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目次とメモを置いとく場

『作家の日記を読む――日本人の戦争』(Donald Keene[著] 角地幸男[訳] 文春文庫 2011//2009)

著者:Donald Lawrence Keene(1922-2019) 日本文学。
対談:平野 啓一郎[ひらの・けいいちろう](1975-) 作家。
訳者:角地 幸男[かくち・ゆきお](1948-) 翻訳家
NDC:910.263 昭和時代前期(1927-1945)


・文春文庫版(2011年)

・学藝ライブラリー版(2020年)



【目次】
目次 [003-006]


序章 009
第1章 開戦の日 021
第2章 「大東亜」の誕生 044
第3章 偽りの勝利、本物の敗北 067
第4章 暗い新年 089
第5章 前夜 111
第6章 「玉音」 133
第7章 その後の日々 155
第8章 文学の復活 177
第9章 戦争の拒絶 200
第10章 占領下で 223


あとがき(二〇〇九年五月) 246
文庫版あとがき(二〇一一年十月) 250


対談 ドナルド・キーン×平野啓一郎(二〇〇九年九月) 252
  意外な本音を見せた作家たち/過去を語らなかった伊藤整/日本特有の日記文学/作家と兵隊の日記の違い/戦争に対する作家たちの温度差/日記に見える作家の人間性/日本人にもいろいろいる/日記に書かれた多様で私的な言葉


注釈 [284-308]
参考文献 [309-314]
人名索引 [315-318]




【メモランダム】
・日本語版Wikipediaには、「キーン ドナルド」と雅号として「鬼怒鳴門」が載っている。
 私から付け加えると、書名に「黄犬」と書いて、ルビを「キーン」としていた著書もあったので、そこも記載してほしい。



【抜き書き】


・序章。

 わたしが日記に興味を持ち始めたのは太平洋戦争のさなかで、(アメリカ海軍の情報将校としての)三年間の主な仕事は、押収された文書を読むことだった。その中に、日本の兵士や水兵の日記があった。おそらく最後の一行を書いた後に太平洋の環礁の上か海の中で死んだに違いない人々の苦難を綴った感動的な日記を読んで、わたしはどんな学術書や一般書を読んだ時よりも日本人に近づいたという気がした。

□本書の用いる資料。

 わたしは論じる対象を概して日記に限ったが、時には日記と同じ頃に発表された新聞や雑誌の記事も使った。しかし後年になって書かれた回想録や小説作品は、その対象に含めなかった。わたしが書きたかったのはあくまで個人の日記についてで、当時のすべての日本人が生きていた状況についてではなかった。わたしは、政治的ないしは文化的活動の全体像を描こうと試みたわけではなかった。しかし極めて多彩な視点と方法で書かれた数々の日記は、日本の歴史の重大な時期における日本人の喜びと悲しみを暗に語っていると信じている。

山田風太郎

 濫読家の山田は、空襲のさなかでも本を読むことをやめなかった。昭和二十年の日記は、山田が一年間に如何に多くのヨーロッパ文学と日本文学を読んだかを明らかにしている。医学生(そのため兵役を免れていた)としての山田は、忙しすぎてヨーロッパの小説を片っ端から読み漁っている暇などないはずだった。しかし日記には、医学書はほとんど出てこない。

