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『クイア・スタディーズ〈思考のフロンティア〉』(河口和也 岩波書店 2003)

著者:河口 和也[かわぐち・かずや] (1965-) 社会学
NDC:367.97 同性愛:ホモセクシャルレズビアン


クイア・スタディーズ - 岩波書店


【目次】
はじめに [iii-x]
目次 [xi-xii]


I レズビアン/ゲイ・スタディーズからクイア・スタディーズへ――欲望の理論と理論の欲望 001
第1章 レズビアン/ゲイ・スタディーズ前史 001
1 同性愛解放運動の黎明期――ドイツにおける同性愛の「犯罪化」と「病理化」 001
2 ホモファイル運動 008


第2章 レズビアン/ゲイ・スタディー 017
1 ストーンウォール暴動 017
2 ゲイ解放運動 020
3 同性愛――抑圧と解放 023
4 ホモファビアとヘテロセクシズム 029
5 レズビアンフェミニズム 031
6 「エスニック・モデル」化する同性愛 039
7 セクシュアリティ 042


第3章 クイア・スタディー 051
1 クイア理論/研究を取りまく背景 051
2 同性愛者,レズビアン/ゲイ,クイア 054
3 「クイア理論」の台頭 056
4 深刻化するエイズ問題 059
5 クイア・アイデンティティ 062


II クイア・スタディーズという視角 067
第1章 クイア化する「家族」 067
1 非異性愛「家族」の形成 067
2 クイア「家族」は近代家族を超えるのか――「家族」から零れ落ちる「家族」 078
3 抑圧する「家族」 081
4 選択する「家族」 091


第2章 資本の欲望とゲイのライフスタイル 094
1 同性愛者の人権をめぐる二つの事例 094
2 資本主義とゲイ・アイデンティティ 097
3 ゲイのライフスタイルと消費 100


III 基本文献案内 115
  レズビアン/ゲイ・スタディーズ前史
  レズビアン/ゲイ・スタディー
  クイア・スタディー
  歴史
  論集
  クイア化する家族
  資本の欲望とゲイのライフスタイル
  翻訳以外の日本語文献


あとがき(2003年晩秋 河口和也) [127-130]




【抜き書き】


・「はじめに」の途中から。「呼称」について述べる箇所を抜粋。

  「クイア」概念や実践は,規範に抵抗する者にとって,約束の地を与えてくれるものではない.むしろ,規範によって自己や集団の統一性が保障されているとするならば,規範に対し徹底的に抗うことは,自己や集団そのものの統一性を崩壊させるような「危険」に身をさらすことにもなる.切った刀で自分自身をも切りつけてしまう「危険性」をクイアの思想ははらんでいる.したがって,このような考え方は,マイノリティの自己正当化の思想ではないし,解放主義的な運動の文脈における〈解放〉という考え方がもつ,あらかじめ措定された最終目標に向かう政治的使命にもなじまない.1970年代以降の解放主義的な運動に見られるように,同性愛者の〈解放〉という論理,すなわち「自由」や「平等」という目標や達成地点を見出そうとする方向性のなかで,同性愛者にとっての非在郷を探しつづけるという「危うさ」と先に述べた自己(の統一性の)崩壊の「危険性」,そのどちらを選択するのかというときに,わたしはあえて後者を選択する判断もありだと考える.
  これまで述べてきたような「クイア」概念なり実践なりについて考えてみると,はたしてこの日本社会のなかで「クイア」とはどのような意味をもつのであろうか.〔……〕英語圏であれば,非異性愛者を揶揄し,差別するときに使われた「クイア」という言葉を,そう名指された人間が,むしろ肯定的に自称として使うことの政治的意味は大きく重い.また同様に英語圏において,「クイア・スタディーズ」という研究領域の成果が生み出され,たとえば書店の書架のスペースをますます埋め尽くしていくことは,規範的な異性愛の社会にとっては一種の脅威として感じられるかもしれない.さしずめ日本で言えば,「変態研究」というコーナーが固い学術書がならぶなかに設けられ,何十冊という本が書架の全面に陳列されているような光景を想像してもらえばよい.それでは,本書のテーマとして設定されているクイア・スタディーズ(queer studies)は,日本社会においてどのようなものとして受け止められるのだろうか.そうした意味については現時点では明確なことはわからない.


