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目次とメモを置いとく場

『トランスジェンダー問題――議論は正義のために』(Shon Faye[著] 高井ゆと里[訳] 明石書店 2022//2021)

原題:The Transgender Issue: An Argument for Justice (Penguin)
著者:Shon Faye(1988-) 弁護士。性的マイノリティにかかわる活動。
訳者:高井 ゆと里[たかい・ゆとり](1990-) 倫理学ハイデガー哲学、研究倫理)。
解説:清水 晶子[しみず・あきこ](1970-) フェミニズムクィア理論。
NDLC:EF91 社会・労働 >> 社会問題 >> 性問題
NDC:367.98 男性・女性問題 >> 性問題(性的マイノリティ、同性愛など)


https://www.akashi.co.jp/book/b612082.html


【目次】
献辞 [003]
目次 [004-005]
題辞 [006]
プロローグ [007-015]


イントロダクション 見られるが聞かれない 017
第1章 トランスの生は、いま 039
第2章 正しい身体、間違った身体 101
第3章 階級闘争 169
第4章 セックスワーク 197
第5章 国家 229
第6章 遠い親戚―― LGBTのT 275
第7章 醜い姉妹――フェミニズムの中のトランスたち 315
結論 変容〔トランスフォーム〕された未来 367


謝辞 [377-380]
解説 スーパー・グルーによる一点共闘――反ジェンダー運動とトランス排除[清水晶子] [381-389]
訳者解題 日本で『トランスジェンダー問題』を読むために[高井ゆと里] [391-416]
訳者あとがき[高井ゆと里] [417-421]
原注 [423-431]
略歴 [432]






【メモランダム】
・英語版Wikipediaには、すでに本書についての記事が成っている。
The Transgender Issue - Wikipedia


・構成についての個人的な要望。ひとつの章がとても長く論点も多いので、著者には(または編集・訳者には)区切りを設けてほしかった。ただ、「訳者解題」を先に読んでおけば苦労は減るかもしれない。


・「解説」は、既に詳しい読者層に向けて書かれたようで、日本の時事的な事柄と本書の第7章の内容にフォーカスしている。


・本筋には関係ないが、編集者&訳者は「訳者あとがき」でTwitter投稿を引用するさいにきちんとURLを明示している。しかしそのさいに、末尾に何かのパラメータを付加したURLを印刷しているが、それがどんな意図かによるものなのかは私には推し量れない。





【抜き書き】


■ 「プロローグ」(7-15頁)から断片的に抜き書き。ちなみに、本書の「プロローグ」と「イントロダクション」だけで分量が25,000文字を超えている。


・冒頭。

 トランスジェンダーが解放されれば、私たちの社会の全ての人の生がより良いものとなるだろう。私は「解放」という言葉を使うが、それは「トランスの権利」や「トランスの平等」といった慎ましやかな目標では十分でないと考えているからである。依然として資本主義的であり、家父長制的であり続けている世界。そして、その世界を生きる人々を搾取し、格下げしている世界。そんな世界の中で平等な存在になることなど、トランスたちは望むべきではない。むしろ、私たちは正義を求めるべきなのだ。私たち自身のための正義。そして、私たちとよく似た他者たちのための正義を。
 トランスたちは、1世紀以上ものあいだ不正義に耐え続けてきた。私たちは差別され、病理化され、迫害され続けてきた。私たちの完全な解放が実現するのは、いま私たちが生きている社会からは完全に変容を遂げた社会を、私たちがイメージできるようになるときだけである。現在の社会がまさにそうであるように、トランスたちの生はしばしば社会によって意味もなく困難にさせられている。この本でまず取り組むのは、それがどのようになされているのかを説明することである。しかし、これらの問題への解決を与えるにあたり、本書はただトランスの人々のことだけを考える、という制約に閉じこもることをしない。この本はまた、日常的に力を削がれ、持てるものを奪われている全ての人をその内に包摂する。



