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目次とメモを置いとく場

『ゾミア――脱国家の世界史』(James C. Scott[著] 佐藤仁[監訳] 池田一人ほか[訳] みすず書房 2013//2009)

原題:The Art of Not Being Governed: An Anarchist History of Upland Southeast Asia
著者:James C. scott(1936-) 政治学。人類学。
監訳:佐藤仁[さとう・じん](1968-) 文化人類学、国際関係論。
池田 一人[いけだ・かずと] 大阪大学大学院言語文化研究科講師。
今村 真央[いまむら・まさお] シンガポール国立大学地理学部。ハーヴァード・イェンチン研究センターフェロー。
久保 忠行[くぼ・ただゆき] 日本学術振興会特別研究員(京都大学東南アジア研究所)。
田崎 郁子[たざき・いくこ] 日本学術振興会特別研究員(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)。
内藤 大輔[ないとう・だいすけ] 総合地球環境学研究所特任助教
中井 仙丈[なかい・せんじょう] チェンマイ大学人文学部講師。同大日本研究センター副所長
カバーデザイン:川添 英昭[美術出版社 デザインセンター]
NDC:316.82 民族・人種問題.民族運動.民族政策

ゾミア―― 脱国家の世界史

ゾミア―― 脱国家の世界史

【目次】
題辞 [i]
凡例 [ii]
目次 [iii-vii]
はじめに [ix-xix]


I:山地、盆地、国家――ゾミア序論 001
周縁の世界 003
最後の囲い込み運動 004
臣民を作りだす 009
「ゾミア」――偉大な山の王国、もしくはアジア大陸部の跨境域 013
避難地帯 022
山地と平地の共生史 026
東南アジア大陸部のアナーキズム史観に向けて 033
政治秩序の基本単位 036


II:国家空間――統治と収奪の領域 041
国家空間の地理学と地勢の抵抗 041
東南アジアにおける国家空間のマッピング 051


III:労働力と穀物の集積――農奴と灌漑稲作 065
人口吸引装置としての国家 065
国家景観と臣民の形成 074
「読みにくい」農業の撲滅 078
多様性のなかの統一 ――クレオールセンター 080
人口支配の技術 085
  奴隷制 
  財政面の把握しやすさ 
  自壊する国家空間 


IV:文明とならず者 099
平地国家と山地民――双子の影 100
野蛮人への経済的な需要 106
創られた野蛮人 111
借り物の装飾品をとりこむ 113
文明化という使命 117
規範としての文明 121
国家を去り、野蛮人のほうへ 123


V:国家との距離をとる――山地に移り住む 129
他の避難地域 132
ゾミアに移り住む――長い歩み 139
避難の遍在とその原因 144
  課税と賦役 
  戦争と反乱 
  略奪と奴隷売買 
  山地へ向かう反逆者と分派 
  国家空間における過密、健康、生態環境 
  穀物生産に逆らうように 
  距離という障壁――国家と文化 
  乾燥地の小ゾミア、湿地の小ゾミア 
  野蛮人のほうへ 
  アイデンティティとしての自律、国家をかわす人々


VI:国家をかわし、国家を阻む――逃避の文化と農業 181
ある極端な事例――カレンの「避難村」 182
なにより場所、つぎに移動性 185
逃避農業 190
  新大陸の視点 
  「逃避型農業」としての移動耕作 
  逃避農業としての作物選択 
  東南アジアの逃避焼畑 
  東南アジアの逃避作物
    トウモロコシ
    キャッサバ/マニオカ/ユッカ 
逃避の社会構造 207
  「部族性」 
  国家らしさと永続的上下関係の回避
  国家の影で、山地の影で


VI+1/2:口承、筆記、文書 221
筆記の口承史 222
読み書きの偏狭性と文字喪失の前例 225
  筆記の欠点と口承の利点
  歴史をもたないことの利点


VII:民族創造――ラディカルな構築主義的見解 241
部族と民族性の矛盾 241
他民族を吸収して国家を作る 248
低地をならす 254
いくつものアイデンティティ――穴だらけ、複雑、流動的 256
ラディカルな構築主義――部族よ、永遠なれ 260
部族を作りだす 263
家系の体面を保つ 269
立ち位置 274
平等主義――国家の発生を防ぐ 276


