contents memorandum はてな

目次とメモを置いとく場

『人種とスポーツ――黒人は本当に「速く」「強い」のか』(川島浩平 中公新書 2012)

著者:川島 浩平[かわしま・こうへい] (1961-) 比較文化アメリカ研究。

【目次】
はしがき [i-iii]
目次 [v-x]


序章 黒人と身体能力――生まれつき優れているのか 003
  「黒人」とは
  言葉と概念
  三大スポーツの発展
  ボクシングと陸上
  本書の構成


第I章 「不可視」の時代――南北戦争以後~二〇世紀初頭 015
  南北戦争後の黒人とスポーツ
  アメリカでの近代スポーツ
  医学・科学の偏見
  初の黒人メジャーリーガー ―― M・F・ウォーカー
  史上最強の騎手―― I・B・マーフィー
  近代ボクシングの成立
  ロンドンに渡ったボクサー ―― T・モリノー
  全豪ヘビー級王者―― P・ジャクソン
  初のヘビー級黒人世界チャンプ ―― J・ジョンソン
  黒人ボクサーは「女性的」
  黎明と例外性――肌の「白さ」
  人種分離主義体制の成立


第II章 人種分離主義体制下――二〇世紀初頭~一九二〇年代 051
  近代オリンピックの幕開け
  多元主義優越論と実際の参加者
  当時の白人ヒーローたち
  黒人スポーツの低迷
  変化の兆し
  黒人初の選手・ヘッドコーチ―― F・ポラード
  エリートの家系に生まれて
  P・ロブスン
  「劣等」人種の「優越」選手として
  黒人コミュニティのマイノリティ
  「いかなる白人よりも白人らしい」
  「黒人じゃない。やつは白人だ」
  体育教育の普及
  若年期の経験と選手参入
  職業の制約とスポーツという新しい地平
  身体能力ステレオタイプの前提


第III章 「黒人優越」の起源――身体的ステレオタイプ成立と一九三〇年代 091
  白人至上主義全盛の時代
  「未開人オリンピック」
  北方人種至上主義の主張
  結果を残した北方人種
  転換期――トーランとメトカーフ
  J・オーエンスの登場
  ヘビー級王者J・ルイス
  「勝者/強者の集団」としての黒人の出現
  黒人優越説の萌芽
  「優越」の論理――原始的特徴ゆえの有利
  E・B・ヘンダーソンの主張
  身体運動による同化主義
  ヘンダーソンの黒人身体能力観
  スポーツジャーナリストG・ライス
  野性的であることの意味
  形質人類学者W・M・コッブ
  人種的要因の否定と限界
  共通する三人
  の主張――黒人生得説の肯定
  黒人身体能力ステレオタイプの拡大


第IV章 アメリカンスポーツ界の人種統合――すべてはベースボールから始まった 135
  J・ロビンソンのデビューと衝撃
  「アメリカの夢」の実現
  ロビンソンの資質
  時代の変化――白人の経験と第二次世界大戦
  ロビンソンの影響
  人種統合は実現したか
  ベースボールでの漸次的進展
  バスケットボールと黒人コミュニティ
  黒人プロ巡業チームの驚異的勝率
  黒人初のNBA選手たち
  崩れゆく南部の「紳士協定」
   黒人五人対白人五人の決勝戦
  ラムズからレッドスキンズまで カレッジ
  フットボールでの歩み寄り
  ボクシング、陸上、テニス、ゴルフでの変化


第V章 台頭から優越へ――メダル量産と黒人選手比率の激増 165
  プロバスケットボール界の巨星たち
  カレッジバスケットボールの五輪経験
  「モバイルQB」の時代
  陸上競技でのメダル量産
  ベースボールの再「白人化」
  リングを降りる黒人アスリート
  ゴルフ、テニスの「壁」
  黒人選手比率が意味するもの
  黒人身体能力ステレオタイプの浸透
  東京五輪での『ライフ』誌「人類学的評価」
  J・オルセンと『恥ずべき真実』
  「『黒人は最強』を評価する」の衝撃
  相次ぐ著名人の発言
  黒人アスリートたちの肯定
  スポーツへの執着に警告
  負の遺産の現状
  日本でのステレオタイプの浸透


