著者:國分 功一郎[こくぶん・こういちろう] (1974-) 近世哲学(17世紀の)、現代フランス哲学。
装丁:松田行正 + 杉本聖士
シリーズ:ケアをひらく
NDC:104 哲学(論文集.評論集.講演集)
【目次】
プロローグ――ある対話 [002-006]
目次 [007-012]
第1章 能動と受動をめぐる諸問題 013
1 「私が何ごとかをなす」とはどういうことか 015
体に指示を出しているわけではない
歩き方を選んだわけでもない
そもそも意志が最初にあったのか?
どうなれば謝ったことになるか
2 「私が歩く」と「私のもとで歩行が実現されている」は何が違うのか 020
能動態だが能動ではない行為
だが受動でもない
意志という謎の登場
接続されつつ切断されたもの?
しかし「意志は幻想」では終わらない
3 意志と責任は突然現れる 024
叱られるか、褒められるか
意志は後からやってくる
アルコール依存なら? 薬物依存なら?
では殺人や性犯罪ならどうか
4 太陽がどうしても近くにあるように感じられる――スピノザ 030
行為は意志を原因としない
効果としての意志は残る
5 文法の世界へ 032
能動/受動の外部
能動態と受動態の対立は普遍的ではない
もともと能動態は中動態と対立していた!
「私が自分の手をあげる」から「私の手があがる」を引くと?
nothingをなぜ思い描くのか
第2章 中動態という古名 039
1 「中動」という名称の問題 041
中動態が先にあった
ではなぜこの名が?
2 アリストテレス『カテゴリー論』における中動態 043
古代ギリシアの文法研究
アリストテレス、一〇のカテゴリーの謎
バンヴェニストの推測
透けて見える中動態と受動態の位置づけ
3 ストア派文法理論における中動態 047
三つの類型がすでに提示されていた
「どちらでもないもの」としての中動態
4 文法の起源としてのトラクス『文法の技法』 049
今日まで影響を与え続ける最古の文法書
「動詞は…能動と受動を表す」
「能動と受動の対立」に従属するものとしての中動
5 エネルゲイアとパトスをめぐる翻訳の問題 053
エネルゲイアは「遂行すること」、パトスは「経験すること」
メソテースは「例外的なもの」
6 パトスは「私は打たれる」だけではない 056
「テュプトー」と「テュプトマイ」
「打たれる」から「悼む」まで
パトスはむしろ中動態を示す
7 メソテースをめぐる翻訳の問題――四つの例 060
「私はそこに留まっている」
「私は正気を失っている」
“完了”がもつ特別の地位とは?
「私は自分のために作った」
「私は自分のために文書を書いた」
メソテースは単に例外を名指している
メソテースがなぜ「中動態」とされてきたのか?
8 奇妙な起源 068
これは単なる誤読ではない
あるパースペクティヴがそれ自身によって強化されるプロセス
第3章 中動態の意味論 071
1 中動態に注目する諸研究――第三項という神秘化 074
自殺? 他殺? それとも……
神秘化するほど「能動/受動」図式は強化される
デリダとラカンもまた
2 中動態の一般的定義――なぜ奇妙な説明になるのか? 078
「利害関心」とはこれいかに
失われたパースペクティヴを求めて
3 中動態を定義するために超越論的であること 080
主語の被作用性――アランの着眼点
中動態は能動態との対比によって定義されなければならない
4 バンヴェニストによる中動態の定義 084
バンヴェニストはなぜ発見できたのか
「能動/受動」図式の悲鳴――形式所相動詞
中動態のみの動詞と能動態のみの動詞を比べてみる
「するかされるか」ではなく「内か外か」
能動態の例を検討する
中動態の例を検討する
「在る」「生きる」はなぜ能動態か
5 中動態の一般的な定義との関係 091
対立だけで説明できるのか?
