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『自由学問都市 大坂――懐徳堂と日本的理性の誕生』(宮川康子 講談社選書メチエ 2002)

著者:宮川 康子[みやがわ・やすこ] (1953-) 日本思想史、文化理論。
NDC:121.5 日本思想(近世)
NDC:372.1 日本教育史・事情


『自由学問都市大坂』(宮川 康子):講談社選書メチエ|講談社BOOK倶楽部


【目次】
目次 [001-003]


はじめに――よみがえる近世大坂の「知」 004
  町人の町大坂
  武士と商人
  世界に対する認識そのものの対立
  町人思想とは何か
  さまざまな世界認識がぶつかりあった時代
  「自由」という言葉の意味
  常に新しいものに開かれていた都市
  懐徳堂というトポス
  日本近代との連関の中で捉えなおす


第一章 町人学問所懐徳堂 017
  「民の学問」の中心池
  懐徳堂の設立
  五井持軒〔ごいじけん〕と三宅石庵〔みやけせきあん〕
  しつけの場から学問の場へ
  官許への道のり
  不協和音
  もはや「商人の道楽」ではない
  「貴賎貧富を論ぜず」
  ただ純粋な人間として
  公開性と公共性
  江戸の学問への批判


第二章 江戸対大坂――知の権威への反抗 037
  徂徠学大流行
  紫雲事件
  卓越者としての強烈な自負
  強烈な磁力
  文は徂徠にはじまる
  徂徠学のインパク
  戦略としての擬古
  徂徠の新しさ
  知の傲慢さへの批判
  道はすべての人に開かれていなければならない
  より開かれた学問へ


第三章 富永仲基――夭逝の天才学者 059
  天才町人学者
  仲基の破門  
  まったく新しい学問
  加上〔かじょう〕の法則の発見
  意識の大転換
  徂徠の手法を逆手にとる
  勝上〔しょうじょう〕と加上
  絶対的なものは存在しない
  三物五類の説
  五類とは何か
  どんな言葉にも特殊な価値を認めない
  言葉は使われることで意味を獲得する
  言語は生きている
  本居宣長と仲基
  今、ここのあたりまえ
  近代日本の二つの源流


第四章 中井履軒と上田秋成――夢と虚構の世界 087
  相似形のメンタリティー
  中井履軒
  反目
  秋成の嘲笑
  共通の知的前提に立つ
  華胥〔かしょ〕国の世界
  すべてを相対化する知性
  現実への冷徹な認識
  時代精神としてのアイロニー
  上田秋成物語論
  秋成対宣長
  秋成の源氏物語
  自由で多様な読みへ
  「田舎者」へのいらだち


第五章 心学と懐徳堂――2つの「かわしまものがたり」 115
  懐徳堂のライバル
  求道者梅岩
  心の教説
  「本心」を知れ
  反知性
  相容れない者同士
  懐徳堂の危険性
  孝子顕彰
  二つの孝子物語
  「文」へのこだわり
  相容れない立場
  町人思想の二つの道すじ


第六章 武士無用論――中井竹山の『草茅危言』 135
  忘れられた経世論
  懐徳堂天皇
  江戸の学者とのちがい
  理性的朝廷論
  懐徳堂の朝廷批判
  天皇をも脱神秘化する
  日本史上の特異点
  武士への批判
  今役に立つ人材にのみ価値がある
  武士無用論
  「まなざし」の変化のあらわれ
  国家という視点
  合理精神
  社会的実践性
  対外認識
  非侵略主義外交論


第七章 近代的知の濫觴――懐徳堂の洋学 161
  大坂洋学の祖
  大坂への出奔
  実地実測の学
  新たな知を受け入れる柔軟性
  華胥国と洋学
  朱子学脱構築
  朱子学からの脱却
  天から人へ
  人間の知への確信