第VI章 水泳、陸上競技と黒人選手――「黒人」としての特質なのか 199
  「不得意」と「得意」の競技
  黒人は水泳が苦手か――シドニー五輪の記憶
  ジョークと直言
  「だれにだって弱みはある」
  社会学者の指摘――機会の欠如
  歴史学者K・ドーソンの視点
  「主役」が交代した理由
  水泳で活躍した黒人選手
  黒人オリンピアン泳者
  陸上競技での黒人アスリートの優越
  メディアの影響力
  黒人だからなのか――さらなるエスニック集団の精査
  ナンディ出身者はなぜ強いのか
  特定の個人が選ばれる理由
  短距離種目と西アフリカの出自
  陸上王国、ベースボール大国


終章 「強い」というリアリティ――歴史、環境、多様性 231
  歴史的に形成されてきたのか
  あいまいな「黒人」の概念
  「黒人身体能力」というリアリティ
  「黒人」のなかの多様性
  なぜ優れたアスリート集団が現れるのか


あとがき(二〇一二年四月 ロンドン五輪大会での黒人アスリートの活躍を期待しつつ 川島浩平) [243-247]
出典一覧 [249]
参考文献 [25-256]




【図表一覧】

表1 五輪でメダルを獲得したアメリカ黒人選手(1932年、1936年) 088
表2 五輪、初期5大会の国別メダル獲得数 093
表3 アメリカ3大スポーツと黒人選手比率の推移 167
表4 アメリカ黒人陸上選手五輪メダル獲得数(1948〜92年) 172
地図 アフリカにおける世界レベルのアスリート産出指数(1992年) 218
地図 ケニア国内地区別,世界レベルのアスリート産出指数(1991年) 219
地図 ケニア国内地区別,世界レベルのアスリート産出指数(1991年) 220
地図 カリブ海諸国のなかのジャマイカとドミニカ 226
表5 陸上競技世界記録保持者(2002年1月) 214
表6 日本,ジャマイカ,ドミニカ3国間のベースボール/陸上競技実力比較 240





【抜き書き】
□pp. 3-6

   「黒人」とは
 本論に入る前に「黒人の身体能力は生まれつき優れている」という主張を検討するために必要な言葉や概念について考えたい。
 「黒人」とはだれか――。ひとまず英語で「ブラック(black)」と呼ばれる人びとであるとしておこう。
 では英語の「ブラック」とはだれなのか。
 それは、アフリカ大陸のサハラ砂漠以南の地、すなわち「サブサハラ(sub-Sahara)」を出自とする人およびその子孫のことである。
 これらの人びとを「ブラック」と呼ぶ合意〔コンセンサス〕は、英語圏の社会で広く見られるものである。日本語の「黒人」もおおむねこれに準じて使われている。
 「黒人」は「肌が黒い人」の総称として用いられる場合もある。しかし本書は、オーストラリアのアボリジニーや、南アジアの褐色の肌をした人びとを含まない、アフリカ大陸のサブサハラを出自とする人びとに限定した意味で「黒人」を用いる。この用法が一般的に流通しているので、あえてカギ括弧で括らず表記する。
 ここで特に強調しておかなければならないが、このような意味で「黒人」を用いるからといって、「黒人」という人間集団を厳密に定義できるものとして認めているわけではない。むしろ本書は、「黒人」がとてもあいまいな概念であると示すことになる。だがこの言葉が広く一般に流通している以上、この事実を受け止め、サブ サハラを出自とする人びとを「黒人」と呼ぶところから出発する。

