著者:増田 四郎[ますだ・しろう] (1908-1997) 西洋経済史、西洋文化史。
【目次】
はしがき(一九六七年五月 増田四郎) [i-iii]
目次 [iv-v]
地図 [vi-vii]
題辞 [viii]
I ヨーロッパを知ることの意義 001
(1) 日本の近代化とヨーロッパ 002
ヨーロッパへのアプローチの仕方
明治以来のヨーロッパの受け入れ方
(2) 明治百年の反省 007
反省の焦点
ヨーロッパ史の常識
II 現代の歴史意識と「ヨーロッパ」の問題 011
(1) 十八、九世紀の歴史意識と世界理論――ヨーロッパの拡大 012
世界史観の成立
ヨーロッパ拡大の背景
ヨーロッパ中心史観の成立
後進国への影響
日本の歴史学界の状況
ヨーロッパ理論と日本社会
拡大されたヨーロッパ
(2) 二十世紀の歴史意識――ヨーロッパの矮小化 021
二度の世界大戦とヨーロッパ
歴史研究操作の精密化
歴史意識の変革
特殊ヨーロッパ的なるもの
二〇世紀の代表的歴史家
共産圏の歴史学会
アメリカ歴史学会の性格
学説とその国柄の関係
三つの大きな動向
距離を置いてヨーロッパを見る
III 地理的に見たヨーロッパの構造 037
ヨーロッパの地理的範囲
ヨーロッパの山系
ヨーロッパの河川
地中海世界の特徴
西ヨーロッパ地域の特徴
東ヨーロッパ地域の特徴
外的侵入とヨーロッパ
ヨーロッパ地域のめざめ
三つの地域と民族の分布
キリスト教による統一
ヨーロッパ意識について
IV 古代世界の没落について 057
(1) ヨーロッパ史における時代理由の問題 058
西ヨーロッパ地域の重要性
ヨーロッパ史の時代分け
ヨーロッパの三大要素
(2) 古代世界没落の意義 064
古代社会の位置付け
マックス・ウェーバーの古代史観
古代社会発展の限界
ローマ帝政時代の国家と社会
ローマ社会発展の行詰まり
ホモ・ポリティクスからホモ・スピリチュアーリスへ
タキトゥスの警世の言葉
V 文化の断絶か連続か 081
(1) 古代社会はなぜ行詰ったか 082
古代末期の変質過程
古代人の経済観
奴隷制生産の非能率性
人口密度の希薄さ
奴隷源の枯渇
転換の基軸は何か
(2) 文化連続説の主張 089
既存の理論への疑問
過渡期の実態への接近
ゲルマンの移動集団の内容
民族移動の実際の姿
ドプシュ説への疑問
ゲルマン的連続性の問題
現代とのアナロジー
人間類型の変革について
VI 転換期の人間像 105
(1) 真の転換期はいつか 106
民族移動期の人口比率
部族内容の不純性
ローマ社会の腐敗への警告
(2) 転換期の生きぬき方 110
ローマ貴族の心情について
ゲルマン王室への仕官
ラテン的教養の活用法
(3) 過渡期の群像 112
カシオドール
修道院への転身例
地方で豪族化したローマ貴族
サルヴィアーヌスの批判的精神
(4) ゴート戦役の惨状とローマ貴族 119
ゴート戦役の意義
都府ローマの攻防戦
ポエティウスの『哲学の慰め』
(5) 古代ローマの遺産と新しい芽生え 124
乱世と価値の転換の関係
修道院活動の意義の重要性
ローマ帝国とキリスト教の遺産
新しい団体意識の芽生え
VII ヨーロッパの形成 129
(1) フランク王国の性格 130
ヨーロッパ社会成立の時期
クロードヴィッヒ王の改宗
フランク王国の発展
フランク王国と旧ローマ貴族
フランク王国の三大地域について
(2) 新しい村落形態の発生 141
ロワール川以南の村落形態
ゲルマンの原初村落の形態
原初村落の集村化現象
地名学から見た古い村落の特徴
旧学説の根本からの動揺
集村化現象の諸原因
その他の村落形態について
カロリング王朝の性格について
(3) 人的結合国家の原理 158
フランク王国統一の手段は何か
封建制度の成立とは何か
地域差と封建制の原理との関係
双務契約的な主従関係
制度国家から人的結合国へ
(4) 古典荘園支配とその変質 166
古典荘園への支配の仕方
古典荘園の変質について
領域支配原理の萌芽について
フランク王国の解体過程
貴族の意味の相違
VIII ヨーロッパ社会の特色 177
(1) ローマ理念とキリスト教 178
