著者:門脇 俊介[かどわき・しゅんすけ] (1954-2010) 哲学(Edmund Husserl、Martin Heideggerの研究)。
件名:近代哲学
件名:西洋哲学--歴史--20世紀
NDLC:HD1
NDC:133
【目次】
目次 [1-4]
序論 自然主義と反自然主義との果てしない戦い 001
パスカルの言葉
自然主義と反自然主義
西洋の哲学の歴史
哲学(=反自然主義)の問題の場
反自然主義は神話化する
神話化への哲学的批判
この本に書いてあること
この本を教科書として使う人に
参考文献
第1章 知識はどこに宿るのか 013
(1) 知識は何であるのか、何でないのか 013
知識は実在する物ではない
人間を世界へと開くもの
さまざまな知識
知識とは主体に備わるものである
知識は心の中の鏡像ではない
単なる記憶は知識ではない
(2) 知識は主体の信念に宿る 019
知識の担い手としての表象、という考え方
マクベスの幻影
知識のプロセス
信念・言語・行為
参考文献 026
第2章 ア・プリオリとア・ポステリオリ――知識の二つのあり方 027
(1) 知識の標準的な定理 027
(2) ア・プリオリとア・ポステリオリ 029
二つの判断
感覚的経験に依存する/依存しない、とはどのようなことか
ア・プリオリとア・ポステリオリ
(3) ア・プリオリな知識が成立することをどのように説明すればよいのか 033
プラトニズム
心理主義
規約主義
分析的判断
二十世紀の規約主義
規約主義への批判
参考文献 041
第3章 知識・経験・実在 043
(1) ア・ポステリオリな知識をめぐる問題 043
(2) 実在論と観念論の争い 045
素朴実在論
表象主義的実在論
観念論
科学的実在論
(3) 基礎づけ主義と整合説の争い 050
基礎づけ主義がでてくる理由
基礎づけ主義――二つの条件
基礎信念は不可謬か
認識論的全体論
知識の整合説
整合説の難点
参考文献 061
第4章 知識論の死――外在主義・知識論の自然化 063
(1) 外在主義 063
自然主義の側からの知識論の見直し
正当化の自然主義的な解消
外在主義への批判
(2) 知識論の死――ローティ 068
会話としての正当化
(3) 知の考古学――フーコー 071
参考文献 074
第5章 言語論的転回 077
(1) 言葉を問題にすること 077
(2) 言葉についての近代哲学の考え方――意味の観念説 079
意味の観念説の問題点
(3) 言語論的転回 081
フレーゲの寄与
意味についての「心理主義」の拒否
文脈原理
意味と意義
(4) フッサールの意味論 087
(5) ソシュールにおける記号の体系 088
参考文献 091
第6章 知識と言語 093
(1) 言葉の意味の二つの基盤 093
(2) 前期ウィトゲンシュタインの仕事 095
像の理論
命題と事実をつなぐのは論理的形式
像は単に、生じている事実を写すのではない
真理関数理論
(3) 意味の検証理論 102
意味の検証理論への批判
参考文献 106
第7章 行為と言語 107
(1) 後期ウィトゲンシュタインの仕事 107
言語ゲーム
直示的定義批判
私的言語批判
規則の理解
(2) オースティンの言語行為論 116
言語行為の三つの側面
真・偽の値をとることと言語行為であることのあいだに、必然的な対立はない
参考文献 121
第8章 意味の解体――脱構築の思想へ 123
(1) 「意味」の要請 123
(2) クワインにおける「意味」の解体 125
同義性への懐疑
根底的翻訳
刺激意味――翻訳の第一の手がかり
分析仮説――翻訳の第二の手がかり
(3) デリダによるロゴス中心主義批判 134
ロゴス中心主義は、音声至上主義
テクスト性の解放
参考文献 139
第9章 心身問題 141
(1) 自然主義と反自然主義の争いの根 141
心の現象――志向性と感覚質
(2) 心と身体の二元論 144
古典的な二元論
性質二元論
性質二元論への反論
(3) 同一説 148
同一説への反論
ライプニッツの法則
(4) 機能主義 152
機械とのアナロジー
感覚質の反転――機能主義への反論
参考文献 157
第10章 行為をどのようなものとしてとらえるか 159
(1) 行為とは、われわれの「なしていること」にすぎないか 159
行為は、単なる「物理的出来事」や単に「なしていること」とは違う
(2) 古典的意志理論 162
ライルによる批判
(3) 行為の記述 166
基礎行為
行為はある「記述」のもとでのみ意図的である
参考文献 171
第11章 意図の問題――反因果説と因果説 173
(1) 意志は行為に必要か 173
(2) 行為の反因果説 175
アンスコムの試み
意図的行為は、観察に基づかないで知られる出来事に属す
意図的行為は、「なぜ?」という問いに原因によってではなく、理由をもって答えうる行為である
行為の理由を挙げることは、行為を規則/慣習/評価の文脈のなかに置くこと
行為の理由としての目的
反因果説と因果説
(3) 行為の因果説 180
デイヴィドソンの因果説
行為の原因としての欲求と信念
逸脱した因果連鎖
参考文献 184
第12章 ハイデガーと現代哲学 187
(1) 存在論とハイデガー 187
なぜハイデガーなのか
存在論の三つの問い
ハイデガーの存在論
(2) 世界内存在としての現存在 192
実践的全体論
行為の可能性としての実存
(3) ハイデガーの近代批判 197
西洋近代とは何であったか
存在忘却としての人間中心主義――近代批判
神話への退化か、未完のプロジェクトか――フランクフルト学派における近代
参考文献 203
あとがき(一九九五年十一月二十三日 門脇俊介) [205-208]
事項索引 [210-214]
人名索引 [215-218]
【抜き書き】
・行為の反因果説についての項から(pp. 178-179)。
行為の理由を挙げることは、行為を規則/慣習/評価の文脈のなかに置くこと
将棋を指している人のある行為(身体運動)を説明してみよう。そもそも将棋の規則を知らない人にとっては、将棋を指す人の身体運動は「木片を動かす」くらいの意味しか持たないだろう。その人の身体運動が「王手をかける」ことだという行為の普通の記述でさえ、じつはすでに、ある――将棋というゲームについての――規則への言及を含まざるをえない。さらにこの「王手をかける」ことの理由を挙げて、この行為の説明をしようとすれば、当の行為の背景をなす規則や評価の体系を必ず引き合いにださねばならない。「王手をかける」ことの理由が「ここで王手をかけるのが最善」というものだったとすれば、このように理由を挙げることは、駒の動きについてのルールや王手をかけることが勝敗のポイントであるなどの、規則や評価の体系を引き合いにだしている。
この点で、行為の理由による説明は、行為の原因による説明にはないものを含んでいる。先ほどの「騒音がうるさいから、頭を振っている」例が、原因による説明であったのは、この説明が将棋の例にあったような規則や評価の文脈をまったく欠いているからである。うるさいから頭を振るという出来事のつながりは、反応的でそのような文脈を容れる余地がないのである。それに反して、もし「頭を振る」というふるまいが、つまらない講義に対する抗議の合図としてなされたのであれば、同じ身体運動がまったく違った意味を持ち始め、原因と区別されたその行為の理由を挙げることができるものとして現われてくる。その身体運動が、一定の規則と評価の文脈の内部にいるからである。