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『マイティ・リーフ――世界たばこ史物語』(J. E. Brooks[著] たばこ総合研究センター[訳] 山愛書院 2001//1952)

原題:The Mighty Leaf: Tabacco Through the Centuries (Little, Brown)
著者:Jerome Edmund Brooks
訳者:たばこ総合研究センター(1972-) 公益財団法人。
装丁:鈴木 堯 + 瀧上 アサ子[タウハウス]
カバー装画:アンドレ・テヴェの La Cosmographie Vniverselle, 1575に掲げられた「喫煙しているブラジル・インディアンとたばこ」(『アレンツ文庫 世界たばこ文献総覧』第1巻,282頁)
出版社:山愛書院(発行)
出版社:星雲社(発売)
NDC:589.8 たばこ



【目次】
まえがき(J. E. B.) [iii-iv]
目次 [v]


I 主としてたばこの来歴――また反アメリカ原産派について 003

II 最初の発見――いくつかの重要な事実問題 010

III 伝道師と交易商人のこと――医師,薬草医といんちき医者 023

IV 新錬金術:煙が黄金に 038

V 伊達男の楽しみと君主の嘆き 050

VI たばこは利益をもたらし,政府は敬意を払う 067

VII 庶民の気晴らしとしてのくしゃみ 096

VIII たばこ産業,成年に達す 118

IX 古い習慣,新しいスタイル――もったいぶったシガーと卑しい噛みたばこ 150

X 機械の時代――そして細く,白き征服者 180

XI 生産の特色――および消費者の特色 219


参考文献 [247-260]
人名索引・事項索引 [261-276]
訳者あとがき(2001年1月31日 たばこ総合研究センター) [277-279]





【抜き書き】


□著者による巻頭言。

    まえがき

  たばこの歴史で興味深く重要と思われるもののうち,なにもかもというわけにはいかないが,最も大事なことはすべて本書にまとめられている.
  それは,人類が煙を吸うという少なからず奇妙な,それでいて広くありふれた事実についての好奇心をそそる歴史であり,また好奇心そのものの歴史でもある.とはいえ,それは喫煙の長い記録の中であまりにもありふれたことであったから,芝居にでもなりそうな多くの興味津々たる,ないし文字通り馬鹿げた事柄,またあまり見られなくなった幾つかのたばこの習慣が,記録保管所に入れられたまま忘れ去られてしまっている.その多くは忘れ去られるべきものではない.すなわち,16世紀から17世紀にかけてアメリカ大陸を探検したヨーロッパ人たちが目撃した原住民の驚くべきたばこの使用についての困惑に満ちた報告;ヨーロッパ人がやたらと喜んで喫煙を取り入れたこと,およびその行儀作法への影響;ヨーロッパとアジアにおけるたばこに対する反対と迫害の始まり;たばこを使った大雑把かつ危険な治療;国庫収支の必然的改善とともに海外植民地維持を可能にした新農業経済の発展;パイプからスナッフへ,シガーへ,またシガレットへといった好みの変遷,およびたばこ産業の大幅な技術的進歩(イノベーション)などである.たばこは,われわれが住んでいる世界の形成において軽視できないものであったし,今でもそうである.
  本書の執筆にあたり,19世紀までのたばこの歴史は,私にとって格別に新しい経験ではなかった.私はアレンツコレクションを基礎とする百科事典的著作の著者兼編集者としてこの主題にかかわるすべての分野を調査した.しかしながら,その学究的記録は1800年以降の一世紀半よりも,むしろそれ以前の時期を多く扱っている.このため私は,本書を書くにあたって,19世紀と現20世紀のたばこについて特に論じた何冊かの優れた著書に助けを求めた.これらの著書の引用については,注もしくはその他の個所で出所を明らかにしてある.しかしここで,さらに私はきわめて価値ある著書――読まれるべき最良の本として,Joseph C. Robert, The Story of Tobacco in America(『アメリカたばこ物語』),特殊な知識分野において輝やかしい寄与をした Nannie May Tilley, The Bright-Tobacco Industry(『黄色たばこ産業』),誰もが信頼すべき知識を得るため頼らざるを得ないであろう W. W. Garner, The Production of Tobacco(『たばこの生産』)から直接受けた助けに対し心からの謝辞を述べておきたい.さらに個人的には,編集にあたりきわめて価値ある賢明な助言を与えてくれた私の兄弟フィリップに感謝の意を表する.