・「文化戦争」。本書のタイトルは、ここ(ずれたトランスジェンダー論争)を意図的にもじったものらしい。

 社会的な規範に対してトランスたちの存在から提起される、その潜在的な脅威を中和するために、上位層の人々〔スタブリッシュメント〕はいつもトランスたちの自由を制約し、抑え込もうとしてきた。そうした試みは、21世紀英国では私たちの政治的ニーズを軽んじ、それを文化戦争の「問題」へと転化することで幅広く成し遂げられている。その典型として、トランスたちは「トランスジェンダー問題」としてひとくくりにされる。これはトランスたちの生の複雑さを捨て去り、抹消するものであり、また様々な社会的不安を抱かせるにたる一群のステレオタイプへとトランスたちの生を還元するものである。概してトランスジェンダー問題は、テレビ番組や新聞のオピニオン欄、そして大学の哲学科で(たいていその人たち自身はトランスではない人々によって)お喋りされるための、「中毒性のある論争」や「難しい問題」と見なされている。現実のトランスたちが、そこで目を向けられることは滅多にない。この本は、「トランスジェンダー問題」という言葉〔フレーズ〕を意図的に、そして意識的に奪い返す。それは、今日トランスの人々が直面している諸問題のリアリティを大まかに示すためであり、そうした問題に直面してはいない人々によってその問題が想像されるのとは違った仕方で、それを示すためである。


・本書の構成と各章の概要(黒字強調は引用者によるもの)。

この本のイントロダクションでは、英国のトランスたちをめぐる会話が、メディアによって歪められ、誤って伝えられてきたありさまに目を向ける。第1章は、トランスの日常生活や家族関係、教育、住まい、そして子ども時代から老年期までの幅広い調査の成果である。第2章はトランスの抑圧の最も特徴的な領域の1つへと話を進める。そこで吟味するのは、身体的自律性の否定とヘルスケアについてである。
〔……〕リベラルな人たちはトランスの平等を個人の自由の問題として議論する傾向にある。しかし、トランスたちは仕事を探すにあたって、また仕事が見つかったとしても仕事場において、どちらにせよ絶えず差別を受ける。そのため第3章では、より広いこうした階級闘争の中にトランスの権利や平等を位置づけ、雇用市場におけるトランスの経験を検討することにしたい。世界的に、セックスワークはトランスたちが生活の糧を得るための最も一般的な手段の1つであり続けている。そこで第4章では、トランスのセックスワーカーたちによる政治的な闘いに焦点を当てる。
 トランスの人々に対する差別と暴力は、人間の間の暴力とは限らない〔……〕警察権力の行使や、刑務所、移民拘留施設などを通じた国家による法的権力の独占であり、そしてその結果として、プライバシーと尊厳をもってトランスたちが公的空間を自由に移動することを制限する、そうした権力のことである。これらの国家暴力について、第5章では論じる。
 抑圧と暴力からの自由を求めるこうした闘いにあって、トランスたちはしばしば、その他の周縁化された人々と共に闘うことになる。しかし、トランスたちがレズビアンやゲイ男性、バイセクシュアルの人々、そしてフェミニスト運動と結んできた関係は、歴史的にも、そして私たちの生きる現代においても大きな論争の的である。21世紀になってジェンダーの多様性がより広く認知されるようになったことで、人間のセクシュアリティスペクトラムがそれまで考えられていたよりももっと複雑で、固定的なものでないという事実がより広く認識されるようになった。しかし、それによって困惑する人がいるのはあり得ることであり、また実際に困惑している人もいる。こうした動揺を、保守派や宗教団体が都合よく利用している。内部での対立を煽ることでLGBTQ+の力を削ぐことが、その目的である。同じように、女性の抑圧と闘うという共通の闘いは、あまりにも頻繁に、「女性」のカテゴリーにはそもそも誰が含まれるべきなのかという懸念によって、ぬかるみにはまることがある。しかし、私はこの本の最終章で、トランスの解放の中心的な要求はゲイライツやフェミニズムと手を取り合うものであり、それらにとっての脅威ではないというだけでなく、トランスの解放はむしろそれらの運動の目標と同義であると論じる。


