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『疫病と世界史〈上・下〉』(W. H. McNeill[著] 佐々木昭夫[訳] 中公文庫 2007//1985//1976)

原題:Plagues and Peoples
著者:William H. McNeill (1917-) 歴史学
訳者:佐々木 昭夫 (1933-2009) 比較文学
カバーデザイン:num. 山影 麻奈 装丁家
DTP:平面惑星


疫病と世界史(上) -ウィリアム・H・マクニール 著 佐々木昭夫 訳|文庫|中央公論新社
疫病と世界史(下) -ウィリアム・H・マクニール 著 佐々木昭夫 訳|文庫|中央公論新社


【上巻目次】
目次 [003-004]
謝辞(一九七五年十二月十五日 ウィリアム・H・マクニール) [007-009]
序(一九九七年三月十五日 ウィリアム・H・マクニール) [011-022]


序論 023
  本書の執筆動機
  若干の基本概念

第一章 狩猟者としての人類 045

第二章 歴史時代へ 075

第三章 ユーラシア大陸における疾病常生地としての各文明圏の間の交流――紀元前五〇〇年から紀元一二〇〇年まで 137


原注 [235-275]



【下巻目次】
目次 [003-004]


第四章 モンゴル帝国勃興の影響による疾病バランスの激変――紀元一二〇〇年から一五〇〇年まで 007

第五章 大洋を越えての疾病交換――紀元一五〇〇年から一七〇〇年まで 079

第六章 紀元一七〇〇年以降の医学と医療組織がもたらした生態的影響 131

付録 中国における疾病 213


原注 [232-288]
訳者付記(一九八五年四月 佐々木昭夫) [289-291]
文庫版訳者付記(二〇〇七年十一月 佐々木昭夫) [292-294]
索引 [295-301]





【抜き書き】

□1997年に書かれた「序」から。

 だからエイズは人間の生命をおびやかす唯一の感染症などではない。全体的にそして長い時間的視野で考えれば、宿主と寄生生物の間の見馴れた、環境学的相互順応が成立するのはまず間違いのないことだろう。それはあまり致死率の高くない慢性病的な感染症が猛烈に悪性の感染症より優勢になり、疫病が風土病に変わっていくということを意味する。
 植物も動物もこの疾病均質化の過程をわれわれ人類と共にしている。おそらく、各地の野生動物のポピュレーション(訳註 ひとつの種の生物の群れ。また群れに属する個体の総数)が最も危険にさらされているのだろう。理由は簡単で、スピードを増し激化している地球大的な人間の往来がもたらすいくつかの感染症に、彼らは今まで出遭ったことがないからだ。〔……〕すべてをひっくるめて言えるのは、孤立した多くの種の大量絶滅という事態であり、長い年月の間にその結果がどうなるのか、われわれには予見することが出来ない。
 ひと言で云うと、今日人類が自然の生態系に介入していることが主な原因で、生物進化は最高速度で進行している。われわれ人類が感染症にさらされている状態はすみやかに改善されつつあるが、それも大きく見れば生態学的関係の調整、再調整の一部に過ぎず、将来いかなる方向に向かうかは依然として未知のままである。こうも言えよう。生物学的進化は、あらゆる前例を超えて、大自然の運行への人類の介入によって追いつかれ、加速されている。その介入を導くものは現代科学であり、それを促してやまないものは激増する世界人口であると。
 ある意味でこのことは人類の歴史そのものと同じくらい古い。なぜなら、われわれの最も遠い祖先も、皆でよく考え、前もって打ち合わせた行動によって彼らの環境を変えてきたからだ。それは意識された意図によって導かれ、主としてコトバを交わすことで皆が共通に理解する意味に規定された行動である。だが現代の科学と技術は無機的なエネルギーを開発することによって、競合する様々な生物体との間の自然の均衡を一変させるのに要する人間の能力を、極度に巨大化してしまった。ローベルト・コッホが初めてコレラ菌を同定した一八八四年から、WHOが天然痘根絶に成功した一九七六年の間に、感染症制圧の努力と成就と見えたものは、実は、人類の手による生態学的均衡の根本的な混乱のひとつだった。にもかかわらず感染症が戻って来つつある様子は、われわれが永久に、そして改変の余地なく生命の網の目にとらわれた存在であることを教えている。たとえ、好ましくない事態を改善するのにわれわれがいかに巧みであり、他の生物を取り除くのにいかに成功しようともそうなのだ。