VIII:再生の預言者たち 287
生まれつきの預言者、反乱者――フモン、カレン、ラフ
  フモン
  カレン
  ラフ
周縁と疎外の弁神論 297
無数の預言者たち 299
「遅かれ早かれ」 301 
高地における預言運動 306
対話、模倣、つながり 309
臨機応変――究極の逃避型社会構造 315
民族合作の宇宙論 319
キリスト教――隔たりと近代化のための資源 323


IX:結論 329
国家をかわし、国家を阻む――グローバル-ローカル 333
撤退の諸段階と適応 337
文明への不満分子 340


用語解説 [345-350]
小さき民に学ぶ意味――あとがきに代えて(二〇一三年九月 佐藤仁) [351-363]
  歴史の主人公はだれか
  現場の人、スコット
  『ゾミア』と日本
  文明の鏡
  翻訳の経緯
原注 [viii-lxxvii]
索引 [i-vii]





【メモランダム】
・キーワードが多い本なので分類に迷った。文化人類学、フィールドワーク、政治学アナーキズム、東南アジア史、東南アジア地域研究……。

Wikipediaには本書についての記事があり、末尾には、書評へのリンクが数本だけまとめられている。





【抜き書き】

無文字社会と口伝を扱う VI+1/2 章から何箇所か抜き出した。著者の仮説はなかなかスリリング。注釈も面白い。


・(pp.225-226

◆読み書きの偏狭性と文字喪失の前例
  通常、文明の語りにおいては、読み書きの喪失や放棄の話は出てこない。読み書きの習得は、移動農業から水稲耕作への移行や、森に暮らす小集団から村、そして町から都市への移行と同様に、後戻りのできない片道切符のようなものにたとえられている。しかし前近代社会において読み書きができる人口は、最も理想的な環境の下でも一パーセントにも満たなかったことはほぼ確実である。漢民族の場合、読み書きは書記官や高位の聖職者、またはごくわずかな層の学者に限られた社会的資産だった。こう考えると、社会全体に読み書きが普及していたと主張するのは正しくない。すべての前近代社会において圧倒的多数の人々は、文書の影響を受けた口承文化のなかで暮らしていたが、文字を知らなかった。多くの場合、読み書きは一握りの人口によって命脈を保ってきたといっても誇張ではない。読み書きは僅かな数のエリートたちに限られていただけではなく、その社会的価値は出世の手段や地位の証となる国家の官僚制や組織化された僧侶集団、そしてピラミッド型の社会組織に依存していた。つまり、これらの諸制度の構造を脅かす出来事は、それが何であれ読み書きを脅かすものに他ならなかった。

・文字にされた歴史のもつ効用と、(一義的に書かれた文書の)欠点について(pp.228-229)

