著者:加藤 典洋[かとう・のりひろ] (1948-2019)
言葉を書くということは,どんな経験だろう.それは技法の問題ではない.よりよく考えるための,自分と向かい合うための経験の場だ.このことは,同時に批評の方法へとつながっていく.経験としての書くということの意味を,考えるということの1つの方法として位置付ける,これまでの文章教室とは異なったユニークな講義.
【目次】
まえがき [v-vi]
目次 [vii-ix]
第一回 頭と手――この授業について 001
経験の場としての書くこと
「言語表現法」とは――頭と手が五分五分だということ
『文章読本』のイデオロギーから土方仕事へ――文章教室とは違う
何を書くか、いかに書くか、なぜ書くか 1文の一生
書くことと考えること
美の問題――「うまく言える」に限りなく近づくこと
教材について(一)――『高校生のための文章読本』『高校生のための批評入門』
教材について(二)――『文章心得帖』『増補 学術論文の技法』
なぜ規則を守らなくてはならないか
用法と実例――「……」の問題
文章を書く心得
第二回 課題とタイトル 033
課題とは何だろうか/タイトルとは何だろうか
即問即答式の物足りなさ
ギフトと運動感
理由と欲望
まず水に飛び込め
私について、ということ
第三回 他者と大河――推敲・書き出し・終わり 051
不完全であること――推敲は何を殺すのか
宮城まり子「私は教育経験三十年」
美しい花と花の美しさ
理想の書き出し
なぜ踏み切り板は動かないか
書き終わりの可能性
終わりと美辞麗句
小川と大河
小川で大河を渡る
第四回 文と文の間――文間文法・スキマ・動き 077
スキマとは何か
文間文法
井上ひさしの文間文法論
文間問題の可能性
文間と言葉の不自由
浅い文間、深い文間
文間と歩行の速度
第五回 糸屑と再結晶――ヨソから来るもの 101
鶴見俊輔の三条件
多田道太郎の三つの‐duction
「感動を書く」と「感動のなかで書く」
糸屑と再結晶
気分のなかで気分を書く
セザンヌのモチーフ
書くことの事故現場
四つのヨソから来るものの契機
第六回 言葉はどこで考えることと出会うか 123
順序の転倒を戻すこと
「いい子ぶりっ子」の気分――石原吉郎「三つの集約」感想
沖縄の校外実習報告書
ひめゆりの塔の感想文と反論
本土の沖縄観、沖縄の本土観
スタートの正しさ、ゴールの正しさ
上からのロープと下からのロープ
〇・七にとどまる
第七回 いまどきの文章 145
「ん〜、まいったか〜」――いま、言葉と書き手が一対一であること
モノからコトへ
半分の独り言――言葉と書き手の一対一対応がなくなること
吉本ばなな『キッチン』の冒頭の波紋
通勤電車のなかで叱る人
自分との距離感
フェミニンな文
伝わらないことに立つコミュニケーション
射撃とカーリング
マッチョな文からフェミニンな文へ
真理の言葉からの自由
第八回 遅れの問題 177
抵抗の力
水のたまる凹みの成分
自分の持ち札としての場面
自分を泳がせる
ワープの不思議
砂糖が溶けるまでには誰もが待たなければならない
遅れという問題
転んだ後の杖
自分との逆接の関係
苦しみと甘さ
わからなさにいたる
疑疑亦信也
第九回 フィクションの自由 207
朝日新聞の家庭欄の連載記事から
聞き書の可能性
自分からの自由
ボヴァリー夫人は私だ
『トパーズ』の語り
不自然な回路
自分を肯定する「お話」
窓口はなぜ必要か
不透明なもの
マキューシオのだじゃれ
フィクションは人を救う
最後に――方法の話 235
マクシム――デカルトの『方法の話』
一番遠い道で森から出ること
同和と異化
言葉の戦略的使用はなぜダメか
あわいと落差
基本文献案内 [247-253]
あとがき――「言語表現法講義」山頂編の弁(一九九六年八月 パリ 加藤典洋) [255-257]
【目次】
・第六回「言葉はどこで考えることと出会うか」の一節(pp. 137–138)から。
考えることは、書くこと同様、まず感じる、それをなぜ自分は感じたか、と吟味する仕方で、自分を基礎づけることでしか、自分の基礎――疑えないもの――をもてないからです。しかし、それは、その起点に置かれた「感じ」、いわゆる「実感」が間違いのないものだということではありません。実感は大いに間違うことがあり得る。しかし、にもかかわらず、人はそこからしか正当にははじめられない。そしてそこからはじめることで、一歩一歩、その正しさを確認する仕方で、また、誤りがあればそれを修正することで、ゴールの正しさに到達できる、そう僕は考えます。