■「第四章 モンゴル帝国勃興の影響による疾病バランスの激変」(下巻 11-22頁)から断片的に抜粋していく。


□イントロダクション。

 モンゴル支配下における交通の発展は、いまひとつ重大な結果をもたらした。ただ単にきわめて多数の人びとが文化的・疫学的国境を越えて非常に遠い距離を旅したというだけではない。これらの人びとは、かつてはあまり人の通らなかったもっと北の道も通ったということがあった。中国シリア間の古代におけるシルク・ロードは、中央アジアの砂漠を横断し、オアシスからオアシスへと道を辿るものだった。ところが今や、この古い道筋に加えて、隊商や兵士の群れ、早馬に跨がった飛脚らは広漠たる大草原をも通ったのだ。彼らは広大な地域にわたる人間の交通網を作り上げ、それはカラコルムにあるモンゴルの総司令部を、ヴォルガ河に臨むカザンやアストラハン、クリミア半島のカッファ、中国のカンバリク(北京)などと結びつけ、さらにその間に点在する無数の隊商基地をひとつにつないだのである。
 疫学的見地からすると、この隊商路網が北に広がったことはひとつの重大な事態を招いた。草原地帯各地の野生の齧歯類小動物が未知の感染症の保菌者と接触することとなり、そしてその病気には恐らく腺ペストも含まれていたのだ。これ以後の世紀には、これら齧歯類の或る種は慢性的にパストゥーレラ・ペスティスに侵されているようになった。彼らが地中に掘りめぐらす穴は、シベリアと満州の厳しい冬の寒さにも耐えて、このペスト菌パストゥーレラ・ペスティスが年中生き続けるのに非常に好都合な局地気候を作り上げていた。それにそうした穴には、動物と昆虫が複合的共同体をなして共存していたため、ペスト感染が永久的に持続することが可能であり、実際そうなってしまったのだ。
 ユーラシア大草原の穴居性齧歯類が一体いつペストの保菌者になったかを断言できる者はいない。彼らが腺ペストを宿しているという事実は、満州におけるヒトのペストの発生を調査すべく、一九二二年から二四年にかけ病理学者の国際的調査団が結成されて調査活動を行った際に明らかになった。この調査は、さかのぼって一八九〇年代に、南ロシアのドン、ヴォルガ両河畔地方で得られた調査結果に負うところが多かった。すでにそのとき、様々な種類の齧歯類がペストの保菌者であることが指摘されていたからである。このときまで感染パターンは非常に古くから存在し、人間が地方地方で感染の危険に対処すべく守ってきた慣習的方法も昔から続いていた。しかしだからと言って、ロシアの著者たちが主張するように、ペストがこのように根付いたのは歴史時代に入る前だということにはなるまい【※2】。そうではなく、従来乗り越えることができなかった遠い距離もモンゴルのために活発な往来が可能となったとき、ペスト菌パストゥーレラ・ペスティスが初めてユーラシア大草原の留歯類のもとに運ばれたと筆者は考えるのだ。
 この仮説を説得的たらしめるため、ここでひとまずこの章に定めた年代の枠の外に出て、十九世紀と二十世紀のペスト流行をやや詳しく観察することにしたい。国際的な医学者のチームによるペストの制圧は、近代医学の最もドラマティックな勝利の一例なのである。

□世界的なペスト流行(1890年代)