・術語についての但し書きの一部。

 トランスの人々について書くときには、「トランス」それ自体が何を意味するかを説明するのがいまだに慣例になっている。このことは、それ自体で示唆的である〔……〕。一般に、トランスの用語法にはいくつかの側面があり、このトピックに新しく触れた人々を混乱させることがよくある。ある側面として、トランスのポリティクスでは簡便のためにアンブレラタームが用いられる。アンブレラタームを使うとは、非常に異なる経験やアイデンティティを幅広く収めるために、1つの言葉を用いるということである。もう1つの側面として、言葉遣いが非常に速い速度で進化するため、ほんの5年前には広く用いられていた専門用語すらも、すぐに用済みになることがある。言葉遣いの流行や社会の変化によって、あるいは単に言葉遣いに変化をもたらす新しい視点が発展することによって、用済みになってしまうのである。トランスの運動やポリティクス、そしてアイデンティティにまつわる現代の特別な言葉の多くは、インターネットに起源を持つ〔……〕。本書では、私自身の言葉遣いを可能な限りクリアにするよう試みた〔……〕。この本を通して、私が「トランスの人々」〔trans people〕という言葉を使うとき、私が話しているのは、特別な限定がない限り、トランス男性、トランス女性、そしてノンバイナリーの人々全てである〔……〕。例えば第6章など、場合によっては「LGBT」コミュニティに言及することもあるが、そうした言及をする理由は、私の情報源がそのような言葉を使っているか、あるいは私が引用している研究や私が議論している組織が、初めの4つの頭文字だけに対象を限定しているからである。




■「イントロダクション」(17-38頁)から。
ここは出版社が公開している。
イントロダクション 見られるが聞かれない | トランスジェンダー問題――議論は正義のために | webあかし

トランスの人々は、一般集団よりも高い割合で自殺を試みる傾向にある。実際、統計は強く警告を発している。UKの慈善団体ストーンウォールが2017年に公表した調査によれば、若いトランスの45%が、少なくとも一度は自殺を試みたことがある。しかし統計の背後には一人ひとりの個人がいる。一人ひとり、私生活で苦しみ、難しい人間生活を送っているトランスがいる。こうした悲劇を説明するためのたった1つのシンプルな説明など、ありはしない。


・表象が変化した。

 2010年代の終わりには、トランスの人々は真っ赤な題字のタブロイド紙のページに登場する、一時期流行〔はやり〕のフリークショー[訳注:原語は 「freak show」。奇異な外見を持つとされる、障害者や有色の人々、また動物などを展覧することで集客する見世物小屋のこと。障害者差別や人種差別の歴史とも深く結びついたこのフリークショーを、フェイがトランスたちの扱われ方に言及する文脈で引き合いに出しているのである。]ではなくなっていた。むしろ私たちは、ほとんど全ての主要な日刊新聞の見出しに毎日のように現れるようになった。私たちはもはや、馬鹿げているとはいえ害のない、「性転換」した田舎の機械工としては描かれなくなった。いまや私たちは、社会制度を手中に収め、公共生活を支配する、新規で強力な「イデオロギー」の推進者として描写されるようになった。私たちはもはやからかいの対象ではなくなり、恐怖されるべきものになった。