・輸入された理論を使うことについて。

  もちろん,「クイア」という概念や「クイア・スタディーズ」というような学問領域は,西洋起源であり,日本社会で生活する者にとっては単なる輸入品でしかない,したがって日本社会におけるセクシュアリティの問題を考えたり論じたりするときには,そうした輸入品に依存すべきではないという批判の声が聞こえてきそうである.〔……〕そのような批判や嘆きの声が存在することも重々承知しているけれども,それでもやはり英語圏に限定されるとはいえ「クイア」という言葉が担ってきた意味や意義,さらにそうした思想をもとに形成された「クイア・スタディーズ」の研究成果がもたらすものを軽視することはできないのではないかとわたしは考えている.
  日本の場合には,同性愛をめぐっては,西洋のいくつかの国々でおよそ20年から30年の時間経過のなかで積み重ねられてきた理論構築や実践の歴史が,ここ10年弱のあいだに,いわば圧縮された形で展開しているような感じがしている.そこには,東洋におけるひとつの国,あるいはその社会が西洋の歴史を後追いするという単線的な時間の動きはない.〔……〕日本のレズビアン/ゲイによるパレードでも,多くのレインボーフラッグがはためいているし,この国でもマドンナはゲイのアイコン(聖像)であり,エルトン・ジョンや k. d. ラングはカミングアウトしたアーティストであることが知られている.また,かつては「ゲイ」という呼び名でさえ,「ゲイ・ボーイ」を想像させ,「女性化」されてしまうことに対する抵抗感からそのように呼ばれることを好ましく思わない男性同性愛者も多かったが,ここ10年ほどのあいだに状況はかなり変化し,ゲイという「自称」を使う男性同性愛者も多くなってきたという印象がある.このように,日本社会がグローバル化の圧力からもはや逃れることができないのと同じように,非異性愛者もそうした渦のなかに意識的にも無意識的にも飲み込まれているのである.
  こうした状況のもとで,日本文化特殊論はもはや通用しないし,そうした身ぶりを取ること自体がまさに「日本社会」を規範化することではないかとわたしは考えるとはいえ,ここでは日本社会が西洋社会と同じであると言おうとしているのではない.現に世界にはグローバル化する圧力が存在し,そうしたものにさらされているのだが,それはローカルという文脈と関連しあいながら多様な〈現実〉を当該社会にもたらすのである.「クイア」や「クイア・スタディーズ」が生み出されるには,それなりの文化的・歴史的背景が存在し,それがローカルな文脈を形成している.「クイア・スタディーズ」をめぐるそうした文脈を知ることは,それが生起している地域の現実を知る一助になるし,さらに言えば,グローバル化する力によって影響を受けている日本社会のなかで,異性愛が主流とされている社会のなかで生きる非異性愛者たちの〈生〉や〈現実〉を考えることの契機になるのではないだろうか.


・構成。

  したがって,本書第1部ではクイア・スタディーズをめぐる文脈を把握することに力点を置いている「同性愛(homosexuality)」という用語は,1868年にハンガリー人医師ベンケルトにより考案され,それ以来,同性愛は1世紀以上にわたり現在まで,学問研究の対象でありつづけてきた.「同性愛」カテゴリーが形成され,それが研究対象になったことは「同性愛研究」の幕開けといってもよい.そうした同性愛の「原点」から現在までの1世紀以上の時間経過において,同性愛という研究対象をまなざす視点や視角は変化してきたが,第I部では,そうした時間の経過を大きく三つの時期に分け,第1章では「レズビアン/ゲイ・スタディーズ前史」,第2章では「レズビアン/ゲイ・スタディーズ」,第3章では「クイア・スタディーズ」とし,それぞれの時期における同性愛(非異性愛といったほうが適切かもしれないが)をめぐる研究を概観し,各時期における研究上の特徴や時代背景を追っていく.第II部では,クイアの表象をめぐる問題を取り上げる.第1章では,映画『ハッシュ!』をとおして,現代日本というコンテクストにおいて非異性愛者や主流からはずれたものがどのような生や現実を生きるのか,それを〈家族〉という視点から解読していく.第2章では,クィアのライフスタイルが,資本の論理をとおして表象されてきた歴史的経緯をもちながら,また資本の論理のなかでひとつの商品として回収されていってしまう可能性について考察する.