  ◇筆記の欠点と口承の利点
  筆記の喪失に関するここまでの議論で指摘してきたのは、読み書きができる者の消滅と、彼らの技能に価値を与えていた文脈の消失には表裏一体の関係があった、ということだった。もう一歩踏み込めば、さらに強力な議論を唱えることができると私は考える。つまり、筆記の伝統にくらべて口承文化は、柔軟性と適応力の面で明らかに優れているということである。
  議論の便宜上、秘密の文字と銘文を魔術的効果を狙って利用する場合を除外して考えることにする[15]。魔術的な文字は、ゾミアのいたるところで見られる。まじないや祈蕎に用いられる文字と記号には「世界に対して働きかける」ことが期待された。そうした文字や記号は、身につけられたり、刺青として身体に彫りこまれたり、僧侶や呪術師によって授けられたりすることで、強力な護符として作用する。これらは書きことばの象徴的な力を証明するもので、それ自体研究の価値があるものの、本章で議論される筆記とは異なっている。また口承文化のための覚書としてのみ使われるゾミアの文字も議論の対象から除外する。例えば湖南省南部のヤオ/ミエンは、漢民族による支配以前から、自分たちの悲嘆を忘れないように布にぬいこむ素朴な文字をもっていたとされる。このように耐久性のある文献もなければ、文学や記録文書もない限定されたかたちの読み書きは、口承が支配的な文化のなかに読み書きがとりこまれた例としては魅力的だが(まるでホメーロスが文字をもっていて、『オデュッセイア」のなかの難しい一節を記憶したり、暗唱したりできたようなものだ)、本章では取り上げないことにする。[16]
  特殊で限定された筆記の存在は、文書〔テキスト〕というものが広い意味でさまざまな形態をとりうること、そして書物や書類はそのうちの二つにすぎないことを再認識させてくれる。すべての階級制が世代を超えて持続するには、権威と権力を主張する「文書」が生みだされなければならないと断言したい。そうした文書は筆記以前には、王冠、紋章、トロフィー、マント、頭飾り、王位を表す色、護符、家宝、石碑、記念碑といった物質的な形態で存在したかもしれない。国家は権威と権力を示す文書を最も貪欲に求め、自らの永続性の証として、そうした文書を大量に生みだすのだ。初期国家は、永劫の権力を主張するために、石版に文字や象形文字を刻みこんだ。
  記念碑や書かれた文書の主な欠点は、他の文書より恒久的であることだ。もちろん絶対なわけではないが、そうした文書は石碑としていったん建立されたり書き留められたりすると、いつ何時「掘り起こされる」かわからない不変の社会的化石になる。それが誰かの生誕にまつわる伝説であろうと、移住の物語、系譜、さらに聖書やコーランのような経典であろうと、いかなる文書も書きとめられることで、ある種の正統性を主張できるようになる[17]。もちろん文意が完全に明解であることはありえないので、複数の文書が競合すれば解釈の幅は広がる。とはいえ文書自体は解釈を行う際の定点になる。つまり蓋然性の低い解釈が生まれるのだ。いったん解釈に異論のない文書が現れると、それは正統な解釈からのズレを判定するための目安となる[18]。この過程は、対象となる文書が権威あるものとみなされる場合に最もよくみられる。例えばある文書のなかで、ある人々が特定の場所を発祥地として、低地の王が課した不公平な税を逃れるために脱出し、特定の旅路を経て、特定の守護神を奉り、死者を特定の方法で葬った、と主張されているとしよう。そうした文書の存在そのものが重要な帰結を招くことになる。というのも、こうした文書の存在によって、正統かつ標準的な物語が発達してくるからだ。標準となる物語を文書から直接導くことができるということは、文書を読むことができる識字階級にとって有利である。その後のどんな解釈に対しても、基準となる解釈との整合性によって、異説の幅が規定される。これとは対照的に、口承文化においては、話されたことが信頼できるかどうかを典拠の確かな書かれた文書から導くことができない。
  さらにそのような文書は同類の文書と同じく、作られたときの歴史的背景を反映している。そうした文書は、「ある関心に導かれて」書かれた歴史的な立場を示すものである。文書が作られた当時は、ある集団にとって有利な歴史解釈を認める役割を果たしたものが、状況が一変して、その解釈が不都合になってしまったらどうなるだろうか。もし昨日の敵が今日の味方に変わったとしたら、どうだろうか。文書が十分に多義的であれば、辻褄を合わせるための再解釈が可能だろう。さもなければ、焼却されたり廃棄されたりすることになる。もちろん記念碑の場合にはそうはいかないので、特定の名前や記録されている出来事が削りとられるだろう[19]。固定化された解釈は時間がたつにつれて、外交を成功させるための手段ではなく、落とし穴や障害にもなりうることは容易に想像できる。[20]
  一般的に山地民や国家に属さない人々にとって、筆記と文書の世界は、国家と切り離せない関係にある。

[15]それゆえにヤオ/ミエンは、中国の皇帝ととり交わしたとされる聖なる条約文書と中国の風水に必要なわずかな漢字をもっていた。中国貴州省少数民族である水(スイ)は絵文字をもち、それを占いと風水の儀礼に用いている。Jean Michaud, Historical Dictionary of the Peoples of the Southeast Asian Massif (Lanham, Md.: Scarecrow, 2006), 224.