・英国におけるトランスジェンダーをめぐる加熱した各種談義は、役立っていないと。

 2019年のUK総選挙の運動の間、自由民主党[訳注:UKにある「自由民主党」 (Liberal Democrats) のことであり、日本の政党(自民党)のことではない。]の党首ジョー・スウィンソンは、彼女のトランス問題に対する進歩的な立場について、繰り返しメディアで異議申し立てを受けた。こうした問いかけは、それに続く2020年の労働党の党首選への下地を作った。党首選の全ての候補者が、トランスの権利について尋ねられたのである。トランスの人々は突如として、誰もがそれについて意見を持っていなければならない問題となった。男性や女性であるとはどのような意味か?〔……〕ジェンダーの境界を越える人々は、腕を広げて受け入れるべき存在なのか、それとも恐怖の対象なのか?
 こうして英国は、周囲の音をかき消すほど大音量で行われる、トランスたちをめぐる談義〔おしゃべり〕に没頭する国となった。しかしまたもう1つ疑い得ないことは、私たちが続けてきた、そして現在も続けているそうした談義〔おしゃべり〕が、誤った談義〔おしゃべり〕だということである。ラジオにせよテレビにせよ、あるいは活字においても、決まっていつも依頼されるのは、トランスたちの権利と自由を代表して、私が議論をすることである。私は、ほぼ必ずいつも、そうした誘いは断っている〔……〕。こうした荒廃したヘルスケアシステムに直面しているために、どのようなプラットフォームや回路であるにせよ、トランスの人々はメディアにこれらの問題を取り上げさせるよう試みてきた。しかし、無駄に終わった。その代わり私たちは、テレビのディベート番組に招待される。そこでの議題は、トランスたちが公衆トイレを使うことは許されるか否か、というものだ。トランスの人々は〔……〕話の論点や概念の問題へと還元される。そこに「問題」がある限り、それは永遠に議論され、ディベートされるべきものなのである〔……〕。メディアがトランス問題を論じようとするとき、そこでメディアは、私たちと一緒にかれらの問題を論じたいのであり、私たちが直面している困難について論じたいわけではないのである。


・運動が逆用されたことがあるという指摘。
 3文目から登場する「可視性の政治」は、少しくだいて「トランスの人々が存在することを一般に向けて可視化するための、戦略または社会運動」くらいの意味(のはず)。「表象」もこの運動に限定した意味。
 なお引用者は、中盤にある下線部の文章の意味がうまくとれなかった。

2010年代には、トランスコミュニティの多くの運動家や活動家は〔……〕この理解が、よりよい表象や「可視性の政治」によって訪れるだろうという希望を抱いていた。文化や芸術の中にいる、一握りの選ばれしトランスたちの存在が、より多くの可視性をメディアの中で獲得すれば、そうした人たちの存在によってトランスたち全体がもっと身近なものになり、結果としてスティグマや誤解も減るかもしれない。そう考えたのである。USにおいて、トランスの可視性の政治のマイルストーンは2014年5月の『タイム』の表紙と共に訪れた。 特集の表紙はラヴァーン・コックス〔……〕。コックスはトランスたちにとっての力強い擁護者となった。あの彼女の表紙と、2010年代半ばの同様の表象を取り巻く風潮のおかげで、多くのトランスたちが公的な場面でカムアウトし、オープンでいることをより歓迎されていると感じた(そこには私自身も含まれている)〔……〕。トランプ政権は、アメリカのトランスたちが市民権とヘルスケアのアクセスの面で獲得してきた進歩を巻き戻すための、一連の反トランス的な立法措置を導入した。人種や社会階級、あるいは薬物やセックスワークなどの犯罪化された経済活動に参加しているという理由で州から「罪がある」と見なされる、ある種のトランスコミュニティにとっては特に、可視性と監視の増大とは非常に相性がよい。そのため、そうしたコミュニティにとって、より広く社会から見られることは、可能性としては解放的であるよりむしろ有害である。可視性の政治は、USのトランスコミュニティを助けることに完全に失敗したわけではない。しかし、それが(雑誌の表紙を飾ることなど永遠にない)大多数のトランスたちの生を向上させることに成功したというのは、ずいぶんと誇張された言い方である。



・著者曰く、マスメディアでの可視化(戦略)が奏功するかは属人的だった。

 2010年代中盤から後半にかけての英国でも、事情は同じだった。トランスたちは、ある程度までは一般の文化のなかで可視的になり始めた。「イーストエンダーズ」 〔EastEnders〕 や 「エマーデイル」〔Emmerdale〕のような国民的人気を誇るメロドラマに、トランスの俳優がトランス役として起用された〔……〕。他の多くの人もそうであるように、テレビのプロデューサーや新聞の編集者、そして「普通の」トランスたちを交えて、対立的な議論とは違った集まりを企画する「トランスの全て」 〔All About Trans〕 のような新しい組織に、私も自発的にかかわっていた。これらはいくらかのポジティブな利益を生みはしたが、その成功はメディア組織の中の特定の個人の善意に大いに依存しており、また「きちんとした印象」を与えることのできる、「きちんとした種類の」トランスに依存していた。(なんであれ)きちんとした見た目で、きちんとした仕方で話したり振る舞ったりすることが必要なのである。

