著者:金 文京[きん・ぶんきょう](1952-) 中国文学。
NDC:811.25 漢字(訓点:送り仮名,返り点,ヲコト点)
【目次】
目次 [i-ii]
はじめに 001
駅で切符を買う――「券売」と「発券」
「改札口」の中国語・韓国語
東アジアの漢字表現
漢字文化圏の訓読現象
本書の構成
第一章 漢文を読む――日本の訓読
1 訓読とはなにか? 012
世界に例のない訓読
世界の共通語――ラテン語・アラビア語・漢文
東アジアの特殊な言語事情――孤立語と膠着語
音読み(呉音・漢音・唐音)と訓読み
訓読みの訓とは?
2 訓読と漢訳仏典 021
梵語・漢語・和語――漢訳仏典からのヒント
『日本書紀』の注釈法――「此云」という訓注
仏典漢訳の方法
梵語と漢語のちがいの自覚
廻文と訓読――訓読の原点
漢文訓読と仏典漢訳の密接な関係
仏典はなぜ翻訳可能か?――文字を作った三兄弟
翻訳の厳密性と訓読
3 訓読の思想的背景 038
梵漢同祖論から梵和同一説へ
本地垂迹説と訓読
漢文と訓読の対等な地位
4 草創期の訓読――奈良末期から平安中期まで 042
読むことと写すこと――記号使用以前の訓読
読み順を示す漢数字――語順符
語順符の起源(一)――陀羅尼の数字
語順符の起源(二)――科文と訓読
各種の記号を用いた訓読
送り仮名とヲコト点
ヲコト点の起源
5 完成期の訓読――平安中期から院政期まで 059
ヲコト点の読み方――『白氏文集』を例として
訓読文体の確立と秘伝性
6 訓読の新たな展開――鎌倉時代から近代まで 064
ヲコト点の衰退と新たな訓読方式の誕生
訓読に対する新たな考え方――直読への志向
留学僧と漢文能力の向上
朱子学の世界観と訓読
江戸時代の訓読
訓読廃止論――東涯と徂徠
訓読廃止論の限界と一斎点
7 明治以降の訓読 080
訓読方式の英語学習
梁啓超の逆訓読法
『和文漢読法』の功罪
ふたたび直読論
青木正児と倉石武四郎
注 089
第二章 東アジアの訓読――その歴史と方法
1 朝鮮半島の訓読 094
現在の韓国での漢文の読み方
諺解[げんかい]――ハングルと漢字による翻訳
朝鮮語の訓読み――『千字文』の読み方
語順符による訓読――朝鮮王朝時代
漢字の略体による訓読――仮名との共通性
訓読から諺解へ
朝鮮の諺解と日本の訓読廃止論
朝鮮通信使の訓読観
高麗時代以前の訓読――『旧訳仁王経』の場合
朝鮮半島と日本に共通の仁王会
2 新羅の訓読と日本の古訓点 114
新羅訓読の祖、薛聰[せっそう 설총]と日本
淡海三船[おうみのみふね]との交流
新羅伝来の仏典と一切経の勘経
日本の訓読の始まりと新羅
『華厳経文義要決』の訓点と韓国の角筆記号
3 朝鮮半島における訓読の思想的背景 125
新羅のインド求法僧と訳経僧
インド求法僧、訳経僧を兼ねた慧超[えちょう]
慧超の文体――『往五天竺国伝』
梵語と朝鮮語は似ている――『均如伝』の言語認識
均如と日本の因縁――高麗・日本の交流
均如の漢文訓読
朝鮮半島の国家観――朝鮮こそが震旦
震旦から震檀へ
朝鮮の開国とハングル・漢字混用文
日本からの訓読み逆輸入
それでも訓読はのこった?