 物語は中国内陸のはるか奥地で始まる。前章で触れたように、ペストは中国とインドの国境近くのヒマラヤ地方で、二、三世紀ころまでにはすでに根をおろして確立していた。恐らくそれよりずっと以前からであろう。十九世紀初頭には、サルウィン河の上流が汚染非汚染の地域を分ける境界をなしていた。ところが、一八五五年に雲南省で軍の反乱が起こり、その鎮圧にサルウィン河を越えて政府軍が派遣されたが、兵士らはペストの危険に全く無知だったため感染してしまい、そのまま河を越えて帰還し、中国のその他の地方にペストを持ち帰った。以後、中国内陸の様々な場所にペストの発生が続いたが、あまり外の世界の注意をひくことも無かった。だが一八九四年、遂にペストは広州と香港に達し、両港湾都市のヨーロッパ人居留地に戦慄が走った【※3】。
 一八九四年には細菌学の諸技術はまだ黎明期にあったから、ヨーロッパの民衆の記憶に依然として大きな影を落としていた悪疫が再発したというニュースは、パストゥールとコッホの弟子たちを奮い立たせて伝染の謎解きに向かわせた。国際的な調査団が組織されて現場に急行し、到着後何週間も経たないうちに、一人の日本人と一人のフランス人の細菌学者がベスト菌パストゥーレラ・ペスティスを発見した(訳註 北里柴三郎とアレクサンドル・イェルサン)。これは一八九四年のことである。その後の十年間に、菌が齧歯類からノミを介してヒトへと伝わる様子が充分確認されたが、これは、香港、ボンベイシドニー、サンフランシスコ、ブエノスアイレスなど様々に異なる場所に発生するたびごとに組織され、調査・研究に従事した国際的な機動部隊の活動の成果だった。
 ペストが香港に到着してから十年以内に、世界中の重要な港がすべてこの恐るべき病気の突発を経験するに及んで、ペストに対する全世界の関心はいよいよ高まった。ほとんどの場合、感染は速やかに制圧されたが、インドでのみ内陸に向かって蔓延し、一八九八年のボンベイ到着後十年間に、死亡者数は六百万に上ったとされる【※4】。〔……〕
 このときの重要な発見のひとつに、野生の齧歯類の穴居性共同体は人間よりも容易にペスト菌を受け入れてしまうという事実があった。カリフォルニアのアメリシマリスは一九〇〇年、初めてペスト菌に感染していることが発見されたが、その同じ年サンフランシスコの中国人居住区に小規模のペストの発生があったのである。人間にあってはベストは速やかに消滅したが、アメリシマリスに菌はさかんに増殖し、現在でも続いている。〔……〕
 北米におけるベスト汚染の地理的拡大は、ある意味できわめて自然な成り行きだったと言える。それは地下穴居性齧歯類のライフ・パターンそのものが、ひとつの地下都市から別の都市へと感染を伝播させる絶好の条件となるからだ。齧歯類の若者がある程度成長すると、生まれ育った穴から追い出され、新しい家庭を求めて近くに穴を掘る。ところが中には、もとの共同体を棄てて田野をさまよい、時には何マイルも旅する者も出てくる。こうした漂泊者は、どこかよそに齧歯類の共同体を見付けるとすぐ仲間に加わろうとする。このライフ・パターンは遺伝子を交換するきわめて効果的な方法で、そうした交換が種の進化の上でもたらす周知の利点を伴うものである。だが同時に、病気の感染を、ひとつの齧歯類共同体から別のそれへと、年に十マイルから二十マイルもの距離を越えて伝播させるものでもあった。また北アメリカの齧歯類におけるペストの蔓延には、人間の活動もその速度を早めるのに力をかしている。牧場労働者が、わざわざ病気の齧歯類をトラックに積み込んで何百マイルもの距離を運ぶということが実際にあったのだ。プレーリー・ドッグ(訳註 北米草原地帯に群居する齧歯類の一種。鳴き声は犬に似る)の集団に病気をうつして大量に死なせ、牛に食わせる牧草への被害を減らそうとしたのである。だが、そうした行為があったにしても、北アメリカにおけるペストの伝播は、基本的には人為的な力によって左右されるものではなかった。その結果、一九四〇年には合衆国で三十四種もの翌歯類がペスト菌保有し、ノミも三十五種の異なる種類が保菌者となっていた【※6】。


