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『移民が移民を考える――半田知雄と日系ブラジル社会の歴史叙述』(Felipe Motta 大阪大学出版会 2022)

著者:Soares Motta, Felipe Augusto[ソアレス・モッタ,フェリッペ・アウグスト](1985–) 日系ブラジル移民史。
装丁・組版松本 久木[まつもと・ひさき] 有限会社松本工房
カバー写真:半田 知雄[はんだ・ともお](1906–1996)、1982年頃、自宅の工房にて。
カバー写真撮影:新正 卓[あらまさ・たく](1936–) 写真家。
件名:半田 知雄 1906–1996
件名:移民・植民 (日本)--ブラジル--歴史
NDLC:DC812
NDC:334.462 人口.土地.資源


https://www.osaka-up.or.jp/book.php?isbn=978-4-87259-759-2


【目次】
目次 [003–005]
凡例 [006]


序章 半田知雄研究から日系ブラジル社会の思想史への展開
第一節 本書の課題――日系ブラジル移民の歴史における半田知雄 008
第二節 半田知雄とは誰か 011
第三節 本書の視座と先行研究 027
第四節 依拠する史料と方法 038
第五節 本書の構成 039
註 042


第一章 内側から移民を考える――移民知識人と日系ブラジル社会の歴史の叙述
小序 048
第一節 日系ブラジル社会と知的営為――「土曜会」を中心に 049
  (1) 「移民知識人」に光を当てて
  (2) 怒涛の中の組織化――『文化』の趣旨と特徴
  (3) 『時代』から『研究レポート』へ――啓蒙・科学・自立
第二節 生活としての歴史――『移民の生活の歴史』の世界 076
  (1) 『移民の生活の歴史』の位置づけ
  (2) 内側から日系社会を論じる――日系ブラジル移民史と『移民の生活の歴史』
  (3) 「生活史」としての叙述法
小括 092
註 094


第二章 歴史叙述と物語の復権――少年時代をめぐる記述と表象
小序 100
第一節 当事者としての移民史 101
  (1) 生活空間としての「ファゼンダ」
  (2) エゴ・ドキュメントの多様性――「半田日記」の場合
  (3) 初期移民の記憶と移民史料館の創設
第二節 トポスとしての少年期 109
  (1) 三つの記述
  (2) 物語の復権としての最終稿――「自分史」の奪還
  (3) 再構築されてゆく物語
小括 119
註 120


第三章 描画される記憶――移民絵画論
小序 122
第一節 「絵かき」としての自己意識 122
  (1) 半田知雄、ピントール
  (2) 日本人画家としての評価
第二節 移民絵画論 131
  (1) 移民とブラジルを描いて――半田知雄の唯一の『画文集』を中心に
  (2) 見て描く――旅と写生について
  (3) 〈移民絵画〉――作品分析
  作品1~19 [145-160]
小括 164
註 167


第四章 「戦争」の経験と記憶・残滓・歴史
小序 170
第一節 「移民の悩み」とは何であったか 170
  (1) 国家主義同化政策と移民の悩みの原点――新国家体制を中心に
  (2) 移民心理と「帰国願望」
  (3) 勝負〔かちまけ〕抗争の記憶と歴史
第二節 戦争の想いを抱えて――日系ブラジル社会と「戦後」の問題領域 186
  (1) 正史から零れ落ちた経験
  (2) 省略された経験、そして文学
  (3) 引き摺られる想い
小括 204
註 205


第五章 対抗する思想――文化伝承・言語・移民心理
小序 210
第一節 移住の意義を問いて――文化伝承の問題① 210
  (1) 半田知雄の思想的系統
  (2) コロニア痛恨の課題――第二世代はどうなるか
  (3) 伝承の在り方――史的変遷
第二節 日本語を抱えて終わりなき旅に出る――文化伝承の問題② 236
  (1) 変化する言葉、変遷する教育――ブラジルにおける日本語
  (2) 理解してもらえない存在として――旅路の心理
小括 250
註 251


