著者:寺西 重郎[てらにし・じゅうろう] (1942-) 金融論、日本経済論。
【目次】
まえがき [i-xiii]
日本の資本主義、西洋の資本主義
「大きな物語」による考察
仏教的伝統とキリスト教的伝統
異なる世界観に立つ経済社会との共存共栄
本書の構成
目次 [xiv-xvi]
第1章 イギリスと日本の近代資本主義 003
第1節 グローバル資本主義と精神の相克 006
西洋以外に資本主義はない
アメリカの資本主義も「謎」が多い
金融資本主義をどう見るか
宗教に由来する行動様式が埋め込まれた社会
第2節 制度、技術、精神 016
商業資本主義と近代資本主義
近代資本主義の条件
技術的条件―― 二種類の「規模の経済」
精神的条件―― 労働の規律と規範
第3節 ウェーバーの予見した問題 030
プロテスタンティズムと禁欲的な職業労働
予定説とは何か
功利主義の倫理的基礎
ウェーバーの予見した現代資本主義の問題
ウェーバーの予見しなかった「ウェーバー的問題」
第2章 資本主義の精神の宗教的基礎 045
第1節 宗教と経済行動 050
宗教の変化発生の状況類似性
救済方法の違い
救済の結果
第2節 鎌倉新仏教の革新 063
大乗仏教における廻向の概念
易業化の社会的背景
天台本覚思想
鎌倉新仏教の登場
法然が採用した専修〔せんじゅ〕念仏
親鸞、道元、日蓮
易業〔いぎょう〕化の衝撃
身近な他者の重要性
第3節 室町・戦国の市場経済 092
大乗仏教の道徳律
在家信者のための道徳律
社会的分業の進展と宗教
一向一揆
「無縁」の空間論と一向一揆
戦国の社会
第4節 成長な準備した経済システム 113
求道主義の下での社会構造
萌芽的な商業主導の経済システム
戦国期までの成長制約と江戸期の高成長
第3章 高度成長期としての江戸時代 127
第1節 生産力の拡大と商業の発展 134
経済成長をもたらした江戸期のシステム
都市化と生活
海運の発展
地域間分業に基づく経済発展
生産システムの不変性
流通と商業・金融の発展
江戸の経済成長
第2節 仏教が支えた資本主義の精神 154
通俗道徳と廻向〔えこう〕
道徳律と職分
二宮尊徳の思想
石田梅岩の思想
制度化された不平等性にも逆説的な意義があった
武士階級の職分
第3節 儒教と資本主義 181
統治論と道徳思想
朱子学は日本社会の現実に合致したか
通俗道徳についての誤解
知識の世界市場という視点の重要性
第4章 西洋との出会い 193
第1節 産業革命なき経済成長 195
原型としての日本資本主義の精神
なぜ日本で自生的な産業革命が生じなかったか
西洋との接触――戦前期的対応
西洋との接触――戦後期的対応
第2節 戦後的対応とグローバリズム 208
「身近な他者 vs. 公共」と金融システム
職業的求道と労働市場のシステム
戦後の労働市場の激変
第5章 異種精神の相克と共存の時代へ 223
第1節 三つの資本主義の精神 227
キリスト教世界の資本主義の精神
仏教世界の資本主義の精神
儒教世界の資本主義の精神
三つの資本主義の精神
三つの資本主義の精神の進化
比較精神論から見た日本の資本主義の精神
死生観と自然観
第2節 日本型システムの可能性 250
資本主義の精神の収斂への動き
差異化と多様化
金融システム
労働市場
自由貿易 vs. 自由要素移動
あとがき(二〇一八年春 寺西重郎) [269-273]
参考文献 [275-281]
【抜き書き】
・Max Weberの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』における〈精神〉を、本書でどのように位置づけるかがわかる箇所。特に注釈。
pp. 16-18
第2節 制度、技術、精神