フランク王国の重要性
ローマ理念とその復興
キリスト教的統一文明
(2) 言語の分布とその在り方 183
ヨーロッパの諸国語
方言の在り方
諸国語と民衆の語りことばの関係
(3) 社会変革の原理 187
社会の変革
精神の変革
生産様式の変革
変革の起こる地域について
辺境変革論は可能か
(4) 社会生活にみる団体的合理性 190
支配と団体
団体的合理性の発露
中世都市の市民意識
ヨーロッパの南と北
(5) 社会と文化の国際的性格 194
国家基盤の国際性
身分観の国際性
社会階層の流動性の限界
ヨーロッパ体制の特殊性
年表 [1-6]
【抜き書き】
第II章から。
・pp.25-26
〔……〕文明というものが、相互にどういう関係を持ち、その相互接触のあいだに、どのように若返ったり、老衰したりするか、その法則を見ることが、むしろ世界史の研究であるべきなので、ヨーロッパ中心史観というものは、ここでひとつヨーロッパ人自身の手で放棄しなければならない、あるいは克服しなければならないというのが、その主張の基調で、これがいまヨーロッパの知識人の常識になってしまっている。
◆特殊ヨーロッパ的なるもの
それゆえ、現代ヨーロッパの歴史学界の常識というものは、世界理論をつくることではなくて、「特殊ヨーロッパ的なるもの」はなにか、ヨーロッパに固有なものはなにかを広い視野の中で見きわめることだということになっている。これは非常に大きな意識の変化だといわなければならない。世界に通用するはずの理論だという自信の上に立って、ヨーロッパの歴史を研究した連中が、その自信を失って、このきびしい世界現実の中でヨーロッパ文化の生きる道を探すため、特殊ヨーロッパ的なものはなにかをさぐり、そのあいだから別個の自信をつかもうとしているのである。これはけっして日本に一時あった日本固有のものを強調し、日本はこれだけでよいのだという独善論に陥ったのとは、まったく違った意識である。ヨーロッパに特殊なものをしっかりつかまないと、東西からおしよせる一律化の荒波にさらわれてしまう危険がある。ヨーロッパに共通した特殊なものを、みんなで再確認しようじゃないか、こういう切実な要請のあらわれである。歴史学界は、この要請を真剣に受けとめて、新しい研究方法を工夫しつつある。これは外からいわれたのではなくて、ヨーロッパ人がやむにやまれずそこへ到達した結果であり、この転換の意味は極めて重大である。
・第IV章から。
pp. 61-64
近世の成立を解明するためには、古典古代よりもむしろ中世社会をつぶさに調べなければならないことがわかって来た。たとえばゴシックというような芸術の原理を見ても、経済生活の発展過程を見ても、あるいは町や村の現在の生活を見ても、そのほとんどは中世にその基礎がおかれていることがはっきりして来た。歴史は飛躍しないのであるから、因果関係をたどり、発生史的にものごとをとらえようとする科学的な歴史学が発達すると、こうなるのは当然のことなのであるが、それにもかかわらずヨーロッパにおける時代分け、すなわち国を越え、王朝を越えた時代分けの考え方のおとりというものは大略上述のような事情に発したものなのである。
◆ヨーロッパの三大要素
さて、時代分けの問題と関連して、歴史的世界としてのヨーロッパと名づけうる社会が一体いつ、どうしてできたのかを考えようとする際には、なんとしても上に述べた古典古代の社会というものが、いったいどういう社会であったのかを一応はっきりさせて置かなければならない。とりわけ、それが没落したということの意味をはっきりさせないと、それにつづく中世、すなわち私のいうヨーロッパの成立の意味がわからなくなるおそれがある。
先ほど述べたように、ヨーロッパ人の常識では、ヨーロッパとは、古典古代の伝統とキリスト教、それにゲルマン民族の精神、この三つが文化の要素としてあらゆる時代、あらゆる事象に組み合わされたものだということになっている。従って興味あることには、ヨーロッパが何か行きづまったときには、いつでもこの三つの要素のいずれかに重点を置いて打開策を考えようとする傾向がみうけられる。この傾向は今日にいたるまでつづいているとさえいえる。すなわちあるときには、キリスト教的統一が過去にあったという反省から、いま一度それを回復しようではないかという考えが、新しい次元でのヨーロッパ統一の思想的源泉となる。たとえば前にかかげたクリストファー・ドーソンのごときがそれである。
