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『ニューロラカン――脳とフロイト的無意識のリアル』(久保田泰考 誠信書房 2017)

英題:Neuro Lacan: The real in the brian and the Freudian unconscious
著者:久保田 泰考[くぼた・やすたか](1967-) 精神医学。滋賀大学保健管理センター教授。
装丁:柴田淳デザイン堂
件名:Lacan, Jacques, 1901-1981
件名:精神分析
NDLC:SB35 科学技術 >> 心理学 >> 心理学説・心理学史 >> ゲシュタルト心理学,連合心理学,行動主義心理学精神分析
NDC:146.1 臨床心理学.精神分析


ニューロラカン - 株式会社 誠信書房

 ラカン対脳?! ――これまでラカニアンにとって脳を語ることは暗黙のタブーだった。しかし真にフロイトへの回帰を志向するなら、その神経学的基盤にも回帰せざるを得ず、要するにフロイトは元来ニューロフロイトなのだ。では、ニューロラカンを語る根拠はどこに見出されるのか。人はそこで『エクリ』におけるピンポイント攻撃というべき脳への正確な言及を思い起こすだろう。精神分析神経科学の交錯から明らかになるフロイト的無意識のリアルとは?


【目次】
目次 [i-iv]


導入に代えて、あるいは、どうしてあなたはラカンを読むのか(よりにもよって)? 001
  どうしてこんな書き方になったのか?
  誰がラカンを必要とするのか?
  あなたはどの程度ラカンを必要としているのか?
  ラカンは何をしたのか?
  フロイトは未だ読まれていない
  フロイト反復強迫
  フロイト精神分析を生き延びさせるために


第1章 最後の精神分析家 015
  最後の分析医?
  精神療法 VS 薬物療法
  誰がそれを恐れるのか?
  精神分析の幻想の未来
  ラカンへの回帰


第2章 夢の中のクオリア 027
  無意識のクオリア
  マトリックスと夢
  あなたはもうすぐ目覚める……
  REM睡眠と夢をめぐる論争
  私たちは意識体験において何を見ているのか?
  光学装置と主体
  もう一つの場所
  デジタルイメージにおける無意識


第3章 もし意識がなかったら、神経症は存在しないだろうか? 047
  一九五〇年代の「脳科学的」精神分析
  ジャクソン――神経システムのアナーキー
  精神病は無政府状態ではない
  何が進歩したのか?
  側頭葉てんかん扁桃体、ネガティブなクオリア
  発作を起こすドストエフスキー
  父の死後、何も許されない


第4章 意識・サブリミナル・無意識 065
  パラパラ漫画とストロボ(回転)円盤
  運動を視る脳
  アニメーションの極限
  意識体験を編集する
  皮膚電気反応――意識されない精神過程の指標
  「ヘビだ!」
  無意識の発見・サブリミナルの発見
  意識の時間性と解釈
  運動=行為の時間知覚と解釈


第5章 精神病・シニフィアン・意味 085
  パリ・ラカン派の精神科医たち
  ラカン派の「臨床」などない?   
  精神病という存在
  「精神病治療技法論」などない
  幻聴と「あなた」   
  難聴の精神病患者たち
  幻聴の神経基盤   
  ほんとうにそれは聴こえているのか?
  シニフィアンと脳
  幻聴をイメージする
  幻聴はバーチャルリアリティーではない


第6章 言説の「外」――パラノイア自閉症論の現在 105
  「人間」の権利
  シュレーバーは何者だったのか
  「望んでも狂者にはなれない」
  自閉症と精神病


第7章 もし言語がなければ統合失調症はないだろうか1  121
  統合失調症の「神話学」
  古典的な言語障害と意味処理のネットワーク
  言説における異常
  「排除」という想定と、その影響のもとにある存在
  意味の限界へ


第8章 もし言語がなければ統合失調症はないだろうか2 139
  「初期の精神分裂病」の症例
  表象の意識化というオペレーション
  脳は意味である
  「穴は穴である」、あるいは「全部言葉だべ」
  どこまで行けば、言葉から自由になれるのか


第9章 死の欲動論1 159
  生命と渦巻き
  結晶と死
  「フロイトの生物学」という困難
  ゾウリムシの「性と死」
  エントロピー・熱力学・情報
  死の欲動の臨床
  革新される精神分析


第10章 死の欲動論2 181
  フロイトと戦争
  神経回路における思考、ボルツマン的な無意識
  トラウマと反復
  見られるものとしての私
  アヴァター ――仮象としての自我
  自我、無意識、脳
  「死の欲動」の未来
  フィナーレ


あとがき、あるいはその体裁をとったもうひとつの導入(二〇一六年一一月二五日 パリにて) [206-208]
文献 [209-226]
索引 [228-232]





【抜き書き】


p. 88

 つまり、ラカン派の精神分析の主役は、入院する必要も、薬物療法の切迫性もなく、世界でそれなりに自立して生活する人々である。それは、分析理論でさしあたり「神経症」とカテゴライズされる人々であり、入院治療やシェルター、グループホームなどの福祉サービスの対象となる、比較的重い精神疾患の人々ではない。
 「神経症」という言葉について、もう少し説明しておこう。やや乱暴な説明だが、ラカン派がこのカテゴリーを使うとき、それは「普通の人」というのとニュアンスの上でほとんど違いはない。