□人種カテゴリーの曖昧さ・恣意性

 では、「黒人」はなぜ、あいまいな概念なのか。
 そもそも現代的な意味での「人種」や「黒人」というカテゴリーの起源は、フランソワ・ベルニエ(一六二〇〜八八)からカール・フォン・リンネ(一七〇七〜七八)、ジョルジュ・ビュフォン (一七〇七〜八八)、ヨハン・F・ブルーメンバッハ(一七五二〜一八四〇)へと連なる一七世紀から一九世紀にかけて啓蒙主義時代を生きた西欧の思想家たちが、彼らの世界観のなかで作り上げた分類の単位にある。
 当時の知識人たちが博物学的な知見に基づいて作り上げたこの単位は、いかに多くの見聞や経験に基づいたものであっても、厳密に人類を区分する言葉として正確ではない。「人種」の境界は、現代科学の眼から見ると主観的で恣意的なラインにすぎない。その意味では、いかなる「人種」分類も文化的な作り物にすぎないことになる。ここではこの点をしっかり確認しておこう。

□続いて、本書の鍵概念の「身体能力」について。

   言葉と概念
 「身体能力」とは、スポーツを行う能力のうちの身体に直接関連し、または由来する部分を強調した言葉である。「身体能力」は、「フィジカルな力」とも言い換えられる。概念としては、近年、アメリカ英語で頻繁に使われる「アスレティシズム(athleticism)」にきわめて近い。アスレティシズムは元来、一九世紀のイギリスで「運動競技熱」の意味で用いられ、そののちアメリカで知性に劣ることをはじめ、人種差別的な含みを持った言葉として使われた。
 しかし一九九〇年代頃から、高い運動能力や身体能力を意味する言葉として用いられている。「生まれつき優れている」とは、遺伝的、生理学的、あるいは医学的になんらかの理由によって他人よりも優れた資質や性質を出生前に与えられ、そのため出生後、人生で他人に優る能力や実力を示し、あるいは成果や業績をあげることを意味する。
 「黒人身体能力の生得説」とは、「黒人の身体能力は生まれつき優れている」という主張を支える理論や思想の枠組みの意味で用いる。そしてこのような主張が表現された言説や表象を、社会心理学でいう「ステレオタイプ」を援用して「黒人身体能力ステレオタイプ」と呼んでいく。 
 「アスリート」は、アマチュアかプロフェッショナルかを問わず、運動能力に長け、好んで運動競技やスポーツを実践する人、「運動選手」はアスリートのうち、一定の基準によって選考され、組織を代表して運動競技に参加する人に用いる。
 「アメリカンスポーツ」には狭義、広義二つの意味があるが、本書は両方の意味を区別せずに用いる。狭義には、競技の実施人口と観客および視聴者人口がもっとも多いベースボール、アメリカン・フットボール(以後フットボールのみで表記)、バスケットボールの三大スポーツのことである。広義には、三大スポーツに続く人気を集めるその他の競技を含み、「ア メリカで人気のあるスポーツ」という意味である。
 本書はアメリカンスポーツとして、三大スポーツに加えて、テニス、ゴルフ、ボクシング、陸上、競馬、競輪、そして水泳を取り上げる。いずれも歴史的に、あるいは現在、黒人選手と縁の深い競技である。


□pp. 12-14

◆本書の構成
 〔……〕ステレオタイプや生得説は、二〇世紀になってしばらくしてから生まれるのである。
 本書は、「黒人の身体能力は生まれつき優れている」という主張を、次の二つの立場から再検討することを目的とする。
 第一に、ステレオタイプや生得説は歴史的に形成されてきた。
 第二に、「黒人」と見なされる人びとを運動競技種目で優位に立たせる環境的な要因にも目を向けなければならない。
 第I章から第V章までの歴史的な記述と検討は主にアメリカンスポーツを軸に進め、第VI章で陸上競技と水泳を取り上げる際には視野を広げ、アフリカや、ジャマイカドミニカ共和国などのカリブ海諸国も含めて考察する。