・(直前の引用箇所から連続する部分)
 従来のメディアには出ないがSNSで異議申し立てを行う活動的なマイノリティと、それに対し反発する人々、という図式が生じた。
 著者曰く、ソーシャルメディアでの可視化も全面的な成功には繋がらなかった、と。

 伝統的なメディアの内部でよりよい表象を獲得するための、組織化され、慎重に練られたこうした取り組みに、ソーシャルメディア・ネットワークの爆発的な普及が併行した。これにより、トランス同士で会話できる範囲は拡がり、自分自身の意見を持ち、自分たちをオンラインで政治的に組織化できるトランスが増えた〔……〕。突如として、Twitterのようなプラットフォームが、トランスたちに反論へのアクセスを与え、また足かせを解き放たれたような反論の権利をもたらした〔……〕。いまや、メディアのプラットフォームにかかわる人々が誤った情報を公にして、責任を問われないままでいることはできなくなった〔……〕。英国のご意見番には、この新しい説明責任に容易に順応した者もいれば、そうでない者もいた。メディアで働く35歳以下の私たちのほとんどにとっては、こんなことはとっくに知っていることだった。しかし、こうした世間からの異議申し立てに対して敵対的に反応する人もいた。そうした人々によって、ソーシャルメディアのプラットフォーム上で活動的なトランスの人々は「怒り狂った活動家」や「論争を黙らせようとしているモブ」、あるいはタイムズ紙がそう試みたように、単純に「いじめっ子」として非難されることになった。
 トランスの人々とその権利についての、ソーシャルメディアのプラットフォーム上でのますます分断の深まる議論は、メディアの怒りのサイクルにとって有益だった。2010年代の末には、この怒りのサイクルはクリック稼ぎの釣り文句、シェア、熱狂、切り抜きによるサウンドバイトなどによって経済的に駆動されていた〔……〕。目につきやすいトランスのソーシャルメディアユーザーは、オンライン環境では日常的ないじめとハラスメントに耐えることが求められる。主流のメディアにおいてそうであるように、オンラインでも、可視性のポリティクスはせいぜい限定的にしか成功しなかった。


・ここで著者の言う「再分配の正義」は、おそらくかなり広い範囲を指している。

 表象の面での不平等を軽減することに、可視性は役立った。しかし可視性それ自体は、再分配の正義とは無関係である。 再分配の正義は、より大きく、より複雑で、突き詰めればより重要性のある闘いである。その闘いの目的は、国家による暴力(警察からのハラスメントや刑務所への収容、強制送還など)や貧困、収奪などに抵抗する闘いの渦中にある、最も立場の弱いトランスのコミュニティのために資源を再配分することであり、そして、よりよい労働条件を獲得することである。



・ここでは、マイノリティ集団について語るときに、既に形成された「話題」にはまること自体を問題視している。
 他分野でも習いある挑戦だが。

 今日、かつてないほど多くのトランスの人々がますますカミングアウトしているにもかかわらず、表象の平等と真の再分配の政治はトランスたちの手からこぼれ落ちている。トランスの人々はいまや、例えばムスリムや移民、ジプシー、ロマ、トラヴェラーのコミュニティ〔……〕、そして国家による女性への暴力に対するフェミニストの異議申し立てと並んで、右翼メディアにとっての数ある標的の1つになってしまった。〔……〕標的となった集団は全て、異なる価値体系の間の、有害で分断された公的係争の問題へと還元され続けてきた。トランスたちを取り巻くここ数年間の議論は、ただ有害であるのみならず、決定的に平板化されたものになっている。トランスの「トピック」は、今では繰り返し使える手頃な話題に制限されてしまっている〔……〕。
 こうした話題をこの本で繰り返そうとは思わない。私は、閉じた円環をなすこの終わりのない論争にトランスの人々を無理やり参加させること自体が、トランスたちを抑圧したいと願う人々の戦略であると考えている。そうした論争は、時間の無駄で、疲弊させられるだけのもの、そして私たちが本当に注力すべきことから私たちの注意を逸らすものである。これが、私たちを抑圧するための具体的なやり方である。