[16]17世紀初期のポルトガル人は、フィリピン南部、スマトラ島スラウェシ島の住民の識字率が男女を問わず高いことを知った。驚いたのは、彼らが当時のポルトガル人よりはるかに読み書きに通じていたことだけではなかった。この住民たちの読み書きは、宮廷、文献、税制、貿易の記録、公教育、法的な争い、記述された歴史とは関連がなかったのである。彼らの読み書きは、もっぱら口承の伝統に役立つかたちで用いられていたようだ。例えば、呪文や恋人に捧げる詩(両者は本質的に同じもの)を貝葉(ヤシの葉)に書きとめ、記憶したり朗読したり、それを綴ったものを求婚の儀礼として愛する者に送ったりした。これは読み書きの形式として実に興味深い事例であり、通常関連があるはずの国家形成の技術からは完全に独立しているように思われる。以下を参照。Anthony Reid, Southeast Asia in the Age of Commerce, 1450-1680, vol. 1, The Lands Below the Winds (New Haven: Yale University Press, 1988), 215–229.

[17] ロイ・ハリスの説得力ある主張によれば、筆記はたんに発話されたことばを「書き留めた」ものとはまったく異なる。以下を参照。Roy Harris, The Origin of Writing (London: Duckworth, 1986); Rethinking Writing (London: Athlone, 2000). これらの参考文献を教えてくれたジェフリ・ベンジャミンに感謝したい。

[18]そのほとんどが解読されていないとはいえ、イギリス北部にあるピクト人のシンボルストーンにも同じような特徴が見られる。シンボルストーンは明らかに領土に関する恒久的な権限の主張を狙ったものである。当時、それらの石がどのような意味をもっていたのかははっきりしていない。しかし、シンボルストーンの意味を否定するためには、それに対抗するテキスト、つまり反証として解釈できるようなシンボルストーンを生み出さねばならなかったはずだ。

[19]James Collins and Richard Blot, Literacy and Literacies: Text, Power, and Identity (Cambridge: Cambridge University Press, 2003), 50 et seq. 歴史を物理的に消し去ろうとした最近の試みのなかでも最も劇的な事例は、アフガニスタンバーミヤーン渓谷にあった2000年前の仏像がタリバンによって爆破された例である。

[20]都合の悪い物理的な記録を抹消して記述や記念碑を消去する状況の一例が、ローマの記録抹殺刑の伝統である。ローマの元老院は裏切り者や共和国の名誉を傷つけたとされる市民や護民官に関するすべての記述と記念碑を破壊した。しかし当然ながら、記録抹殺刑の存在そのものは公的なので、書き留められ、正式に記録されたのだ! エジプト人は、記録から消し去りたいファラオについて書かれたカルトゥーシュと呼ばれるヒエログリフを破棄した。ソヴィエトでは、1930年代の粛清の際に、スターリンと対立したすべての党員の姿が編集によって写真から削除された。



・口承伝統と筆記伝統の差異(pp. 231-233)