6 受動態、能動態との関係 093
中動態から受動態が発生したメカニズム
四つのメソテースの例文再読
7 「中動態」という古名を使い続けること 096
「内態/外態」というクリアーな説明で何が失われるか
意志、ふたたび……
第4章 言語と思考 099
1 ギリシア世界に意志の概念はなかった 101
「奇妙な欠落」とは
能動態が中動態に対立している世界に「意志」はない
2 ある論争から 103
バンヴェニスト対デリダ
デリダの三つの批判
3 『カテゴリー論』読解への貢献――デリダの批判(a)に対して 105
重要な先行論文を参照していないという批判
中動態研究にとって重要な指摘
4 思考の可能性の条件としての言語――デリダの批判(b)に対して 108
分けられないものを分けているという批判
思考を言語に還元しているという批判
思考の「可能性」を規定するとはどういうことか
デリダはなぜ誤認したのか
5 哲学と言語――デリダの批判(c)に対して 114
ギリシア語の特殊性が哲学を可能にした――バンヴェニストの主張
ハイデッガー、存在論、ヨーロッパ ――デリダの印象操作
見当違いの言いがかり
成果はどちらに?
哲学は中動態の抑圧の上に成立した
第5章 意志と選択 121
1 アレントの意志論 123
きっかけはアイヒマン
参照先はアリストテレス
2 アリストテレスの「プロアイレシス」 125
理性と欲望だけでは説明できない
「選択」という契機を挟み込んだアリストテレス
3 プロアイレシスは意志ではない 127
意志と選択は違う
「意志」の場所=未来はあるか
「選択」は過去からの帰結に過ぎない
4 意志と選択の違いとは何か? 130
過去の要因の総合としての「選択」
過去を断ち切るものとしての「意志」
選択が意志にすり替えられてしまう
では意識の役割は?
5 意志をめぐるアレントの不可解な選択 135
意志を擁護する方向に進むアレント
意志が存在しえないことをアレント自身が証明してしまう
なぜそこまでカントを批判するか
「意志を否定する哲学を否定する」ことの効果は?
6 カツアゲの問題 140
自発か非自発か
脅されて金を渡すのも自発的行為?
7 「する」と「させる」の境界 144
フーコーの権力論
暴力は抑え込み、権力は行為させる
権力を行使される側に残される「能動態」
相手の自由を完全に奪っては便所掃除をさせられない
8 権力関係における「能動性」 149
「する」と「される」では説明できないこと
能動態と中動態の関係でこそ、権力は説明できる
9 アレントと一致の問題 152
アレントもまた暴力と権力を区別しているが……
権力と暴力は同居できるか
アレントは自発的でない同意は認めない
10 非自発的同意の概念 156
「仕方なくソバにする」をどう説明するか
自発性と同意は分けて考える
11 アレントにおける政治、意志、自発性 158
「仕方なく」を排除した先
「非自発的一致」の可能性へ
第6章 言語の歴史 161
1 動詞は遅れて生じた 164
先に名詞的構文があった
共通基語を足がかりに
名詞的構文の化石を探す
スピーヌムという化石も
2 動詞の起源としての非人称構文 169
it rains は「例外」ではなく「起源」である
動詞はもともと行為者を指示していなかった
「私に悔いが生じる」から「私が悔いる」へ
3 中動態の抵抗と新表現の開発 172
形式所相動詞
再帰的表現
4 出来事の描写から行為の帰属ヘ 175
出来事が主、行為者が従だった時代
出来事を私有化する言語へ
5 日本語と中動態 177
驚くべき論文
自動詞と受動態は、中動態を親にもつ兄弟である
バンヴェニストの三〇年以上前に……
6 自動詞と受動態 181
自動詞と受動態の兄弟関係が切り裂かれる
by での置き換えに「心を奪われてはならない」
中動態を担う「ゆ」
「自然の勢い」=自発の位置
7 「自然の勢い」としての中動態 185
煮え切らない細江の説明
「自発の勢い」が中動態の根底にある
力の度合いによって中動態は区分される
8 中動態をめぐる憶測 188
中動態は自動詞・他動詞・使役表現の培地
細江の言語史観は「能動態から中動態へ」
中動態が先にあった!? ――憶測的起源として
9 抑圧されたものの回帰 191
中動態が担っていた意味はどこへ?
