原題:Valuing Life: Humanizing the Regulatory State(2014)
著者:Cass R. Sunstein(1954-)
訳者:山形 浩生
装丁:宮川 和夫
件名:アメリカ合衆国--行政
件名:費用便益分析
NDLC:AU-311 政治・法律・行政 >> 各国の法律・行政 >> アメリカ合衆国 >> 行政・行政法
NDC:317.9 行政 >> 外国の中央行政
「ナッジ」で知られるハーバード大学の教授がホワイトハウスへ。情報規制問題局の局長として、規制に関する法律の実際の立法に関わる。政策採用の是非の基準や、その際の費用便益分析の用い方まで、その内実を明らかにする。
【目次】
献辞/コロフォン [/]
題辞 [i]
目次 [ii-iii]
はじめに――フランクリンの代数 001
第1章 政府の中 015
ルールのレビュー OIRAプロセス 022
基本
「ROCISにアップロード」
内部プロセス
外部会合
費用、便益、政治 050
費用と便益の役割は重要だが限られている
専門的な問題、政策的な問題、政治
分散した情報について
第2章 人間的な帰結、あるいは現実世界の費用便益分析 067
基本 070
死亡リスクの価値評価 073
幅の広さ 076
コベネフィットとリスク=リスクトレードオフ 079
定量化困難または不可能な便益 082
純便益 085
気候変動 086
割引率 087
見事な問題と制度的な制約 090
第3章 尊厳、金融崩壊など定量化不能なもの 093
問題、手法、謎 093
定量化担当者の三つの課題 097
情報不足 101
実務 105
謎 110
簡単な場合、むずかしい場合 111
上限と下限 112
定量化不能と金銭化不能 114
比較 115
知見の不足と条件つき正当化 116
ブレークイーブン分析にできること、できないこと 118
第4章 人命の価値その1 ――問題 121
支払い意志額――理論と実践 129
厚生と自律性 131
疑問、疑念 133
統計的リスクの価値 135
個人化 136
リスク 137
人々
理論と実践 150
第5章 人命の価値その2 ――解決策 157
楽なケース 160
厚生と自律性(再び) 160
VSLを分解する 163
楽なケースは実在するのか? 166
反対論 167
「欲求ミス」
情報や行動的な市場の失敗
権利
民主主義と市場
きわめて低い確率のカタストロフ的なリスク
第三者の影響
もっとむずかしいケース 181
構成と分配
最適課税と実行性
世界的リスク規制と国別の価値評価 188
インド人の命はアメリカ人の命より価値が低いのか。気候変動など
政策と実務 193
第6章 リスクの道徳性 195
通常のヒューリスティックス、確率、頑固なホムンクルス 197
ヒューリスティックスと道徳性 200
アジア病気問題と道徳的フレーミング 203
費用便益分析 207
裏切りと裏切りリスク 211
排出権取引 214
予防原則と損失回避 217
ルールと失敗 220
第7章 人々の恐怖 223
確率無視――理論と実践 226
電気ショック 228
がん 230
恐怖、怒り、確率 232
制約と異質性 236
法律への要求を動かすのは何か? 237
どうすればいいのか? 241
鮮明さと確率 245
おわりに――規制国家を人間化する4つの方法 247
謝辞 [251-253]
訳者あとがき(二〇一七年一一月 東京にて 山形浩生) [255-270]
1.はじめに
2.著者について
3.本書の特徴――『シンプルな政府』との関係
4.本書の議論の骨子
1 費用便益分析とは何か?