 本書の構成は次の通りである。
 第I章は、南北戦争以後から二〇世紀初頭まで、黒人アスリートが人種差別によって、いかに才能や実力に恵まれていようとも、スポーツ界や社会から黙殺され、事実上「不可視」の状態に置かれていたことを明らかにする。少数のパイオニアは存在したが、その知名度は低く、影響は限られていた。
 第II章は、二〇世紀初頭から一九二〇年代までを扱う。近代オリンピックが開催され、国家間のスポーツ交流が活性化したにもかかわらず、人種分離主義の下におかれた黒人アスリートは、ほとんど機会を与えられることがなかった。しかし次の時代に、黒人アスリートが急増する条件が整備されつつあったことにも焦点を当てる。
 第III章は、一九三〇年代を黒人身体能力ステレオタイプの起源として捉え、このステレオタイプが出現した原因と過程に目を向ける。
 第V章は、第二次世界大戦後に各競技のプロやアマで黒人選手が次々と人種の壁を破り、スポーツ界全体が人種統合に向かう様子を描く。 
 第V章は、一九六〇年代以降黒人アスリートがさらに増加し、スポーツ界で優位に立つ状況と、ステレオタイプが繰り返しメディアで言及され、普及する様子を追う。
 第VI章は、トップアスリートに黒人が少ない水泳と、逆に黒人が集中する陸上競技という両極端のスポーツにスポットを当てる。このような偏りはどのようにして生まれたのだろうか。その歴史的な過程をたどりながら、今後を展望する。


□pp. 180-182

 黒人選手は、陸上競技、ボクシング、ゴルフ、テニスなどでも、競技ごとに異なる関わりを見せ、その関わり方は時代によって変化している。 
 黒人選手とスポーツの関連を歴史的に見ると、競技による選手の参加率の差異と、時代による変化が明らかになる。これは、ステレオタイプの前提となっている黒人選手のスポーツへの関わりと、スポーツでの優劣が、歴史的、文化的に決められるということである。
 「黒人には身体能力がある」と語るとき、スポーツで有利な能力が黒人には先天的に備わっているとの前提に立っている場合が多い。しかし現実は違う。
 スポーツでの有利不利とは、競技が誕生してから今日までの歴史的な過程のなかにある。それは、第一に競技の特徴や規則、第二に競技者個人の素質、才能、精神力および運、第三に指導者と競技者、そしてプレイを観戦し、視聴する一般の人びとによって培われた競技に対する見方、期待、価値観、こうしたものが相互的、総合的に作用するなかで決定されるものである。また、このなかでつくり出されるものが、スポーツの歴史であり文化といえるのではないだろうか。
 近年NFLで取りざたされている黒人QBの登場は、選手のスポーツ参加が歴史と文化によってつくられることを示す好例である。かつてQBというポジションでは、「指導力、統率力がない」「知的能力が足りない」などという経営者や指導者の先入観や固定観念によって、黒人選手が遠ざけられることが少なくなかった。社会学者は、この傾向を「人種によるポジョンの振り分け=スタッキング (stacking)」と呼んで告発した。偏見は「黒人はQBになれない」という不文律を醸成し、黒人の子どもたちの夢や目標を打ち砕いてきた。しかし二一世紀の黒人選手は、「モバイルQB」としてその存在感を高めている。
 けれども、スポーツの複雑で多様な歴史と現実とは裏腹に、黒人身体能力ステレオタイプは、一九三〇年代以降、確実に深く浸透し、今日にいたっているのである。

◆黒人身体能力ステレオタイプの浸透
 黒人アスリートの数、比率的な優位についての解釈として、先天的な能力の存在を指摘する立場が、一九三〇年代に学界やジャーナリズムで積極的に支持されるようになったことは前章で見た通りである。
 この立場の論者は、生物学、遺伝学、生理学、人類学などに依拠して、黒人にはスポーツを実践する上で有利な能力や性質が生まれつき備わっていると主張した。第二次世界大戦後になると、こうした主張は新聞、雑誌、書籍、ラジオ、テレビなどのメディアを通じて、一般の人びとに届くようになり、黒人身体能力ステレオタイプとして、流通していくようになる。