中動態が顔をのぞかせるとき
行為の帰属を尋問する力とそこから逃れる力
言語――抑圧と矛盾のなかで蠢くもの
第7章 中動態、放下、出来事――ハイデッガー、ドゥルーズ 197
1 ハイデッガーと意志 200
転換点としてのニーチェ
「用具性」にひそむ意志
「覚悟性」「決断」と意志のねじれた関係
彼はなぜ意志を強く否定したいのか
2 ハイデッガーの意志批判 204
意志することは忘れること
意志することは考えないこと
意志することは憎むこと
3 「放下 Gelassenheit」 207
後期ハイデッガーのキーワード
意志と無思慮――ある対話から
意志からの脱却は可能か
「能動/受動」の外部に横たわるもの
謎めいた言い回しを中動態から解釈すること
失われた“態”を求めて
4 ドゥルーズ『意味の論理学』――その古典的問題設定 216
「雨が降る」をどう言うか
出来事の水準へ
存在はどのように言われうるか?
5 出来事の言語、動詞的哲学 219
出来事は能動的でも受動的でもない
出来事に先立って主語はない――可能世界論
動的発生の理論へ
6 動詞は名詞に先行するか? 223
ドゥルーズ、徹底した動詞優位論者
出来事が動詞を可能にする
「不定法礼賛」であることの意味
出来事を名指す動詞的なもの――動詞のイデア
第8章 中動態と自由の哲学――スピノザ 229
1 スピノザの書いた文法書『ヘブライ語文法綱要』 231
なぜそこまで文法に関心を示すのか
快活で喜びに満ちたスピノザ
2 動詞の七つめの形態――文法論 233
演奏そのものを書き起こす楽譜のように
自分自身で自分のところを訪れる
能動/受動の外側にあるもの
3 内在原因、表現、中動態――存在論(1) 236
神に他動詞はない
「表現」という概念を導入する
唯一の実体と、その変状としての「様態」
様態的存在論――アガンベン
神に受動はありえない――「される」ではなく「なる」
中動態だけが説明できる世界
4 変状の二つの地位――存在論(2) 243
スピノザの言う「能動」「受動」とは
変状――その二つの意味
能動と受動を単なる視点の問題に還元しない道はあるか?
5 変状の中動態的プロセス――倫理学(1) 248
人間はすべて受動ではないか?
外部刺激によって内部の変状が開始するプロセス
能動態→中動態という二つの段階を経る
6 スピノザにおける能動と受動――倫理学(2) 252
「変状する能力」が本質である
中動態としての「コナトゥス」
刺激を受け、変状し、自らに影響する
行為の「方向」の違いではなく「質」の差
これでカツアゲが説明できる!