またあるときには、民族の特性、とくにゲルマン民族の優越性を強調することによってヨーロッパの制覇をねらおうとする思想が頭をもたげてくる。 その極端な例は、ナチスの政策をささえた思想であろう。そこでは国民主義というよりも、むしろ指導的民族としてのゲルマン系諸民族の優越、それの統合が目標となっている。 そしてこのことを学問的に理論づけようとするところから、インド・ゲルマン民族の主流にゲルマン人を置き、ゲルマン人の主流としてドイツ人を考えようとする誤った歴史観が強調されることとなったのである。
このような狂信的な歴史観に反抗するものは、一種のヒューマニズムでヨーロッパの行きづまりを打開しようとする。つまり、古典古代の文明、人間性に根ざしたヒューマニズムというものから出発して、これを新しい事態に対処する思想のよりどころにしようとする。その企てがいろいろの形であらわれていることはご承知の通りである。おそらく今後もヨーロッパは世界の諸影響をうけながらも、この三つの要素をふまえたもろもろの打開策をうち出すにちがいない。それは決して行きあたりばったりなものではなく、幾世紀にわたるヨーロッパの伝統のしからしめるところなのである。われわれはこのことをまず頭にたたみ込んで置かなければならない。
ところが、ここで厄介な問題は、十八世紀にできたヨーロッパ中心の世界史観においては、古代・中世・近世というものを一つの系列として見ようとしている反面、他方においてはヨーロッパというものが三つの要素、つまり古典古代の文化、キリスト教、ゲルマン民族の精神が結合してはじめてできたのだという常識があることである。後者の考え方からすると、古代世界というものは、ヨーロッパには直接つながらない、いわばヨーロッパの歴史のはじまらない時代のことなのだという考え方が成り立つ。従ってこの立場をとる限り、三つの要素が結合してヨーロッパができたのは、いつ、どこにおいてであったのかという問題が、そのままヨーロッパの誕生という問題になってくる。従ってこうした反省もなしに、ヨーロッパの歴史をギリシア・ローマの歴史から説くということはまことにおかしいことで、ほんとうのヨーロッパ史がはじまるのは、三つの要素がいっしょになったときからである。すくなくともこの立場に立つ限り、こう考えざるをえない。それゆえヨーロッパの誕生とか、ヨーロッパの成立という題名の書物は、けっしてギリシア・ローマのことなどを書いていないのであって、この三つの要素の結合または融合過程を主要テーマとしているのである。
・73-74
この一事に照らしても明らかなように、国家としてのローマという観念は、東洋の国家のように地域的支配権の観念ではないのであって、いわば個別的・具体的な権限内容をもつ契約関係の集積体なのである。それは英語でいうテリトリアル(領域的)な観念ではない。ローマ史を考える際には、われわれはまずこのことをよくわきまえなければならない。要するにそれはきわめて個別的な都市共同体と都府ローマ、個別的な各地の総督と元老院あるいは執政官との権限関係の集積なのである。 このユニークな国家の原理というものは、帝政期の前半においても堅持され、ようやく三世紀にいたって、上述のような大きな変化をしめすのである。
このことをもっと具体的に例示するならば、それはちょうどロマネスクのドームに入った時のようなものである。ロマネスクのドームは、中はなにもない空間であるが、そのなかに立つと、そこにステンドグラスを通じていろいろの光線がはいってくる。そして壁面と自分とによって構成される空間が、なにか一つの意味の世界として理解される。中央に立っている人と周辺の壁面の神像との関係によって意味ができる。ただそれだけのものなのであるが、それが実存する空間としてうけとられる。ローマにおける権限関係の集積というものは、あたかもそれに似たものでありだからこそ権限内容を規定した法律が大切なのである。