□「訳者あとがき」の末尾(279頁)より、本書翻訳の経緯を記した部分。
 なお、「日本専売公社のラーレイ事務所」とあるが、ノースカロライナ州の州都
Raleighにあった支部のことだと思われる。JT Internationalのアメリカ支部ニュージャージー州ティーネックにある。

  本書は,『アレンツ文庫世界たばこ文献総覧』の翻訳作業を通じて著者プルックスの名に親しみながら,またニューヨーク公共図書館のアレンツ文庫から教示を得ながら,なかなか現物にめぐりあえることのできない幻の書物でもあった.それがたまたま,松本市古書店で埋金禮二郎TASC前事務局長の前に現われた.それもブルックス自筆の献辞と署名の記されているものである.驚喜して購入,直ちに翻訳への発進となった次第である(ついでに言えば,翻訳権の交渉にあたったとき,原出版社リトル・ブラウンに本書の保存版がないことが判明,装幀カバーから本文・索引にいたるまでコピー 一式を送ってあげるということもあった). ブルックスから献呈を受けられた元の所蔵者がどこのどなたか知る由もないが,記して奇遇に感謝するのみである.
  翻訳は,日本専売公社のラーレイ事務所長をつとめ,また「アレンツ文庫」第4巻の監訳を担当された永澤正敏氏を煩わし,TASC の研究員が協力して,本研究センター訳とした.永澤氏のご尽力に深くお礼を申し上げたい.



□本文から。アフリカ・東アジアへの伝来。
pp. 27-28 

  スペインから東アジアへ

  スペイン人は 1575 年以後,フィリッピンでたばこの栽培を始めた,導入された品種は,精力的なポルトガル人がマカオの植民地に導入したブラジルのものではなく,メキシコのN.タバカムであったと思われる.品種の出所がどこであれ,たばこは1700年代初期には喫煙の習慣とともにジャワ,中国,日本および朝鮮にひろがった.しばらく後に,モンゴル,チベット,東シベリアおよびトルキスタンにたばこを伝えたのは中国人であった。
  朝鮮では,たばこをナンパンコイ(Nampankoy)と呼んでいたが,これは
“南蛮”すなわち“南方の蛮族”という意味であって,マカオポルトガル人あるいはフィリッピンのスペイン人を指す言葉からきたものである.外国人と接することのできた中国の地方では,この植物のことをタンパク(tam-ba-ku)と呼んでいた.しかし,これは中国人の霊感を受けた作家による輸入外国語にすぎない.彼らにとって,たばこは“烟の花” “優しい草” “彗い草”であった.これらはすべて親愛を表わす愛称語である.
  アフリカ沿岸の原住民は,彼ら向けにつくられた特製のたばこに取り憑かれてしまった.17 世紀のさまざまな探険家が,黒人たちの“煙への貪欲さ”を記録している。アフリカには主要2品種がともに導入され,沿岸部から内陸部へと急速に拡がっていた.しかし,原住民たちは葉を正しく乾燥することができず,さりとてしようともせず,主にポルトガル人とオランダ人が原住民用につくった製品に依存していた黒人たちのこの新しい鎮静剤となった薬草に対するすさまじい貪欲さは,彼らの多くにとって非常な高値を呼ぶ結果となった.



□薬として注目されたタバコ。
pp. 28-31(※29頁にあるページ全面を占める巨大な図は省略)

  交易商人や船員たちが多くの人々に欠くことのできない社交的習慣として喫煙を勧めている一方,西ヨーロッパではこの植物の気晴らし的使用法に対し強力な反対意見が上がりつつあった.多くの地域の医師仲間は薬草医や経験論者と一緒になって,たばこを,永く探し求め待ちわびていた万能薬としたのである.この信仰は,2世紀半以上にわたって治療上の定説となった.これは,医道としての無知と非合理の勝利の一例である.万能薬としてたばこを推奨するこれら伝道師たちは,ほぼ一団となって,この植物を医療の世界に限定すべしと要求した.たばこの使用を制限し,一致協力して喫煙者から秘蔵のパイプとシガーを奪おうとする騒々しい努力は,長引く闘争にもかかわらず何の役にも立たなかった.万能薬論者たちは極めて不利な立場に追い込まれた.静かに深く潜行し,大いなる楽しみを与える習慣,抵抗を許さぬ勢いのこの習慣を,彼らはまことにいかがわしい論理的説明で阻止しようと試みたのである.