第八章 理性と合理主義――山片蟠桃「夢の代」の世界 177
  自由な学問空間の精華
  懐徳堂諸葛孔明
  実践が知を生みだす
  『夢の代』の成立
  近代的学科〔ディシプリン
  斬新性への自負
  太陽明界説
  三際説
  天理に代わる太陽
  人はすべてを知る可能性を持つ
  地動説の衝撃
  伝統的世界観の動揺
  コペルニクス的転回の条件
  死後の世界はない
  無鬼を語ること
  人情を捨てても
  切断の意識
  鬼神はフィクション
  無鬼の論拠
  不変的な知の確立を目ざす
  宗教から政治へ


おわりに――懐徳堂から適塾へ=「自由学問都市」の終焉 209
  フリーランスの学問
  忍びよる暗雲
  洋学飛躍の背景
  失われた「対話」
  「大阪の知」の可能性


参考文献 [217]
あとがき(二〇〇一年 一ニ月ニ五日 宮川 康子) [218-219]
索引 [220-222]





【抜き書き】
・ルビは亀甲括弧〔 〕に示した。
・引用者による補足はスミ付括弧【 】に示した。


□pp. 141-142

 しかし、このような朝廷への尊崇を、いわゆる「尊皇思想」として、水戸学や国学と同列に論じることはできない。『草茅危言』における竹山の提言は、あくまでも儒家的文治主義の理想から、幕藩体制のなかでのあるべき朝廷の姿を論じるもので、けっして政権奪取をめざした王政復古の方向へと進むものではなかったのである。

   懐徳堂の朝廷批判
 竹山は「王室の事」の冒頭、「太古より八百万代〔やおろずよ〕の末まで、百王不易の沢〔めぐみ〕は、四海万国に超越せさせ給いたる御美事」と書いているが、これが枕詞的な美辞にすぎないことは、その後すぐ、その朝廷がなぜ中葉以来衰微してしまったのかという原因の分析に移っていくのを見ても明らかである。
 竹山によれば、朝廷が衰えたのは、ひとえに「崇神倭仏〔すうじんねいぶつ〕の惑〔まどい〕 」による。「およそ朝廷の重大行事は、ほとんどが祈高や祓いに関することで、天災や凶作、疫病、敵の侵略など、何か変が起こったときには、それ祈橋だ、それ供養だといっては、国庫の金を費やし、あやしげな巫祝〔ふしゅく〕や僧侶を寵愛するばかりであった。このような荒唐無稽なことを信じ、天下の大政要務を少しも顧みないというありさまだったのである。この崇神倭仏の惑が、人民を害したことは、枚挙にいとまがない。これを詳しく論していけば、南山の竹もつきてしまうほどであろう」と竹山はいう。
 このような厳しい批判の言葉を読むとき、彼らのいわゆる尊皇が、天子様に手を合わせるような民衆の朝廷敬慕の心とも、また万世一系イデオロギーを説く尊皇思想からも遠いことがわかるであろう。竹山は仏教におぼれることだけでなく、万世一系の皇統の根拠である神道を崇拝することさえも批判する。いいかえればこれは「無鬼論」(第八章参照)に基づく尊皇なのである。

□□p. 143

 これらの提言【※中井竹山の朝廷改革案】の中には、一代一号や、年号を諡号とすることなど、近代において実現されたことが多く含まれている。その点で、天皇制の近代化の先駆けをなすものともいえるであろう。しかし、同時にここには、幕末の尊皇攘夷明治維新の王政復古の波のなかでまったく見失われてしまったものが含まれている。それはひとことでいえば、天皇の神格化とはまったく逆の、天皇の脱神秘化、脱宗教化という方向である。無鬼論を基盤として、天皇崇神をさえ批判する彼らが、天皇天照大神の子孫とし、ましてや現人神とすることはけっしてなかったのである。

□pp. 144-145 水戸学との対比

いうまでもなく水戸学においては、聖人に対して、「天孫」である天皇が社会の極として立てられるのである。〔……〕
 このような祭政一致的な社会統合論は、明治政府の国民統合の理念のなかにひきつがれている。天皇および朝廷の近代化は、国家神道の強力な整備とともに行われていくことになるのである。
 この点で、はっきりと無鬼論を主張し、朝廷や天皇からも宗教的・呪術的要素をすべて洗い流そうとした懐徳堂の立場は、明治維新以後、現代までを通してみても、きわめて特異なものといっていいだろう。