□「現地の集団には、(疫病への感染を防止するのに機能するような)掟や慣習が共有されていた」というよくある仮説(断言調だが)。機能主義というかなんというか。

 一九〇〇年以後、北米、アルゼンチン、南アでは、ヒトのペストは断続的に発生し続けた。致死率は、一九四〇年代に抗生物質が発明されるまで、ほぼ一定して感染者の約六〇パーセントという数字を保っていた。四〇年代以降は抗生物質の投与で治癒は比較的容易かつ確実となったが、それも手遅れにならぬうちに正しい診断が下された場合の話である。それよりむしろ、牧場労働者やその他アメリカ、南アの半乾燥地帯の草原に住む人びとは、一定の生活習慣を作り上げ、それは彼らとペスト菌が繁殖している齧歯類=ノミの共同体の間の、効果的な防壁となるものだった。そこで、世界の新しく汚染された場所では、ヒトのペストの発生は数が少なく、あまり世人の注目を集めることもなかった。〔……〕
 けれども、一九一一年、満州にまたもや大規模なペストの発生があり、一九二一年にも再発した。この悪疫を制圧すべく改めて国際的な活動班が速やかに組織され、調査官は間もなく、このヒトのペストはマーモットからうつされたものであることを突き止めた。マーモットというのは大型の穴居性齧歯類で、その毛皮は国際毛皮市場で高値をよんでいた。だが、近ごろ汚染されたアメリシマリスなど北米の齧歯類とひとしく、マーモットの穴はしばしばバストゥーレラ・ペスティスを宿していたのである。
 この動物が生息している草原地帯の遊牧民の部族では、ペスト感染の危険に対処するために、疫学的見地から見ても充分有効な掟〔おきて〕を備えていて、それにはちゃんと神話的な説明が付され権威を保っていた。罠は禁忌〔タブー〕である。射殺せねばならぬ。動作のにぶいマーモットに近寄ってはならぬ。マーモットの集団全体に病気の様子が見えたときには、人間の共同体はテントを畳み、禍いを避けるべくその場所を引き払うべきである、等々。こうした慣習的規定は、ヒトがペストに感染する度合いをかなり低めるものだったと推察される。
 ところが一九一一年、満州族清王朝が衰微していよいよ崩壊の時を迎えようとしていたとき、漢民族満州に移住することを禁じるという、それまで長い間施行されてきた規制措置が行われなくなった。その結果、事情を知らない漢民族移住者の大群がマーモットの毛皮を追いかけることとなったが、彼らはその土地の伝統のことなど何も知らず、病気に罹っていようがいまいが見境なしに罠で捕りまくった。当然ペストが彼らの間に発生し、次いでいち早くハルビン市に形成されたペストの都市内中心地から、満州に建設されたばかりの鉄道によって四方に広がったのであった【※7】。


□この流行は記録され、そのメカニズムは研究者により分析され、有効な措置が施行された。

 一八九四年から一九二一年まで続いた一連の出来事はすべて、ペストをコントロールする手段の発見を任務とする医師団の、専門家として鍛えられた観察眼のもとに生起した。彼ら研究者は、ペストが新しい地域新しい住民の中に入ってゆく伝播のパターンを辿るのに困難を覚える場合も多かった。だが、こうした調査研究とそれに基づいて取られた公衆衛生上の措置が無かったならば、二十世紀はその開幕とともに、完全に全地球を覆うペストの続発に見舞われたに違いない。その死亡者数は、ユスティニアヌス帝の時代から伝えられた数字や、黒死病〔ペスト〕がヨーロッパをはじめ旧世界の多くの場所を荒らし回った十四世紀の記録も、影が薄くなるほどのものだったであろう。