  国家をもたない読み書き以前の状態、またはそれを棄て去った後の状態にいる多くの人々にとって、読み書きと筆記の世界は、たんに自分たちの無力と無知とそれに伴う負の烙印を想起させるだけではない。それは同時に差し迫った危機をも示していた。国家権力と密に結びついた筆記の習得は権力を強化する一方で、簡単に無力化されてしまう。筆記と識字を拒絶したり捨てることは、多くの民族にとって国家の手の届かないところに留まるための戦略のひとつである。書きことばより「官僚に成文化させない知識」に頼るほうがはるかに賢明というわけだ。[26]
  国家なき人々は強力な低地国家の隙間に入り込むように暮らしているので、適応力、模倣力、再発明力、順応力が生き残りのための重要な技術になる。そのため口承に基づくその土地の文化はかなり魅力的な選択肢だ。口承文化においては、権威のある系譜や歴史的な正統性を保証する絶対的な基準がひとつであることはない。口承による描写に複数の解釈ができる場合、そのうちのどれを信じるべきかは、それを語る「語り部」の地位と説明が聞き手の利害と趣向にどれだけ一致しているかに左右される。
  口承の伝統は、少なくとも二つの理由から、筆記の伝統よりも本質的に民主的である。まず読み書きの能力は、語る能力の分布にくらべ狭く偏っていることが多い[26]。さまざまな口述史のどれが正当であるかを容易に「裁定する」手立てはまずない。書かれることで固定化され、語りの真実性を比較可能にしてくれるような文書も存在しない。口承による意思疎通の対象範囲は、「公認」の語り部によるものでも、その場に集まって顔をつき合わせられるくらいの規模の聴衆に限られる。発話された言葉は、言語がそうであるようにある種の集団的活動の産物であり、伝達された時点ですぐに「その「意味」が世の中の人々に行き渡るには、さまざまな大きさの社会的集団全体に言葉を介したやりとりが習慣としてあらかじめ共有されていなければならない」[28]。ある種のパフォーマンスである発話されたテキストは、保存されて書きことばに閉じこめられた瞬間から、元々の意味に不可欠なリズム、音調、小休止、伴奏される音楽やダンス、聴衆の反応、肉体や顔の表情といった発話特有の性質をほとんど失ってしまう[29]。
  実際、口承史と語りには「原型〔オリジナル〕」という観念が全く当てはまらない[30]。口承文化は、聴衆に対して特定の時間と場所で演じられる一回かぎりのパフォーマンスのなかにのみ存在し、それを通じてのみ維持されてゆく。もちろん、口承を語って聞かせることがパフォーマンスのすべてというわけではない。パフォーマンスには、舞台、身振り手振り、語り部の表情、聴衆の反応、その場の雰囲気が含まれている。そのため口承文化には、放っておくと消えてしまうその場かぎりの現時性がある。もしそれが聞き手にとって関心の対象ではなく、何の役にも立たないのであれば、語りはそもそも成立しないだろう。これとは全く対照的に、書かれた記録は千年のあいだひっそりと存在していても、突然掘り起こされて、権威づけに利用されることがある。
  このように、口承伝統と筆記の伝統との関係は、焼畑農業と灌漑水田稲作の関係や、小規模で拡散した親族集団と人口が密集した定住社会との関係と同じようなものである。口承伝統は「クラゲ」のように姿かたちを変え、柔軟な形態の習慣、歴史、規則をもっているのだ。口承伝統は、長い時間の流れのなかで内容や強調点を変化させるという、ある種の「ゆらぎ」を許容する。いうならば、利害関係に基づく集団史の戦略的再調整を可能にする幅があり、その幅のなかで、省略される出来事や強調される出来事、そしてただ「記憶される」出来事が作り出されていく。共通の背景をもつ集団が二、三のグループに分裂し、それぞれが異なる物質的環境におかれれば、口承史も同様に多様化すると想像できる。異なる口承伝統は、互いの影響が感じられないほど離ればなれになるにつれて、共有された筆記による文書ならば示すことのできる参照点を失ってしまう。つまりそれに基づいてそれぞれの伝統がかつての共通の物語からどれほど離れ、お互いがどのような違いをもつに至ったかを測る基準を失うことになる。口承伝統は、繰り返し語られることで受け継がれ、伝達される過程で様々な解釈を上塗りしてゆく。物語は、その時々の関心、権力関係、隣接する社会や血縁集団に対する見方に影響される。バーバラ・アンダヤのスマトラ(ジャンビとパレンバン)における口承伝統の研究は、このような自己調節と修正の過程をとらえている。「共同体における暗黙の合意のもとに、現在と関係のない詳細は伝説から抜け落ち、先祖に関する伝承として新たに統合された要素にとって代わられる。こうして過去は継続的に意味をもちつづけることになる」[31]。
  口承であっても、集団が望むなら、何世代にもわたり忠実に情報を伝達できる。セルビアの口承史詩、さらにはホバーロスの叙事詩に関する画期的な研究によって、吟遊詩人の伝統が明らかにされている。それによれば吟遊詩人は、韻、韻律をそらんじ、徒弟関係のなかで長いあいだ修業することによって、非常に長い文節を原文に忠実に伝承することができる[32]。アカには、教師であり語り部でもあるピマという特殊な階級があり、彼らは儀礼の際に非常に詳細な物語を唱えることで、長い系譜、歴史的な大事件、慣習法を保存している。かなり異なる方言をもち、広域に散らばっているアカの諸グループが、ほとんど同一の口承による物語を守ってきたという事実が、そうした技術の有効性を物語っている。さらに驚くべきことだが、アカとハニは八〇〇年以上も前に分裂したにもかかわらず、お互いに容易に理解可能な口承の物語を保存してきた。[33]