おわりに 新しい移民知識人研究に向けて 253
半田知雄と歩んで10年 254
むすびにかえて 260
註 263


参考文献 [264–278]
  洋文
  和文
  定期刊行物
半田知雄年表 [279–285]
謝辞(二〇二二年四月二一日・京都府にて Felipe Augusto Soares Motta) [286–288]
初出一覧 [289]
本書掲載作品リスト [290]
付録 I:『文化』収録コンテンツ一覧 [291–300]
付録II:『時代』収録コンテンツ一覧 [301–306]
付録III:『研究レポート』収録コンテンツ一覧 [307–310]
付録IV:ブラジル日本移民史料館所蔵の半田知雄絵画作品 [311–313]
索引 [314–317]



【メモランダム】
・「日本の古本屋」のメールマガジン記事(「大学出版へのいざない」)が公開されている。
https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=11345




【抜き書き】


・「移民」の指示範囲について、序章第一節から抜き書きした。注2の中の「オフィシャル・ディスコース」という語も珍しいので、さらに註釈をつけてもよかったと思う。

一般的に移民は故郷を後にし、他郷または他国に移る人びとのことと定義されるが、この用語が帯びる意味合いは辞書だけの定義で捨象できない側面がある。たとえば、「移民」を単なる移動する人びとと仮に想定して〔……〕大航海時代およびそれにともなったアメリカ大陸の「発見」を取り上げよう〔……〕。スペインとポルトガルの植民地に流れたイベリア半島の人びと、カリブ海の島々に居住したフランス人〔……〕、そして中南米の糖業プランテーションアメリカ南部の綿畑へ強制連行された黒人奴隷も「旧世界」から「新世界」へと移った人びとである。しかし、我々は通常、これらの人びとを「移民」とは呼んでいない。彼ら/彼女たち[注1]は称えられる「先駆者」または「開拓者」であり、不遇に「奴隷」であり、時には「流刑囚」でさえあるが、彼らの越境形態に「移民」という用語が充てられることは稀である〔……〕。
 その問いの根底に、我々は「移民」という歴史的事象をどのように解釈しているかという問題性が潜んでいる。「移民」には一九世紀以降に国民国家として出来上がった近代国家、そして国民国家同士による国際関係と外交、中央集権国家による斡旋また管理、そして何よりも移動を規定する仕組みおよび政策が背景にあることが求められているからではないだろうか。その意味において、「移民」とは非常に特殊な越境の形態である上に、その時間的範囲も限られている〔……〕。
 なお、日本において「移民」という用語は独特な臭いを持っているようである。現に、外国人労働者の受け入れの可否や、難民問題、日本社会におけるマイノリティーなどの移住政策が議論される時ももちろんのこと、在日コリアンや華僑「オールドカマー」の議論にも「移民」という語は少なくとも行政用語としては出てこない。そう考えると、「移民」が指す歴史的事象の社会的・政治的範囲が如何に限定されていることがわかり、自称・他称としてのその重みが感じられる[注2]。

[注1] 本書において「移民」とは男性のみを指すものではないが、移民史における女性の姿はとらえにくく、史料的な制約があることを念頭に置かなければならない。本書の中心的な人物である半田知雄もそうだが、移民史の主要な叙述者たる移民知識人のほとんどは男性であり、移民史が男性中心的な視座から叙述されて来たことは否めない事実である。ジェンダーと移動、移民史における女性の歴史は、日系ブラジル移民研究がこれからもっと注意すべき問題である。煩雑を避けるため、本書で移民・移住者(複数形)を指す場合はこれ以降「彼ら」に統一するが、この点に注意を喚起するためここで特記する。

[注2] 「移民」の訳語として英語で「migrant」、ポルトガル語で「migrante」が一般的に採用されるが、外国語におけるそれらの用語の歴史性と近現代における「移民」の歴史性が必ずしも合致しないことは言うまでもない。日本語にも英語のemigrant に「出移民」(ポ語:emigrante)、imiigrant に「入移民」(ポ語:imigrante)という訳語が一般的に充てられる。戦前日本においても大日本帝国の勢力圏および非勢力圏に送られた人びとを指す場合、オフィシャル・ディスコースでも言論界でも「移民」または「殖民」(植民)・「開拓」などの用語の使用に対す多様性があり(たとえば、「満洲移民」)、その使い分けをめぐり精査が必要であり、日本語における「移民」という用語の使用をめぐるより厳密な言語学的な調査も必要であろう。