4 中国周辺の訓読現象 149
契丹人の詩の読み方
契丹人の国家・言語観
契丹文字
高昌とウイグルの訓読
ウイグルと高麗
ヴェトナムの訓読現象
5 中国の訓読現象 164
中国にもある訓読現象
『三国志』の口語訳
中国の歴史と中国語の変化
直解――漢文の口語訳
現存最古の「直解」
異民族の漢文学習
注 173
第三章 漢文を書く――東アジアの多様な漢文世界
1 東アジアの詩の世界 178
東アジアの漢詩
共通言語としての漢詩・漢文
ホーチミンの漢詩
朝鮮の郷歌と日本の万葉歌謡
和歌・俳句と朝鮮の時調
契丹語の詩歌と漢詩
2 さまざまな漢文 189
中国の漢文と仏教漢文
変体漢文の分類
未熟漢文
和習(臭)漢文
朝鮮の変体漢文(一)――新羅の「壬申誓記石」
朝鮮の変体漢文(二)――新羅の「葛項寺造塔記」
日本の変体漢文――法隆寺「薬師如来光背銘」
日本と朝鮮の変体漢文の共通性――宣命体[せんみょうたい]と新羅の「教」
吏吐文による戯文
モンゴル時代の変体漢文
『老乞大』の漢児言語――口語としての変体漢文
日本の候文と中国の書簡体
実用文の広がり
福沢諭吉の通俗文と候文
東アジアの変体漢文
注 221
おわりに――東アジア漢文文化圏 223
漢字のさまざまな発音
漢文のさまざまな読み方
漢文のさまざまな文体
漢文文体の階層性
東アジアの漢文文化圏
注 230
あとがき(二〇一〇年七月 金 文京) [231-233]
図版出典・所蔵先 [9-10]
索引 [1-7]
【抜き書き】
□139-141頁
ここまでは、仏典漢訳からヒントを得た漢文訓読、またそこから生まれた梵語と自国語を同一視する 言語観において、朝鮮半島と日本はほぼ同じ道を歩んだと言える。あるいは朝鮮半島の方が時期的に早くこれらを生み出した事実から考えて、それが日本に伝わった可能性が特に訓読については高い。しかしここから、両者は別の道をたどることになる。
日本では、すでに述べたように、梵和同一説は、日本の神はインドの仏、菩薩の化身であるとする本地垂迹説、また天竺、震旦、日本の三国世界観と密接に連動していた。しかし朝鮮半島では、これとは別の展開をとげることになる。
『三国遺事』などに見える朝鮮の建国神話では、天上の桓因の庶子である桓雄天王が、太白山頂に天下り、熊の化身の女と結婚して生まれた子、檀君王倹[だんくんおうけん]が平壌に都を置き朝鮮を建国したということになっている。これは日本の天孫降臨神話と同じく、古代東北アジアのシャーマニズム的天神信仰を背景とするものであった。ところで、檀君の祖父である桓因とは、『長阿含経』などの仏典にみる釈提桓因、つまり帝釈天のことである。帝釈天は、もとヒンズー教の神であるインドラで、仏教に取り入れられ、須弥山[しゅみせん]山頂に住む仏法の守護神とされた。つまり朝鮮建国の祖は、帝釈天の孫ということになり、日本の本地垂迹説にくらべて、より直接的にインド、あるいは仏教との関係を説いていることになろう。
ついで日本では、天竺、震旦という中国仏教の世界観に、日本を加えることによって、三国世界観が作られた。しかし中華世界の冊封体制下にある朝鮮半島では、中国と対等の関係に自国を置くことはできない。そこで朝鮮半島では、これまたより直接的に、朝鮮こそが震旦であるという思想が現れるのである。
震旦とは、もともと古代インドで中国を指すCina-sthānaの音訳で、真丹、振旦などの表記もある。CinaはいうまでもなくChinaと同じで、古代秦帝国の秦に由来し、支那とも表記される。sthānaは土地を意味する。
当初これに「震旦」の二字を当てた意図はわからないが、後になって、唐の湛然『止観輔行伝弘決』巻四に引く琳法師(慧琳)の説に、「東方は震に属す、これ日出の方、故に震旦と云う」とあるように、「震」は『易』の八卦では東方に当たり、「目」は朝であるから、朝日が出る東方を震旦というのだという一種のこじつけが行われるようになった。震旦が日の出る東方ならば、朝鮮は中国よりさらに東方にある。しかも「旦」は「朝」である。そこで朝鮮の方が中国より震旦たるによりふさわしい、というさらなるこじつけが行われたのである。
十三世紀後半、高麗はモンゴル軍の侵入に対し、長年の抵抗のすえ、ついに降伏したが、国王の元宗は、モンゴルのフビライハーンからの召喚命令を受け当惑する。その時、風水師の白勝賢が、もし大仏頂五星道場を設けて祈れば、フビライの命令を退けられるばかりでなく、「三韓は変じて震旦となり、大国来朝す」、つまり高麗が震旦となって、大国中国、この場合はモンゴル)が逆に朝貢してくると進言した(『高麗史』巻百二十三「白勝賢伝」)。王はこの進言を受け入れ、道場で祈ったが、その甲斐もなく、結局はフビライのもとに赴いた。