□まとめ

 人類が十九世紀二十世紀にペストと遭遇したお蔭で知り得た以上の事柄から、三つの点を特に強調しておきたいと思う。
 第一に、一八七〇年代になって急速に発達した汽船の航路網は、地球全体にペストをまき散らす格好の伝達手段だった、ということである。〔……〕港と港を結ぶ感染の連鎖が途絶えずに維持されるためには、スピードこそ決定的だった。パストゥーレラ・ペスティスは恢復者に免疫を残すから、一隻の船に乗り込んだネズミとノミとヒトの感受性ある宿主は、何週間か経てばいなくなってしまう。帆船時代には、要するに海があまりに広すぎて、船に乗ったペスト菌が生命を保ったままはるばる各地の港町に達したり、南北アメリカや南アで彼らを持っていたお誂え向きの齧歯類の共同体に住み込むことなどできなかったのだ。汽船が出現して船脚がにわかに速くなり、また大きさが増したことから運ばれるネズミのポピュレーションも巨大化し、感染がそこでも長時間循環できるようになったとき、海洋は突然かつてないほど通過しやすい場所になったのである。
 第二には、船に棲むペストに侵されたネズミと彼らにたかるノミは、世界各地の港でヒトの宿主にペスト菌をうつすばかりでなく、地球上のいくつかの半乾燥地帯に生息する彼らの野生の親類たちにも感染させたという点である。カリフォルニア、アルゼンチン、南アでは、いわば潜在的病原体保有動物が、いつとも知れぬ過去からずっと存在してきたのは確かである。処女地には穴居性齧歯類の大ポピュレーションがすでに地中で生活していたとなると、これが自然界における新しいペストの中心地となるために欠けていたのは、ただ、立ちはだかる障害物――つまり海洋――を越えて菌が運ばれる手段だけであった。こうした齧歯類の群れは、種も生活様式も地方ごとに大きく異なるにもかかわらず、ペストに対する感受性を持ち、途切れることない感染の連鎖を無限に維持していくことが可能だった。
 人類にとって重大な意味を持つ感染症が、誰も意図せぬのにこのような地理的移動を遂げるという事態が起こったのは、医学者がこうした現象を観察する能力を備えてからは初めてのことだった。しかしだからと言って、過去にこのような突然の場所の転位が起こらなかったことにはならない。〔……〕つまり、こうした近年のパストゥーレラ・ペスティスの各地での勝利は、どれほど突然であり驚くべきものと見えたにしても、すべて通常の生物学的現象なのである。なぜなら、どこであろうと新しい生態的ニッチェなるものが出現すれば、人類にしろ人類以外の生物にしろ、ともかくそのニッチェによって種を殖やすなんらかの生物体によって、それは速やかに占拠されてしまうからである。
 第三点としては、雲南省満州などパストゥーレラ・ペスティスが穴居性齧歯類に風土病として根をおろしていた地方でも、現地の住民が長い間守ってきたその地方独特の生活習慣は、いずれもペスト感染が人類に移行するのを防ぐ上できわめて効果的だったという事実である。よそから入ってきた連中が地方的な「迷信」を守ろうとしなかったとき、初めてペストが人間の問題となった。さらにこの両地方ともに、これら疫学的に無知なよそ者がなだれ込んできたのは、軍事上、政治上の大変動と結びついていたが、そうした大変動が病気による惨禍を引き起こすのは、過去にもしばしば見られたことだった。
 伝統的な慣習という防疫手段が、雲南地方と満州で明らかに有効だったことを思えば、一八九四年から一九二四年まで見事な成果を挙げた医学的防疫措置も、疫病の突然の出現に際して人類が昔から示してきた対応の一例であり、かつてなく迅速で効果的であっても、ごくありふれた正常な対処法に過ぎなかったことがわかる。これまではただ神話と慣習が、行き当たりばったりに試行錯誤を重ねながら、病気の被害を耐え得る限度内に抑え込むべき実行可能な行動様式を決定してきたのであり、人類はそれを受け入れてきたのだが、代わって今度は近代科学としての医学が、新しい行動の規則を考案し、国際的な隔離検疫体制といった世界的規模の行政上の枠を設け、万人がこの新しく規定された行動様式に黙って従うよう強制した、ということなのだ。そして、このような視野に立って眺めると、二十世紀医学と公衆衛生行政の輝かしい勝利もそれほど目新しいものに思えなくなってくる。とはいえ、今世紀に入ってからの腺ペストに関する医学上の諸発見は、過去にこの病気の猛威を抑えるのに役立った行動規定のたぐいをはるかに凌ぐ力を発揮したのも事実である。恐らく医師や保健官は、われわれの時代を過去のいかなる時代からも截然〔さつぜん〕と分かつ人口の世界的規模での大成長を妨害、いや逆転させたかも知れない悪疫の大流行を、未然に阻止したのだ。