以下では、資本主義という経済システムが、それぞれの経済に与えられた文化的条件の下で、制度と技術および精神の三つの要素からなると考える。今や、産業革命に端を発する西欧の資本主義に由来する技術と制度は世界を覆っている。そこでは各国固有の精神に基づく経済行動様式が、西洋的な技術や制度にどのように向き合うべきかが問題となっている。明治の日本が経験し提起した西洋資本主義との遭遇・相克・調整の問題が、今や世界的規模で生じているのである。
この問題を分析するために、世界には、ウェーバーの見出したキリスト教由来の資本主義の精神だけではなく、各国の固有の文化的・宗教的背景を持った異種の資本主義の精神【※】があると考えよう。そのために、歴史的に見て資本主義自体にも多様な実現形態があったということの確認から議論を出発することにしたい。
※経済学ではずいぶん長い間、文化や精神が正面から問題とされることはなかった。最近になって、経済の効率や成長が、資本、労働などの生産要素や技術だけでなく、制度にも依存しているという認識が深まり、制度と文化に密接なかかわりがあるという認識(Alesina & Giuliano 2015)を通じて、この十数年あまりの期間では、文化にも強い関心が向けられるようになってきた。
経済分析における文化は、多くの論文でギンらの論文(Guiso, Sapienza and Zingales 2006)に従って定義されているようである。彼らは文化を、人種的、宗教的、社会的なグループが世代にわたって受け継いでゆく慣習的な諸信念と諸価値、として定義している。モキア(Mokyr 2017)もほぼ同様な定義を採用している。われわれもこれらにほぼ倣うことにしたい。
また制度については、人間の相互関係にかかわるフォーマルないしインフォーマルな行動に対する諸制約、という伝統的な定義に従おう。ノース(ノース 一九九四)は制度がゲームのルールとして国家など公的権力によって定められる側面を強調し、グライフ(グライフ 二〇〇九)は人々によるゲームの均衡として内生的に定まる側面を強調した。ノースの定義では、制度は単なる指図のようなもので、それ自体強制力を持たないという欠陥があることが、グライフによって指摘された。グライフの定義では、制度はゲームの均衡として定まる行動制約である。均衡では人々は主体的な最適状態にあるわけだから、制度はおのずから強制力を持つ。ノースの定義はフォーマルな制度に、グライフの議論はインフォーマルな制度に主としてかかわると言えよう。国家はフォーマルな制度を作り上げるとともに、それに人々が従うような執行を強制する制度も作らなければならない。フォーマルな制度はそれを執行させる制度をも備えたものと考える必要があろう。
文化と制度の相互的進化のなかから、経済社会に特徴的な行動類型が生み出される。文化が単独で人々の行動類型に影響を及ぼす場合と、制度の影響の下に行動類型に影響する場合とがある。行動類型は単なる慣習的なものから規範性を持つものまでさまざまである。行動類型のうち、資本主義の下で、規範性が高く社会の共有された行動規範として機能するものを、ウェーバーに従って、「精神」と呼ぶことができよう。ウェーバーは、資本主義の発生という制度変化の下で、文化(宗教)の変化が禁欲的行動を召命とみなす行動規範、すなわち「資本主義の精神」を生み出した、と論じたのである。
制度はフォーマルないしインフォーマルなルールとともに道徳律を重要な構成要素とする。キリスト教世界では、道徳律はもともと神が定めるものであったが、宗教の影響力が時代とともに低下するにしたがって、何を善と考えるべきかという問題が複雑化し、善を追求する努力は敬遠されるに至った。テイラー(テイラー 二〇一〇)の言う「薄い道徳律」の時代の到来である。これに対して日本では、仏教がもともと伝統的に備えていた道徳律は市場経済化の下では機能せず、江戸時代に至って、新しい規範性の強い道徳律の開発普及が、官民挙げての努力の下で進められた。近世における道徳律は、社会における人の道である倫理規範だけでなく、資本主義や職分の下での規範である、ウェーバーが精神と呼ぶ行動規範をも含む。グライフ(グライフ 二〇〇九)は、ルールだけでなく規範(道徳律)などをも含む制度の下で、人々の行動に規則性が生じることを強調したが、日本の江戸時代においては、フォーマルおよびインフォーマルなルールと道徳律からなる制度が行動に規則性をもたらし、行動規範を構成したのである。