  1560年以前,たばこは西ヨーロッパの植物学者や薬草医らの薬草園で栽培されるようになった,このうちの何人かは,この植物や種子をアメリカから入手するため船員に頼んでいた.1570 年までに、たばこはイングランドでその植物としての形態を知られるようになっていた.
  ヨーロッパにたばこの入った当初数年間は,単に植物学者の好奇心をそそるものとして,控え目な,かつ学問的な対象にすぎなかった.しかし新しい植物として,その医薬としての効果が検討されたことは極めて当然であった.とはいえ1560年頃以前に,病気を治す薬草としてたばこに言及した者は誰もいない,インディアンの風習に関する初期の記録者は,「野蛮人たちは一つには“頭の余分な体液を取り除く”ために煙を吸う」と推測したものの,土着の治療法としてたばこが用いられていることを誰ひとり記録していない.テヴェは,1575 年のその意欲的な著書『全世界地理学誌』で,「野蛮人が病気“特に傷または潰瘍”を治すためにたばこを使うということを証明するのは時間の浪費である」と書いている.しかし彼の意見は,増大する一方の興奮状態の医師,いんちき医者そして盲信的な門外漢の声高な主張の前に敗北してしまった.
  たばこの奇跡的な効力への最初の信仰ともいうべきものは,一つにはそれが生まれた時代が前提となる.すなわち,理性的な人たちが魔女について蘊蓄を傾けて執筆しえた時代,生えている植物体の茎にくっついている野菜の子羊が“ありうると考えられ”,さまざまな人々によって記述された時代[3](前ページの挿絵参照),悪魔払いの祈稿師が医師でもあった時代――科学的探究精神が徐々に発展しながらも迷信が依然として支配していた時代であった.また,当時使われていた薬よりも,もっとよい薬を常に求めてやまないという事情もあった.ヨーロッパは多くの病人を抱えており,万能薬として宣伝されたどんな薬草でもすぐに受け入れる状態にあった.このような環境は,それ自体として新しい風潮ではなかった.


  新しい万能薬が急速かつ熱烈に受け入れられた直接の理由はよく分かっていない。たとえば,たばこはアメリカインディアンが治療植物としてほんとうに使っていると誤解されていた.オビエドは,このような植物について述べているが,それをたばことは呼んでおらず,後世の論評者によって彼がそう述べているとされたのである.たばこを試しに薬草として使ってみて,あるヨーロッパ人植民者の傷や病気が治ったように見えたのかもしれない.たいしたことではないが,明らかに効果的な使用がほかの者たちに真似されたとも思われる.しばらくして,奇跡を起こす薬としてたばこの効果を信用する人たちがだんだんに増えていった.この信仰は,まもなくリスボンとその周辺に拡がっていった.1560 年以前のある時,リスボンにいたポルトガル駐在フランス大使ジャン・ニコ(Jean Nicot)はそこで聞いた,ある重病の治療に対するたばこの効能についての評判に興味をそそられた.自分たちの薬草園でたばこを栽培し,乾かした葉を持っている薬草医が近くにおり,熱心な門外漢たちがこの植物の信じられない効能を声高に言いふらしながら自分たちの治った傷を見せびらかしていた.多少,自己催眠の気があったのであろう.
  この薬草園は悩める人たちの聖地となった.たばこの治癒力へのニコの興味とその薬としての使用を彼が奨励したこととで,たばこに“大使の薬草”そして“ニコチアン”[4]という新しい(しかし一時的な)名称が付けられた.ニコは,1560年に友人のロレーヌの枢機卿である大修道院長に宛てて「素晴らしい治癒力のあるインディアンの薬草を手に入れた」と書いている.さらに悪性潰瘍(noli me tangere; touch me not",一般には癌)を完治させ,また医者が治療不能のひどい壊を排出したと述べ,つづけて皮膚の黒い人々の間では素晴らしい医薬とされていると言う.それで十分な種子が手に入り次第,まるごと1本のたばこを正しい耕作法の手引と一緒に送り届けると述べている.ほかに見本が国王と皇太后に奉呈された.
  パリでは,あらゆる人々,すなわちあらゆる重要人物がこの植物を試し,治療に対する独断的見解をフランス全体で共同推進することが始まった.