2 行動経済学的な視点
3 アメリカの規制行政の内実
5.規制行政の現実とは
6.おわりに
補遺E:死亡と病気の価値 [lxi-lxii]
補遺D:ブレークイーブン分析の主要事例 [lvii-lx]
補遺C:主要連邦規制の推定便益と費用 [l-lvi]
補遺B:炭素の社会的費用 [xlvii-xlix]
補遺A:大統領命令 13563、2011年1月18日 [xliii-xlvi]
注 [v-xlii]
索引 [i-iii]
【抜き書き】
■題辞から。
費用と便益の世界(これは悪質な行動や、自由と権利の侵害がどんなにひどいものかを認識するというのも含む)は、結果とは無関係な義務や責務が持つ、傍若無人な理由付けとはかなりちがった意志決定の宇宙となる。
―――アマルティア・セン
The Discipline of Cost-Benefit Analysis, in Rationality and Freedom 553, 561 (2002). (「費用便益分析」、『合理性と自由(下)』勁草書房、2014年)
合理的経済秩序の問題が持つ奇妙な特性は、まさに我々が活用しなければならない状況に関する知識が集約されまとまった形では決して存在せず、むしろ様々な別個の個人が保有する、不完全でしばしば矛盾する知識の、分散したかけらとしてしか存在しないという事実からきている。(中略)あるいは、手短に言うと、それはだれにも完全な形では与えられていない知識を活用するという問題なのだ。
―――フリードリッヒ・ハイエク
The Uses of Knowledge in Society, 35 Am. Econ. Rev. 519, 519 (1945). (「社会における知識の利用」『市場・知識・自由』ミネルヴァ書房、1986年)
■「はじめに」(pp. 1-3)から。
政府は、自分たちの行動が持つ人間的な影響に注目すべきだ。その意志決定が環境保護についてだろうと、職場の安全、喫煙、外国援助、移民、銃規制、肥満、教育、移民、他国への軍事介入についてだろうと、政府はこう考えるべきだ:その行動をしたり、しなかったりすることによる影響はどんなものだろう? 人命が救われるというなら、何人くらい? 人々に負担がかかるなら、どの程度の負担で、それはどんな影響を持つのか? そして、ズバリだれが支援され、だれが被害を受けるだろう?
こうした問題に答えるには、政府の視野は狭いものではダメで、広くなければならない。筋の通った比較をして、定量化が困難だったり不可能だったり、比較できなかったりする価値の間での選択を可能にする手法を探すべきだ。そしてその際には、政府は役人たちの知識だけに頼るのではなく、市民たちの知識も活用すべきだ。
一七七二年にベンジャミン・フランクリンは、むずかしい選択に直面した知り合いに向けて、啓発的な手紙を書いた。こうしたむずかしい話が持ち上がるとき、それらがむずかしいのは、それを検討しているときに、それを支持するすべての理由と否定するすべての理由とが同時に頭には浮かばないからだ。むしろ、ある理由の集合が頭に浮かぶこともあり、そして別の時には別の集合が頭に浮かんで、最初のものは頭から消えてしまう。だからこそ、かわるがわる各種の判断に傾いてしまうし、その不確実性で私たちは困惑してしまう。これを克服するにあたり、私のやり方は、紙を直線で二つの列に半分づつ分割し、片方には肯定論、もう片方には反対論を書くことだ。そして三、四日にわたる検討期間中、別の見出しの下に、その時々に応じて思いつく、その手法を肯定したり否定したりする議論についてのちょっとした記述を書き留めておく。
こうしたものをすべて一望に収めたら、私はそのそれぞれの重みを推定しようとする。そして同じ重みだと思われる二つを線の両側に見つけたら、その両方を線で消す。肯定論の一つが、否定論二つと同じくらいの重みと思ったら、その三つを消す。否定論二つが肯定論三つと同じ重みなら、その五つを消す。そしてさらに検討を重ねて数日たって、どちらの側にも重要なものが新しく何も浮かんでこなければ、それで私は決断に到達する。そして理性の重みは代数的な量の精度は持ち得ないにしても、それぞれがこのように別々に検討され、比較され、その全体が目前にあると、もっとよい判断ができると思うし、性急な一歩を踏み出す可能性も低くなる。そして実際、私は、いわば道徳的、分別的な代数におけるこの種の等式から大いに利益を得ているのだ。この道徳的、分別的な代数を使い、フランクリンは広い変数を捕らえ、そのどれも見落とされたり無視されたりしないよう務めた。この点で、フランクリンは費用便益分析の初期の実践者だ――これは、各種行動について便益と費用を一覧にして、それを相互に比較し、便益が費用を正当化するような形で先に進む方法を考える手法だ。もちろん、フランクリンは定性的な差も無視しなかった。かれは「代数的な量の精度」での選択はできないと考えた。それでも、関連する配慮のすべてを見つけようとして、競合する変数が相殺しあい比較可能になるかを考える必要があると強調している。
■「はじめに」(pp. 6-7)から。注釈は末尾に。
何らかの政治的代数というのは魅力的ながら、多くの理性的な人々は費用便益分析に激しい不快感を示す(※3)。その不快感は、学術界でも政府でも見られたし、真面目で正当な問題を提起するものでもある。大気汚染、プライバシー、不注意運転、危険な鉱山、障害や性的嗜好に基づく差別を考えよう。こうした問題に対応した規制の便益をどうやって金銭換算しようか? 車いすの人をトイレにアクセスしやくする経済的価値はいくら? そうした費用が本当にその費用を負担できる人々に課された場合はどうで、便益がそれを本当に必要とする人々、それがなければ生活できないかもしれない人々にまわる場合はどうなのか?