・第一章。
□新聞と噂について。

 信頼すべき情報の欠如が、この戦争の特徴だった。スウェーデンポルトガルその他の中立国に駐在する日本人特派員は、枢軸国側にとって不利な情報も日本の読者に伝えた。しかし日本国内や日本軍が占領した地域で受けた被害については、日本の新聞は報道しないか、報道しても最小限に留めた。アメリカ艦隊、および太平洋の島に上陸していたアメリカ部隊に対する架空の勝利を伝える新聞報道は、日本人に安心感と喜びをもたらした。〔……〕 新聞記事は、日本の対空防備が世界一であることを日本人に保証した。かりにその自慢の防備にもかかわらず敵の爆弾が日本の都市に落ちたとしても、新聞によれば敵の爆撃で破壊される建物は常に学校と病院だった。こうした公式発表に対する信頼が失墜したのは、アメリカ軍が日本の本土上空の制空権を掌握した時だった。フィリピンのレイテ島が陥落し、東京大空襲が開始された後、昭和十九年末までに日本人の三分の一が日本の勝利の可能性を疑い始めていたと言われる。
 言論統制が敷かれていたため、風説が情報の代わりを務めた。風説がはびこったこと自体、当局の公式発表や軍部に対する一種の抵抗の表われと解釈されている。一般に風説が信用を落とし、人々の記憶から消えるのに長くはかからなかった。しかし間違った風説は、同じく根拠のない新しい風説に取って代わられただけだった。〔……〕根も葉もない無数の風説が流れたのは、なにも戦争の進捗状況や、アメリカ軍の上陸地点となりそうな沿岸地域の場所の特定についてだけではなかった。食料の配給制度についてもそうで、こうした風説が人々を疎開に駆り立て、昭和二十年に日本人を襲った心配と恐怖の種となったのだった。
 一般に、風説を言い出した者が誰なのかを突き止めることは不可能だった。おそらく風説を流した一番の動機は、隣組の間で自分が注目されたいという願望であったろう。周りの人間が知らない情報を自分だけが入手できるという振りをすることで、周囲の尊敬を得ることが出来たのだった。

・第二章。

□44-45頁。

 “当時、複写されて広く出まわった報道写真に、山下奉文〔ともゆき〕大将がシンガポールの英国軍司令官パーシヴァル中将に対し、「イエスかノーか」と居丈高に降伏の最後通牒を突きつけている写真がある。この写真は、西洋で教育を受けた日本の知識人の間でさえ、なんら当惑の種とはならなかった。それどころか一世紀にわたる西洋への屈従の後に、今や日本人が優位に立ったことの紛れもない証として称賛された。同時にこの写真は、日本人が日清日露の戦争で敗軍の将を遇する際に見せた礼儀を、もはや守るつもりがないことを示していた。[※3]。小田島大佐は、捕虜の待遇について「日露戦争の頃は西洋崇拝的であったから、現在は日本主義的にした」と述べている[※4]。

[※3] 日露戦争の旅順での勝利を知った時、明治天皇の最初の反応は歓喜ではなくて、ステッセル将軍の祖国への揺るがぬ忠誠に対する称賛だった。天皇は、山県有朋に命じてステッセルが将軍としての威厳を保てるように配慮している。

[※4] 清沢「暗黒日記」147ページに引用されている。清沢は、日本人が捕虜をあたかも罪人のように扱うと書いている。罪人に体罰を与えるのが普通であれば、捕虜もまた殴られることになる。



□55-56頁から

 日本人が東南アジアに作った政府は、よく「傀儡政権」と呼ばれた。これは各政府が無能な人物によって率いられ、その主な仕事は日本からの命令を実行に移すことにあるという意味だった。しかし、当の「傀儡」たちの名前を一瞥すれば、この命名がいかに見当違いなものであるかがわかる。日本が支援したビルマ、フィリピン、インドネシア各政府の首脳(それぞれバー・モウ、ホセ・ラウレル、スカルノ)は、いずれも傑出した人物で、日本の敗戦後も各国で高い地位を維持し続けた。スバス・チャンドラ・ボース(1897-1954)は自由インド仮政府首班を自任し、インド独立のために献身的に働き、しかも断じて日本の卑屈な追従者ではなかった。これらの指導者たちは、いかなる困難があろうとも、日本との協力によって自分たちの国の植民地支配を終わらせることができると考えていた。
 植民地支配からの解放は、独立を望む国々の首班たちにとっては大東亜の構想以上に魅力的だった。だから日本で開催された大会にも出席したし、誇張された言い回しで天皇に深い敬意を表すことも厭わなかった。日本が朝鮮、満州、台湾の国民に民族自決の自由を与えなかったことを、この指導者たちが知らないわけではなかった。しかし彼らが日本を指示したのは、大東亜共栄圏に属する国々に独立を与えるという約束を日本が本気で果たすと信じたからだった。岡倉天心の「東洋の理想」の有名な冒頭の一節「アジアは一つなり」が、「アジア人のためのアジア」といったスローガンと同じように繰り返し引用された。