[26]Mandy Joanne Sadan, History and Ethnicity in Burma: Cultural Contexts of the Ethnic Category “Kachin" in the Colonial and Postcolonial Strate, 1824-2004 ([Bangkok], 2005), 38. 以下を引用。T. Richards, "Archive and Utopia," Representations 37 (1992), special issue: Imperial Fantasies and Post-Colonial Histories, 104-35. 引用は108、111ページ。

[27] 明らかな例外については本章の後半で検証する。歴史、伝説、系譜がある特定の小規模集団のあいだでのみ語られる場合である。

[28] Eric A. Havelock, The Muse Learns to Write: Reflections on Orality and Literacy from Antiquity to the Present (New Haven: Yale University Press, 1986), 54. ハブロックは付け加える。「聞き手が芸術家をコントロールしているというのは、つまり、芸術家は聞き手が記憶でき、さらに日常的な言葉で繰り返すことができるように話を構成しなければならないからだ……ギリシア古典劇で用いられる言葉は、娯楽であるだけでなく、その社会を支えていた……言葉遣いがその機能的な目的を雄弁に語っている。つまり目的は共通のコミュニケーションを提供することであって、しかもそのコミュニケーションはその場かぎりのものではなく、歴史的、倫理的、政治的に重要なものだったのだ」(93ページ)。

[29] ソクラテスは自分の教えを書き留めると、その意味と価値が失われてしまうと考えた。それに対してプラトンは、発話を不安定で、自然発生的で、即興的なものだと考えたため、劇や詩に対して非常に懐疑的であった。

[30] Jan Vansina, Oral Tradition as History(London: James Currey, 1985),51-52. セルビア叙事詩に関する古典的資料は以下。この資料から、叙事詩の詠唱について多くのことを知ることができるし、古代ギリシア叙事詩にについて推測することもできる。Alfred Lord, The Singer of Tales (New York: Atheneum, 1960).

[31] Barbara Watson Andaya, To Live as Brothers: Southeast Sumatra in the Seventeenth and Eighteenth Centuries (Honolulu: University of Hawai'i Press, 1993), 8.

[32] リチャード・ジャンコによれば、「読み書きのできないボスニア吟遊詩人」が1950年代にはまだ1550年代のスレイマン大帝の業績を歌っており、ケオス島の吟遊詩人は、西暦1627年に隣りのサントリーニ島が大噴火した(が、ケア島の住人は無事だった)ことを覚えていたという。Richard Janko, "Born of Rhubarb," review of M. L. West, Indo-European Poetry and Myth (Oxford: Oxford University Press, 2008), Times Literary Supplement, February 22, 2008, 10.

[33] Von Geusau, "Akha Internal History," 132.


・(pp. 234-236)

  口承伝統のわずかなゆらぎは、けっして皮肉っぽく加工されたわけでも丸々でっちあげられるわけでもなく、信憑性なと気にも留めない吟遊詩人が無自覚に引き起こすことが多い。このゆらぎは、その時点で重要だったり関連が強い叙述を、選択的に強調または省略することで生じる。口承伝統は、しはしば同じ基本要素を共有しつつも、組み合わせ方、強調の直き方、道徳的な意味合いの違いによって異なる意味になるため、ありあわせのものを器用に組み合わせるブリコラージだと呼ぶことができる[37]。〔……〕ここで言いたいのは、戦略的に特定の先祖を選択し強調するだけで、現在の同盟を正当化する血縁関係を成立させてしまうことができるということだ。このように考えると、込みいった系譜というのは、通常は隠れているものを必要とあれば呼び覚ますことができる縁故を記した膨大な目録なのである。社会環境が不安定になるほど、集団間の軋轢と組み換えは頻繁になり、普段は陰に隠れている先祖が呼び覚まされて利用されるようになる。ベルベル人は、政治、放牧の権利を正当化する場合にはもちろんのこと、戦争に必要なほとんどいかなる同盟を正当化する際にも、自由自在に系譜上の根拠を作り出すことができるという[38]。
  これとは対照的に、書き記された系譜とは、口承系譜のなかのひとつを時間から切り離して固定化し、将来の世代が利用できるようにしたものである。日本で初めて書かれた政治的記録である古事記は「真実ではないこと」が取り除かれて記憶された上で公式の伝統の礎となる文書として書き残されたものである。古事記は神話と天皇家の系譜史である。その目的は間違いなく、多くの口承伝統から選択的に都合のよいものを成文化し、それを不変で神聖な歴史として布告することであった[39]。これによって、異なる解釈をとる物語は異端とみなされただろう。公式な王朝の系譜の創出は、他の地域でも政治的中央集権化の動きと軌を一にしてきた。マカッサルにあった多くの弱小王国のひとつが覇権にまでのぼりつめたのは、戦いに勝利したことがきっかけだったが、その後、彼らは一族の半神半人性の証を書き記し、系譜として公布し、覇権を強化した[40]。古代に書き記されたほとんど系譜は、口承だけでは揺らいでしまう主張を安定化させるために用いられた。古代スコットランドで初めて文書化された系譜を調べたマーガレット・ニーケは、口承による系譜と記述された系譜のあいだの違いを次のように捉えている。

