なし」という意味である。そして、「95」とは一定の条件で空気中の粒子の捕集効率試験をしたときに、九五%以上の成果が保証されたことを意味する。これは超微粒子を捕集する高性能マスクで、感染者治療を行う医療機関などで使用している。
 「医療用マスク」「家庭用マスク」は、「サージカルマスク」と呼ばれることが多い。このカテゴリーには、NSマスクほどの性能はないが、外科手術などで一般的に使われている医療用、それ以外の家庭用が含まれる。重層構造、特殊な吸着フィルターを採用、顔にフィットさせるためのさまざまな工夫が施されているものなど、その種類も豊富である。さらに形状も、フラット・タイプや立体型に分かれる。
 サージカルマスクは一九九〇年代以降、とくにフラット・タイプのものが花粉の影響により、一般家庭でも使い捨てマスクとして普及した。立体型は、九〇年代後半でも病院などで限定的に売られていたようだが、二〇〇三(平成一五)年ごろからユニ・チャーム株式会社が発売した「超立体マスク」が花粉症患者から好評を得て、一気に普及したようだ。「産業用」とは対照的に「医療用」「家庭用」は、日本国内においては薬事法に該当しない雑貨品扱いとなり、性能に関する国家検定規格が存在せず、メーカーごとに表示や広告内容にバラつきがあった。そうした問題を解決するため、社団法人日本衛生材料工業連合会は、〇六年一月に「マスクの表示・広告自主基準」を策定、施行した。しかし、「工業会会員となる各マスク・メーカーに対し、消費者保護の立場から表示に対する社会的責任の遵守を呼びかけてい」るものの、現在でも統一された性能基準は存在しない。
 二〇〇九年には、その基準の不在が問題化した。たとえば、「N95」と表示しながらも実際にはそこまで遮断機能のない商品が多いと、独立行政法人国民生活センターによって指摘されたのをはじめ、「ウイルス除去率九九%以上」などとうたいながら、捕集効果が五〇%以下の商品もあったようだ(二〇〇九年一一月一九日付「読売新聞」、「ウイルス遮断マスク効果に疑問」)。そうした批判に応えるべく、消費者庁は日本衛生材料工業連合会を構成する五つの工業会の一つである全国マスク工業会にたいし、適正表示の基準をつくるよう指導してきた。その結果、同工業会は一二年に医療品同様の効果を誤解させる表示を禁止。捕集性や抗菌加工については、フィルターなどの一部分の性能であることをわかりやすく示し、パッケージ前面に「マスクは感染を完全に防ぐものではありません」という表記を義務づけた。
 日本衛生材料工業連合会の定義では、マスクとは「天然繊維・化学繊維の織編物または不織布等を主な本体材料として、口と鼻を覆う形状で、花粉、ホコリなどの粒子が体内に侵入するのを抑制、またかぜなどの咳やクシャミの飛沫が体内外に侵入、飛散するのを抑制することを目的に使用される、薬事法に該当しない衛生用品」であり、おそらく「産業用マスク」は除外されている。
 本書ではこの定義に従い、文中の「マスク」は薬事法に該当しない「医療用マスク」「家庭用マスク」を意味し、それ以外の場合は「防塵マスク」「N95マスク」などと用途や種類を特定して、混乱や誤解を避けたい。また、上記の定義に当てはまるマスクについても、必要に応じて「ガーゼマスク」や「不織布マスク」のように素材を特定して記述する場合もある。ちなみに、不織布とは織らない布という意味で、繊維を直接シート状に加工したものだ。これは、布製のように洗濯したうえでの再使用は不可能だが安価で機能性も高く、「N95マスク」と「サージカルマスク」の二種類に分けられる。


□「おわりに」から(pp. 251-252)

 マスク着用を儀礼的行為として捉えるのは、別にそれ自体や実行する人を批判し否定しているのではない。それは、私たちの日常生活が多くの儀礼的行為により形成されていることを理解するための、一例を紹介する試みである。
 毎日の挨拶や服装、言葉遣い、食事のマナー、冠婚葬祭も、すべて儀礼的な行為だ。それらがない生活は素っ気ないものだし、人間は象徴体系としての文化を持ち、他者とかかわる社会的な存在である以上、私たちの生活から儀礼的要素が失われることはない。
 たとえば、誰かと喫茶店などでコーヒーを飲むとき、その味を一緒に楽しむことが第一の目的ではない。それは、相手といろいろな会話を楽しみたいということを意味する。独身の若い男女が気になる異性を「コーヒー」に誘うとき、それは相手にたいする好意を暗に秘めており、交際に発展する可能性も含んだ互いを知るための機会づくりとしての意味を持つ。取引先の人間を誘うときは、互いの信頼を深めて良い関係を築きたいという思惑があるだろう。そのように、「コーヒー」を媒介に社交儀礼が成立している。マスクに関しても、感染者が着けることは相手にたいする「配慮」を示し、健康者においては場合によって無礼になることは前章で触れた。


□不安と「お守り」(pp. 255-256)

さまざまなリスクにさいして、それらが顕在化し話題になった後で安全性を唱えても安心は提供できない。しかし、人々は社会規模で不安を昇華するための新たな儀礼を創造していく。それは本来、人間にそなわっている創造的な逞しさなのかもしれない。〔……〕
 本書のはじめで紹介した、大震災後の日本のマスクを「セーフティー・ブランケット」と呼んだ記者は、その言葉で儀礼的な側面に着目したが、どうやらそれを否定的に解釈し、道具的ではない = 意味のない非合理的な習慣と理解していたように感じられる。しかし、道具的ではない行動が必ずしも無意味なわけではない。私たちの日常生活における行動の多くが、そもそも道具的ではない。しかし、そうした儀礼的行為によって、私たちの生活の象徴的秩序が維持されている。言い換えれば、儀礼的行為なしに安心という精神的安定の確保は困難なのである。
 不安に直面すると、人間は何かをしなければならない。行動により不安から完全に逃れられないにしても、それに圧倒されなくて済む。安値でどこでも売っているうえ、容易に装着でき社会的な抵抗感もないマスクは、いわば不安を行動へと昇華するための便利な道具なのだ。それは、象徴的に不安を吸収してくれるのである。
 要するに、マスクは現代の「お守り」なのだ。