[4]ジャン・ニコは,19世紀に化学者たちが,たばこの葉の毒性のある液体アルカロイドを“ニコチン”と命名したことでさらに永遠の認知を得た.
 1573年に出版されたニコの編集による,労作『フランス語-ラテン語辞典』には“Nicotiane" の項があり,この植物の医薬的効能が述べられている.しかし,楽しみとしての使い方についての言及はない.


□どういうわけか葛根湯と化したタバコ。ペスト流行期には学童はタバコを吸わされていたらしい。このエピソードは巷の雑学本でも出回っている。
pp. 31-33

  フランス人ジャン・リエボー(Jean Liébault)の農業に関する著書(1570年),セビリヤのニコラス・モナルデスによる西インド諸島の有用な薬に関する著書 (1571年)の出版は,新しい治療法典の基礎を確立した.この2人のたばこ宣伝者は,確実にたばこで治る疾患と慢性病すべてのリストを掲げている.さらに1587 年,ジル・エヴェラード(Gilles Everard)がこれを補足して豊富なカタログをつくったモナルデスによれば,それは家庭生活の必需品となった福音書であった.
  それ以来,患者が地元の医師やまじない師に診察を頼んだり,往診を受けるとき,どちらかといえば患者が要求し,医師は軟膏,粉末,うがい薬,消毒剤,吐剤,下剤その他の調合剤の形でたばこを処方するのが常となった.腹が張る? たばこの吐剤だ.歯が痛い? たばこの歯磨きだ.腫れ物? たばこの葉をかぶせなさい.咳がひどい? たばこの煙を深く吸い込みなさい.妊娠痛か陣痛? 熱いたばこの葉を臍の上に置きなさい.誇妄状態がつづくなら,たばこの煙を鼻孔に吹き込みなさい.頭痛? たばこの粉を鼻から吸い込みなさい.頭が痛い? 生のたばこの葉を貼りなさい.
  当時,たばこは明らかに偽薬〔プラシーボ〕として使われていたのではなかった.病気はすべて空想上のものではない.“魚の目や壊疽,掻痒や麻痺,口臭や狂犬病,その治療はすべて同じである.4オンスのたばこのジュースを飲めば,酔っ払い,上から出し,下からも出して清め,外用すれば目を清浄にする……パイプで煙を吸えば,感冒,カタル,しゃがれ声,頭,腹,肺,胸の痛みをやわらげる……” と 1599 年にヘンリー・ビューテス(Henry Buttes)は述べている.彼は医師ではなかった.
  薬局方のニコチアンの部の急速な拡大は,多くなったというよりも,ほとんどすべての病気を対象としたことによっている.1610年頃のたばこを使う疾病のリストに,すぐ真に受ける医師が付け加えるものはほとんどなくなってしまった.その年,ある“開業医" が初めて破傷風の治療にたばこを使うことを勧めた本を出版した.(200年以上も後になって,ある開業医は“たばこは安全でも,扱いやすいものでもない”ということを認め,“破傷風の治療にこの方法を用いて1人以上の患者が死んだのを見た”と付け加えている.) 
  もし,16世紀後半の狂信者が宣言したように,肺結核を長く患って衰弱したある紳士がたばこで治癒したとするならば,淋病,癲癇,癌そして熱病の治療に使われたのも不思議ではない.ロンドンのペスト大流行(1664-1666)によって生じた荒廃状態の間,イートン校やその他の学童たちは,その予防のために,毎朝登校する前にパイプたばこを一服せねばならなかった.ピープス(Samuel Pepys)は,疫病の犠牲者が横たわる部屋の扉の恐ろしい十字架を見て“……臭いをかいで不道徳的な考えを思いついた.私はやむをえず臭いを嗅いだり噛んだりするためのロールたばこを買った.それは不安を静めてくれた”と書いている.