   原註[第四章]
※2 V. N. Fyodorov, "The Question of the Existence of Natural Foci of Plague in Europe in the Past," Journal of Hygiene, Epidemiology, Microbiology and Immunology [Prague], 4 (1960), pp. 135-141 は、腺ペストが太古からヨーロッパに存在したと主張しているが、その根拠としては、ヨーロッパが、地質学的な遠い過去から、齧歯類が生息するのに適した自然条件を備えていたというに過ぎない。N. P. Mironov, “The Past Existence of Foci of Plague in the Steppes of Southern Europe," Journal of Microbiology, Epidemiology and Immunology, 29 (1958), pp. 1193-1198 も、同じ根拠で同じ主張をしている。これは明白な誤りである。ペスト感染を維持していくのに適した齧歯類の共同体が存在すると言うだけでは、直ちにペスト菌が実際存在することにはならないからだ。二十世紀になって初めて、北アメリカの齧歯類にペストが根をおろして広がっていった事情は、このことを充分に証明している。

※3 詳細についてはK. Chimin Wong and Wu Lien-teh, History of Chinese Medicine, 2nd ed. (Shanghai, 1936), pp. 508ff 参照。

※4 R. Pollitzer, Plague (Geneva, 1954), p. 26 参照。

※5 これらの点は、 L. Fabian Hurst, The Conquest of Plague: A Study of the Evolution of Epidemiology (Oxford, 1953) に基づく。

※6 Howard M. Zentner, Human Plague in the United States (New Orleans, 1942).

※7 Wu Lien-teh, J. W. H. Chun, R. Pollitzer and C. Y. Wu, Plague: A Mannual for Medical and Public Health Workers (Shanghai, 1936). pp. 30-43 および、 Carl F. Nathan, Plague Prevention and Politics in Manchuria 1910-1931 (Cambridge, Massachusetts, 1967). ペストが最初そこから発進した雲南地方でも、地方的な習俗によって、人間への感染の危険を抑えるような規制が行われていた。それには例えば、ネズミが異常に多量死した家屋を一時的に放棄する措置なども含まれていた。 C. A. Gordon, An Epitome of the Reports of the Medical Officers of the Chinese Imperial Maritime Customs Service from 1871 to 1882 (London, 1884), p. 123 参照。この報告はゴードン大佐自身がペスト感染のしくみについて全く無知だったので、かえって甚だ興味深いものとなっている。

※8 Charles E. A. Winslow, Man and Epidemics (Princeton, 1952), p.206 によれば一九〇八年から一九五〇年の間に、アメリカ合衆国においては、野生の齧歯類からの感染がもとで、小規模の腺ペスト流行が少なくとも八回は起きている。ソ連では、ペストは公的に根絶したとされているが、様々な断片的証拠は、アメリカと同じような発生がここでも続いていることを強く示唆している。 Robert Politzer. Plague and Plague Control in the Soviet Union: History and Bibliography to 1961 (New York, 1966). pp. 6-8 参照。