口承社会の伝統のなかでは……どんな主張でも、外部にはその正当性を立証する術がほとんどなかったため、意図的に証拠を粉飾することで、自分たちに都合のよい系譜を簡単に作成できた。特定の個人や家族の権力を維持するには、文書として記録することが必要で、そうすれば系譜はそれまでよりずっと確かになった。そのため、そうした個人の権力と地位に反する主張を捏造しようとすれば、現状の系譜リストとともに、別の系譜を作るための技術も入手する必要があった。[41]

  系譜と同じように、歴史にも取捨選択があるといえるだろう。選択、強調、省略の可能性は無数にある。ありきたりな例だが、米国と英国の関係をとりあげてみよう。実際には、米国は英国と二度戦っているが(独立戦争と一八一二年の米英戦争)、二〇世紀以降の両国は世界大戦と冷戦で同盟国であったため、この事実は一般には強調されない。もし現在、米国が英国の敵であれば、二国の関係史は現在とは違ったかたちで描かれただろうことは想像に難くない。
  このように、記述された歴史と系譜を解釈する際にも、口承による歴史や系譜がそうであるように、選択の余地は多くある。両者の違いは、口承伝統でみられる選択的な忘却と記憶が、書かれた歴史で同じことをするのにくらべて、目立たず自然に感じられることである。口承伝統では新しいものに対する抵抗が少なく、実際にはかなり目新しいことでも、伝統的な語りとしてやすやすと取りこまれ、矛盾を感じさせない。

[37] マレー世界になじみがあればご存知だろうが、同じようなことはハン・トゥアとハン・ジエバットというマレー人兄弟に関する古典的な物語でもみられる。それぞれが現在のマレー国家に対して根本的に異なった政治的な意味あいをもっているハン・トゥアとハン・ジェバットはともにマレー世界の英雄。ハン・トゥアは15世紀のムラカ王国の勇猛な将軍。ハン・トゥアの幼馴染で部下でもあるハン・ジェバットは、スルタンに抵抗してハン・トゥアに殺された)。

[38]焼畑農民も同様に、隣の焼畑民に同盟できる仲間を多くもっていた。これらの関係は長いあいだの農業生活のなかで形作られた。これもある種の影の共同体であり、必要もしくは有用とあらば、同盟関係を新たに結んで、貿易や政治上の利益が追求された。

[39] Vansina, Oral Tradition as History, 58. イゴー・コピトフによれば、アフリカの「書かれた歴史をもたない社会では、多くの集団が王家の血統を引いていると主張できる……アフリカ人はそれを「奴隷はときどき主人になり、主人もときどき奴隷になる」と表現している」。 Igor Kopytoff, The African Frontier: The Reproduction of Traditional African Societies (Bloomington: Indiana University Press, 1987), 47.

[40] William Cummings, Making Blood White: Historical Transformations in Early Modern Makassar (Honolulu: University of Hawai'i Press, 2002).

[41] Margaret R. Nieke, "Literacy and Power: The Introduction and Use of Writing in Early Historic Scotland." 以下に所収。Gledhill, Bender, and Larsen, State and Society, 237-52.引用は245ページ。