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『レヴィナスと「場所」の倫理』(藤岡俊博 東京大学出版会 2014)

著者:藤岡 俊博[ふじおか・としひろ] (1979-) ヨーロッパ思想史。Emmanuel Lévinas研究。
備考:博士論文(東京大学平成24年4月)
NDC:135.5 フランス・オランダ哲学(20世紀)


レヴィナスと「場所」の倫理 - 東京大学出版会


【目次】
目次 [i-vii]
凡例 [viii-x]


序  レヴィナスの「場所」へ 001


第 I 部 具体性の諸相
第一章 現象学による具体的空間の復権 020
 第一節 「フライブルグ、フッサール現象学」 020
 第二節 フッサールからハイデガーへ 024
 第三節 「マルティン・ハイデガー存在論」 026


第二章 存在への繋縛と存在からの逃走 031
 第一節 「具体的なものの神秘主義」 031
 第二節 存在への繋縛――「ヒトラー主義哲学に関する若干の考察」 034
 第三節 存在からの逃走――「逃走について」 038


第三章 異教とユダヤ教 047
 第一節 異教とユダヤキリスト教的連帯 047
 第二節 選びと狂気 053


第II部 環境世界と根源的場所 
第一章 『実存から実存者へ』の「世界」概念 063
 第一節 道具と趣向性 063
 第二節 糧と欲望 067


第二章 〈ある〉と融即 073
 第一節 〈ある〉――存在者なき存在 073
 第二節 〈ある〉の物質性と内部性の破綻 077
 第三節 〈ある〉と「未開」心性分析――レヴィナスのレヴィ=ブリュール読解 082


第三章 〈ある〉からの脱出――「場所」の所有 095
 第一節 世界内存在の空間性 095
 第二節 根源的場所としての「ここ」 101
 第三節 環境世界の思想圏――ダルデルと現象学的地理学 107


第III部 居住と彷徨 
第一章 存在論批判へ――五〇年代の展開 121
 第一節 存在論の「根源性」批判 121
 第二節 四方域をめぐって 128
 第三節 フッサールの再解釈 134


第二章 居住の倫理――『全体性と無限』 141
 第一節 形而上学的欲望と《同》 141
 第二節 『全体性と無限』の環境世界論(1)――生・享受・身体 148
 第三節 『全体性と無限』の環境世界論(2)――環境・元基・感受性 157
 第四節 『全体性と無限』の環境世界論(3)――家・所有・労働 163


第三章 他性の在り処――《同》から《他》へ 175
 第一節 スプートニクガガーリン 175
 第二節 異教・無神論一神教 184
 第三節 異教に抗して――レヴィナスローゼンツヴァイク 192
 第四節 居住と彷徨――レヴィナスハイデガー解釈の再検討 205


第IV部 非場所の倫理 
第一章 場所論的転回――「場所」から「非場所」へ 222
 第一節 『全体性と無限』直後の歩み 222
 第二節 場所論的転回の概念構成(1)――痕跡 227
 第三節 場所論的転回の概念構成(2)――近さ 237


第二章 『存在するとは別の仕方で』の場所論的読解 247
 第一節 非場所の倫理と「身代わり」の記号論 247
 第二節 他者のために――再帰の「場所」 257
 第三節 呼び声の届く場所――「非場所」的主体性の抽出の試み 265


第三章 「非場所」のさまざまな相貌 281
 第一節 回帰する子午線――レヴィナスツェラン 281
 第二節 詩人の占める場所――レヴィナスとジャベス 295
 第三節 息と雰囲気――レヴィナス精神病理学 303


第V部 レヴィナスイスラエル 
第一章 離散とイスラエルのはざまで 317
 第一節 教育者レヴィナス―― ENIOでの活動 317
 第二節 「場所とユートピア」 327


第二章 困難なシオニズム――六日戦争とそれ以後 343
 第一節 「約された地」か「許された地」か 343
 第二節 ユダヤ教パリ学派と帰還運動 349
 第三節 場所かつ非場所――人間のユートピア 358


結び 「場所」をこえて 373


あとがき [379-382]
注 [38-113]
参考文献 [10-37]
事項索引 [5-9]
主要人名索引 [1-4]