・個人の告白と回想は前例が多いが必須ではないと著者は言う。もっとも。
 「個人体験の語りを捨てれば一般向けの訴求力は減ってゆくこと」と「著者の指摘する内容」の両方を、回想録を書いた先人もおそらく認識していただろうとは思う。

この本は回想録ではない。旅行ライターのジャン・モリスが彼女の性別移行についての回想録「なぞなぞ」〔Comundrum〕を出版したのは、1974年のことである。それ以来、英国そして世界中のトランスのライターたちは、告白録の公刊に自分たちの身を狭めてしまう傾向にあった。そうした告白録は、書き手の身体の話から始まる。その身体が位置づく社会について何ほとか意見を述べるためにも、書き手自身の身体が出発点とされるのである。トランスの回想録は、トランスたちが自分たち自身を理解する際のスティグマを減らし、また脱神話化するという意味で重要なものであり続けてきたが、そうして告白し、胸中を明かすことだけが、トランスの人々が公的言論や政治的言論に加わるための権利の基礎になるべきではない。この点で私たちは、分析よりも回想録に押し込められてきた、シスジェンダー女性のライターたちと共通点を持つ。



■第7章から。

・ここから社会運動の歴史についての知識が読者に要求される箇所(の冒頭)。

 フェミニスト理論を身に付けている読者たちは、トランスフェミニズムをこうして探求する中で、ジュディス・バトラーやジャック・ハルバシュタムではなく、たいてい私が第二波フェミニストの思考を引用してきたことに驚いたかもしれない(そうした第二波フェミニストの何人かは、ポルノグラフィやセックスワークの犯罪化に注力していたため、若いフェミニストたちの間では現在は論争的な人物となっている)。ジュディス・バトラーやジャック・ハルバシュタム、およびその他の人々による、フェミニズムクィア理論の仕事は、トランスたちの経験を擁護するためのもっと明白な出発点になるかもしれない。しかし、トランスフェミニズムが過去のフェミニスト理論からの新たな旅立ちであるという神話を崩すことが重要だと私は考えている[訳注13 本文の論旨がやや不明確だが、ここでフェイは、トランスフェミズムは「第二波」的なフェミニズムの伝統の中に着想の源を持ちうるものであり、それ以降のいわゆる「第三波」的な展開からトランスフェミニズムが生まれたというのは「神話」であると指摘している。もちろんこの神話には、「第二波」と「第三波」の間の非連続性という、微妙な誤解も含まれているだろう。]。


・第7章の終盤から。個人的には、「プロローグ」に置いておくとより本書が読みやすくなった文言だと思う。

 トランスたちの全員が、ジェンダーについてのラディカルな考えを持っているわけではない。たいていのトランスは、周囲のシスの人々と同じように、バイナリーで、還元的で、ステレオタイプ的で、反フェミニスト的な思想を持つことになり、それ以上でもそれ以下でもない。「トランスの人々は全員がジェンダーについてのラディカルな分析を持つべきだ」という要求は、一種のトランスフォビアになり得る。私たちは、シスの人々にはそのような基準を設けないからである。そうした要求はまた、ジェンダーについてのシスの主張を中立的でデフォルトのものとしてフレーム化したうえで、吟味と検証がなされなければならない新奇なイデオロギーの推進者としてトランスの人々をフレーム化してもいる。本人たちがフェミニストのポリティクスに身を投じるか否かによらず、トランスの人々には、社会的な尊厳と個人的な尊敬が与えられなければならない。