7 能動と受動の度合い――倫理学(3) 258
純粋な能動にはなりえない
殴打はいつ受動になるか
どうすれば受動から脱することができるか
8 自由について 261
「能動と受動」から「自由と強制」へ
必然性に基づいた行動が自由である
自由は認識によってもたらされる
第9章 ビリーたちの物語
1 メルヴィルの遺作 266
2 キリスト、アダム 269
歴史を背負ったアダム
ビリーは思うように行為できない
3 ねたみの謎 271
クラッガートの側から読んでみる
引きつけられるがゆえのねたみ
相手に自分を見るとき、人はねたむ
クラッガートも思うように行為できない
4 歴史 277
ビリーという読者、クラッガートという読者
歴史的コンテクストによって読解は決まる
ヴィアの「錯乱」
ヴィアもまた思うように判断を下せない
人は自分で選んだことなどない
歴史の強制力――マルクスの言葉
5 彼らはいったい誰なのか? 286
アレントの読解
暴力的な善
人をつらい思いにさせる真理
自由ではいられないわれわれ
6 中動態の世界に生きる 292
自由へ近づくために
註 [296-325]
あとがき(二〇一七年二月 國分功一郎) [327-335]
【抜き書き】
□76頁
神秘化するほど「能動/受動」図式は強化される
能動態と受動態の対立を大前提としたうえで、それに収まらない第三項として中動態を取り上げるやり方が問題なのは、それがこの態を、不必要に特別扱いすることにつながるからである。それはしばしば神秘化の様相を呈する。特に哲学においてこの傾向は著しい。【註04】
哲学ではこの100年ほど、西洋近代哲学に固有の〈主体/客体〉構造が凝問視されてきたという経緯があるため、この構造を能動/受動の文法構造に重ねつつ中動態を称揚するという事例が散見される。
たとえば、近代的な〈主体/客体〉構造を乗り越えようとした代表的な哲学者はマルティン・ハイデッガーだが、その哲学を中動態の観点から論じたチャールズ・スコットやデイヴィッド・レヴィンらの論文はたいへん残念なことにあまり学ぶべきことのないものになってしまっている。【註05】
彼らが言っているのは――そして、彼らが知っているのは――能動態にも受動態にも属さない中動態があったということであり、そしてそれだけである。こうして中動態を神秘化すればするほど、能動態と受動態の対立は、日常感覚に根ざした普遍的な対立として強固になっていく。
註04
ロラン・バルトはバンヴェニストのすぐれた理解者であり、彼の中動態論を正確に把握しながら「書くは自動詞か?」(1966年)という一種の中動態論を展開している(Roland Barthes, Le Bruissement de la langue, Seuil, 1984/ロラン・バルト『言語のざわめき〈新装版〉』花輪光訳、みすず書房、2000年)。ただ、バルトの記述が中動態の比喩的な理解、「能動でも受動でもない中動」という理解への道を開く可能性をもっていたことも確かで、たとえばヘイドン・ホワイトはそのホロコースト論のなかで、ロラン・バルトのこの講演原稿だけを読んで中動態を論じ、「旧来の表象様式では適切に表象することができない」ホロコーストを表象する鍵をそこに見出しているが、これは単にホワイトが、バンヴェニスト等々の言語学者達の論文を読むのを面倒がって省いたがために得られた結論に過ぎない(ソール・フリードランダー編『アウシュビッツと表象の限界』上村忠男他訳、未來社、1994年、57-89頁)。
註05
Carles E. Scott "The Middle Voice in Being and Time", John C. Sallis, Giuseppina Moneta & Jacques Taminaux (eds.), The Collegium Phaenomenologicum: The First Ten Years, Kluwer Academic Publishers, 1988, p.159-173.
David Lewin, "The Middle Voice in Eckhart and Modern Continental Philosophy", Medie val Mystical Theology, The Eckhart Society, Vol. 20 (1), 1992, p.12-26.
後者はタイトルにエックハルトの名前があがっているが、ハイデッガーが論じたGelassenheit (放下)の起源としてエックハルトに言及しているのであって、実際にはハイデッガー論である。どちらも重要な問題提起をしていると思われる。だが、中動態をめぐる言語の歴史が考察されていないため、中動態を第三の態としてしか扱えていない点が非常に残念である。
ハイデッガーと中動態の関係をめぐって注目すべき論点を提出しているのは、ブレット・W・デイヴィスの『ハイデッガーと意志』(Bret W. Davis, Heidegger and the Will: On the Way to Gelassenheit, Northwestern UP 2007)で、これはハイデッガーにおける「精神」の語の用法を詳細に検討したデリダの『ハイデッガーと問い』に匹敵する仕事になっている。