・本書の構成が示された序章第5節。

本書の構成は時系列に沿って半田の歩みと共に展開されるのではなく、半田の複数の側面を五つの章にわたって迫ってゆく。それぞれの章は〔……〕「移民」という問題に挑もうとする移民知識人たちへの関心によって結ばれている。
 第一章において、本書の主要な存在である移民知識人の存在と活動をフォーカスし、戦前と戦後を代表する機関誌『文化』、『時代』と『研究レポート』を扱う。また、戦前と戦後の言論空間の延長線上に刊行される移民総合史の試行である『移民の生活の歴史』の執筆と構成、または「生活史」としてのその特徴を分析する。 日系社会の歴史の叙述は、移民知識人グループを中心に有機的かつ組織的に営まれるプロセスであり、〔……〕議論はその時代背景のみならず、「移民」という歴史的事象に対する理解をも踏襲している。その有様を観察し、日系ブラジル社会の知識人グループがどのように「移民」という課題に向き合って来たかを見つめる。
 第二章において私(個人史)と公(集団史)が交差し、相互に影響する動きに注目する。 移民研究におけるエゴ・ドキュメント論の可能性を図りながら、「個人」の再発見と言語論的転回後の物語としての歴史叙述に依拠して、半田知雄が生涯にわたって繰り返して記した少年時代の記憶の再編成と再解釈のプロセスを追う。一個人である半田知雄の記憶は、歴史化される過程を経て初期日本移民の代表的な表象として捨象される。その個人的な経験が一旦最大公約数的に拡張され利用されてから、最終的なリライトを通じて独特でプライベートな物語として再編成される事態を分析し、歴史叙述における行為主体性の問題を論じる。
 第三章において画家としての半田の芸術意識に注目する。ピントール(ポ語: pintor、「画家」)としての半田の揺るがない自己意識を見出し、聖美会という「場」とそこにおける半田の活動を俯瞰した後、初期移民の生活空間としての珈琲農園=ファゼンダに注目する〔……〕。この作品群を、「移民絵画」という概念を起用して、収録されている作品の分析を試みる。
 第四章では第二次世界大戦の記憶と歴史に目を向ける。一九三〇年代から台頭するブラジル的国家主義と移民が強いられる同化過程とそれに対する反発、それから日本的軍国主義帝国主義によって醸し出される反日感情が相まって、日本移民の行動を制限する法律が次々と発布される。この空間を生きた移民たちは、敵性国民として戦中を過ごし、敗戦の報を受ける。敗戦の事実をめぐる受容の姿勢は日系社会を二分化し、いわゆる「勝負抗争」に展開される。
 半田知雄は、移民の戦争経験を国家主義の台頭から勝負抗争の終息とその痕跡までを視野に入れて「移民の悩み」と題して論じている。「戦後」において日系社会の歴史が叙述される時、勝負抗争と戦争の記憶は不可避の課題であるが、日系社会の歴史=正史がそれをどのように表象するかを疑問視した半田は、戦争に対する移民が抱く複雑な気持ちを汲み取る重要性を説いた。移民が詠んだ短詩型作品を援用し、移民史における「戦争」の意味合いを論じる。
 第五章において、「対抗する思想」という題で、生涯を通じて日系ブラジル社会を対象にした半田の思想において重要な位置を占める三つの問題に焦点を当てる。それは文化伝承の問題、ブラジルにおいて変遷する日本語、それから移民心理の問題である。この三つのテーマは関連しており半田における移民像を構成しているが、その思想的経路を辿り、半田が移住の意義をどこに見出していたかという問題を論じる。


……上述のように、第2章では行為主体性が重要な概念になる。この点では『移民と徳』と同様。
 この術語は人類学だけではなく、哲学のほか社会科学の文脈でも使用されるのを見かける。「行為主体」だと法学と認知科学での使用が増える気もする。ただ、人類学の文脈における行為主体性についての解説があればいいが、まだ見つからない。
 ちなみに、(一応初学者向けに書かれた)前川啓治ほか[2018]『21世紀の文化人類学』(新曜社)を調べると、目次では「行為主体性」は立項されてはいないが、索引では「主体」と「主体性」が拾われている。本文では「行為主体性」が説明なしに使用され(p.152, 161)、「「主体性(subjectivity)」についての研究」が新しいアプローチとして一度だけ紹介されている(p.195)が、とくに文献案内は無い。当初は、(行為)主体性がアクターネットワーク理論にかかわりが深いのではないかと予想していたが、この本(『21世紀の文化人類学』)を読む限り、そうでもなかったようだ。