公職についていたとき、私は「費用便益分析の人間化」についていろいろ語ってきた。この用語で、私は四つの関連しあう発想を指すつもりだった。一つは、起こりそうな結果を考慮する必要性だ――これは費用便益分析を私が熱心に勧める理由を説明する点となる(※4)。二番目は、費用便益分析が捕らえるのに苦労するものにスポットライトを当てることで、そこには人間の尊厳も含まれる。人間化された費用便益分析は、定量化できないものを無視したりはしないのだ。第三の発想は、本物の人間とホモ・エコノミカス(標準的な経済分析に使われる合理的なアクター)とのちがいに関するものだ。何十年にもわたり、心理学者や行動経済学者たちはこのちがいを強調して、人間というのは標準的な経済学者たちが認めてきたよりも利己性が低く、まちがいを犯しやすいのだと示唆してきた。人間化された費用便益分析は、政治や規制が本物の人間に与える影響を検討する。最後に四つ目の発想としては、国の市民たちが保有する散り散りの情報を集める必要性についてのものだ。規制当局は通常はいろいろ知ってはいるけれど、でも市民たちよりはずっと無知なことが多い。規制を固める前に、世間のコメントを集め、奉仕させてもらっている人々から学ぶことが必要だ。※3 ことさら示唆的な議論が Matthew D. Adler, Well-Being and Fair Distribution: Beyond Cost-Benefit Analysis, 92-114 (2011)にある。
※4 もちろんこうした帰結に対応する方法はいくつもある。費用便益分析はそうした手法の一つでしかない。上記論文を参照。私は現時点では、費用便益分析が、比較的実施が容易という利点を持つと思うけれど、各種の代替案や、帰結主義の内部から出てくる批判は慎重に検討する余地がある。
■二重過程モデルの話(pp. 241-243)から。
どうすればいいのか?
低確率リスクの議論をすると、その議論の大半がそうしたリスクを心配する必要はないとなだめるものであった場合でも、社会的懸念を高める傾向があると述べた。一部の場合、低確率リスクへの恐怖を減らす最も有効な方法は、別の話題に話をそらせて、ほとぼりが冷めるのを待つことだ。もちろんメディアの注目でこの手口が効かないこともある。
規制政策について言えば、制度的な安全策こそが確率無視の有害な結果から社会を守る最高の方法かもしれない。費用便益分析を全般的に要求することで、客観的事実に基づかない規制に対するチェックがかけられるはずだ――そして社会の求めそうにない予防措置に対する抑えにもなる。政府として過大な反応を避けたければ、分析要件と制度的な抑えが出発点となる(第1章と2章を参照)。こうした要件や抑えは、システム1の活動に対するシステム2の抑えのようなものと見ることも十分にできる。システム1とシステム2の関係を示す、驚くべき(そして深遠な)実証を考えよう。行動経済学者が突き止めた最も重要な認知錯誤の一部は、人々が外国語を使うと消えてしまうのだ。母語でない言語で問題を解決するように言われると、人々がへまをする可能性は下がる。慣れない言語だと、正解を出す確率が高まる。どうしてそんなことになるのだろうか?
答はストレートなものだ。人々が母語を使っていると、素早く楽に考えられるから、システム1が優位に立つ。外国語を使っていると、システム1がいささか圧倒されてしまい、システム2が大幅に後押しされることになる。十分に馴染みのない 言語を使っていると、即座の直感的な反応が遅くなり、計算をして熟慮する可能性が高まる――それが正解につながる。外国語だと、人は直感から距離を置くことになり、その距離がかれらの立場を改善する。外国語をしゃべるときに確率無視がなくなるという証拠はない。でもそういう結果が出ても意外ではないだろう。
ここには、費用便益の慎重な検討を求める政策や規制へのアプローチの重要性について、大きな教訓がある。こうしたアプローチは(厳密な意味では)外国語を使わない。でも人々の当初の判断からある程度の距離を確保するものとなり、システム1にともなうまちがいを制約する。つまり見たところ、結果や確率を計測する分析的な抑えは、安全策として不可欠だ。この文脈での定量化には深刻な課題があるのは見てきた(第3章参照)。それでも、それこそが出発点なのだ。