【抜き書き】

21頁

現象の哲学的意義、究極的な意義が獲得されるのは、われわれが現象を意識的な生のなかに、すなわち、われわれの具体的な実存(notre existence concrète)の個別性、分割不可能性のなかに置き直したときである」(レヴィナス)。つまり現象学は、個々の現象を、それが生起する個別的な場面から切り離して抽象的かつ一般的に扱うかわりに、それがわれわれの生のうちで生起する仕方をあるがままに記述することを目指すのである。

35頁

 西洋の思想的伝統において、精神の自由はつねに現実から身を引き離す能力として考えられてきた。人間存在に重くのしかかる「もっとも根深い制限」である歴史に対して最初の「素晴らしき音信」をもたらしたのはユダヤ教であり、ユダヤ教では「悔悛(repentir)」に基づく「赦し(pardon)」によって可能となるような、不可逆的な時間からの人間の解放が構想されていた。「時間はその不可逆性そのものを失う。時間は手負いの獣のようにして、いらだちながらも人間の足元にくずおれる」〔……〕人々の物質的ないし社会的条件がいかなるものであれ、魂はそれとは無関係に、「かつてあったもの、自らをつなぎ止めていたものすべて、自らを巻き込んでいたものすべて」から身を引き離す能力を有しているからだ。


101頁

 「ここでア・プリオリ性とは、用具的存在者のそのつどの環境世界的な出会いにおける、(方面としての)空間の先行性を意味する」(「存在と時間」)。それゆえハイデガーにとって、諸科学が対象とするような三次元によって規定される純粋な空間は、配視的に了解された世界内存在の空間性から派生したものにすぎない。「延長せるもの」としての空間は、環境世界において開かれている空間の欠如的様態であり、環境世界の「非世界化(Entweltlichung)」によってはじめて発見されるものなのである。


302頁。Edmond Jabès。

ジャベスにとって「ユダヤである」とは、自らが空虚の苦悩であることを認めることであり、それは同時に、「ユダヤ性」を通じて「ユダヤ性」をたえず問い直すことによって生じる苦悩を引き受けることでもあるだろう。ジャベスにおいて「ユダヤ的条件」が作家の条件と同じなのは(Le livre des questions)、そのどちらもが、安定を知ることのない「非場所」に身を置きながらこの空虚と格闘することにほかならないからである。いずれにせよ、ジャベスにおける「ユダヤ性」の問いが、「一つの答えの場所ではなく、たえず保持された問いの場所」(Henri Raczymow, ≪Qui est Edmond Jabès≫)であることは間違いない。



182頁

 レヴィナスは定住と彷徨(流謫)とを文明論的な二者択一として考えているのではなく、この二者択一を超えた一切のコンテクストからの解放のうちに人間存在の本質を見て取っている。のちの対談でハイデガーの思想と異教との関係について問われたレヴィナスは、「移住者(émigrant)」とノマドを区別したうえで次のように述べている。

 いずれにせよハイデガーは、風景をなすすべてのものに関して非常に優れた感覚をもっています。風景といっても芸術家の画く風景ではなく、人間がそこに根づく場所のことです。ハイデガーの哲学は、移住してきた者(émigré)の哲学ではありません! これから移住していく者(émigrant)の哲学でもないと言ってよいでしょう。私にとって移住者であることとノマドであることとは違います。ノマド以上に根づいた者はおりません。しかし移住する者は完全な意味で人間なのであって、人間の移住は存在の意味を破壊するのでも解体するわけでもないのです。


257頁

西洋哲学において、意識は、有為転変を経てもなお故郷に帰り着くオデュッセウスのように、「ありとあらゆる冒険を通して、自分自身をふたたび見いだし、我が家に〔自己のうちに〕回帰する」のであり、意識のさまざまな様態は結局のところ自己意識(conscience de soi)、自己同一性(identité)、自立(autonomie)に帰着する。その意味で「ヘーゲルの哲学は、哲学のこの生来のアレルギーの論理的帰結を表している」。

331頁

前代未聞の迫害によって惹起された「ユダヤ教の意識そのものの目覚め」は、古来のユダヤ教の伝統に回帰して諸国民に背を向けることを意味するのではなく、むしろ「ユダヤヒューマニズムという欲求」を呼び覚ましたのだとレヴィナスは言う。「ユダヤヒューマニズム」とは、ユダヤ的条件を通して人間そのものの条件を問う姿勢であると考えてよいが、それは同時に西洋的な「普遍性」をユダヤ教のうちに引き受けることでもある。