・Ruth Benedictの『菊と刀』に言及する箇所。この評価が、学界で一般的なものかは分からない。私は同意しない。
pp.89-91
以上要するに、易行化により悟りを求める行為が現世の世俗世界に決定的に移ったため、日本では人々の経済的行動は、利潤や消費効用だけでなく、業と苦の連鎖にかかわっての身近な他者への配慮を軸になされることとなったのである。
日本人の経済行動の前提となる世界観は、先に述べたように古来の神道の連続的世界観を否定し、第3章で述べるように、中世以後には儒教の天道思想も結局は受動的な人間のあり方であるとして否定し、基本的に易行化の下の仏教の影響によって身近な他者の概念を基礎に形成されたといえよう。
このことは、キリスト教世界の世界観と極めて対照的である。キリスト教の世界では、被造物の神化の否定から身近な他者への関心は禁止され、また神の最大の関心事はその創造の成果の中心にある人類のあり方にあるとされた。このため神の栄光を高めることを目標とする人々の宗教生活では、人類の福祉や公共の厚生が常に中心的な目標とされ、自由な個人と公共世界からなる世界観が成立した。しかし易行化以後の日本において、人々がその世俗的な社会的経済的行動を行うにあたって意識したのは、身近な他者であって、人類や社会全体のあり方、公共世界が問題とされることはほとんどなかったと思われる【※】。日本の世界観は人類や公共世界でなく、身近な他者からなるのである。
※ 日蓮は、国家や宇宙全体に法華経の教えを広めることに意欲を燃やした。このことは日蓮思想の社会性と表現されるが、日蓮の考えにおいては、身近な社会とより広い国家などの社会は同質的であるということが重要である。仏国土建設のための布教の対象として、さまざまな広がりを持った社会が連続的に考えられただけであり、キリスト教のような被造物としての身近な他者と、神の栄光にかかわる公共社会ないし人類が異次元のものとして捉えられるということは、日蓮においてもなかったと思われる。
ルース・ベネディクト(二〇〇五)の、日本の文化は個人的つながりに立脚した恥の文化であるという命題も、こうした視点から評価される必要がある。ベネディクトは、地中海世界の文化人類学の研究者であり、主として江戸時代から戦前期にかけての日本人の行動に関する文献の記述から、日本人は恥と名誉の感覚を原動力として行動し、そこでの意思決定は身近な他人がどのように考えるかということに関する判断に依存している、と主張した。
ベネディクトの観察は驚くほど的確であるが、観察された行動がなぜ生じるかについてはほとんど答えていない。われわれの議論は、このベネディクトが残した問題についての答えを与えてくれると思われる。すなわち、身近な他者への関心の背景には、易行化の下に生まれた悟りの手がかりとしての業に対する探究があったのである。
またベネディクトは、日本人が極めて強靭な精神力を持っていたことを強調しているが、身近な他者に対する関心はもともとそれ自体が目的ではなく、その背後に、「世界の無常の構造」を理解するという求道行動における最終目標があったから、強い精神力につながった、と考えることができるのである。
さらに言うならば、悟りを求める意識は自己に対する厳しい視線を必要とする。したがって、日本人の他者意識は、単に他者だけが重要なのではなく、自らを尊敬の対象たりうるように鍛えあげるという強い意識、その結果として「心に心を恥じる」という自他の一体化の観念があったことが重要なのである。ベネディクトには、残念ながら、こうした点の理解がことごとく欠落している。