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『経済学に何ができるか――文明社会の制度的枠組み』(猪木武徳 中公新書 2012)

著者:猪木 武徳[いのき・たけのり] (1945-) 労働経済学、経済思想、経済史。
NDC:331 経済学.経済思想


経済学に何ができるか|電子書籍|中央公論新社


【目次】
はしがき [i-v]
目次 [vi-x]


序章 制度と政策をめぐる二つの視点 003
  「賢い人」と「弱い人」
  ナイトの洞窟
  理論と政策


  第I部 自由と責任 

第1章 税と国債――ギリシャ危機を通して見る 015
  ギリシャの徴税能力
  日本の国税庁
  脱税の歴史
  課税への反乱
  デモクラシーと国家債務
  ヒュームの議論
  課税と自由の対立


第2章 中央銀行の責任――なぜ「独立性」が重要なのか 033
  金融政策の専門性
  中央銀行の理論的根拠
  パジョットの考え方
  現代への教訓
  独立性と「秘密主義」
  発券銀行はひとつだけか
  ハイエクの貨幣発行自由化論
  理論と実際は別


第3章 インフレーションの不安――貨幣は正確には操作できない 051
  所得と富の強制移転
  インフレが加速するとき
  ハイパーインフレの恐怖
  第二次世界大戦直後のハンガリー
  マネーの定義の難しさ
  ハイエクの警告
  自己実現的期待という罠


  第II部 平等と偶然 

第4章 不確実性と投資――「賭ける」ことの意味 071
  哲人ナイトの貢献
  リスクと不確実性
  不確実性に賭ける
  賭博と人間
  保険の役割と問題
  ブランドの機能
  有限責任という不思議
  「自由か規制か」を超えて
  市民としての株主


第5章 貧困と失業の罠――その発見から現在まで 091
  スラムはなぜ発生するのか
  貧困と格差
  階層の流動性はあるか
  ワーキング・プア
  最低賃金法のディレンマ
  失業問題の発見
  失業保険というアイディア
  完全雇用という政策目標


第6章 なぜ所得格差が問題なのか――人間の満足度の構造 113
  豊富な情報は「やる気」をそぐ?
  憧れと嫉妬
  「客観的」格差と「主観的」満足度
  認識の二重構造
  アダム・スミスの考察
  境遇変化の速度
  富と権力の賛美者たち
  比較と差の過大評価
  能力と相続


第7章 知識は公共財か――学問の自由と知的独占 133
  偶然による発見
  学問の自由の働き
  終身在職権の是非
  言論の自由
  知的独占は社会に益があるか
  知識の共有化と生産性


第8章 消費の外部性――消費者の持つべき倫理を考える 153
  消費の副作用
  流行と美意識
  倫理は習慣である
  曖昧な概念
  消費も価値を創造する
  次世代のために


  第III部 中庸と幸福 

第9章 中間組織の役割――個人でもなく国家でもなく 171
  平等化と結社の関係
  授け合う術を学ぶ装置
  米国における結社
  政治活動より社会貢献
  国家財政への貢献
  結社数の歴史的動向
  中間組織の位置づけ
  中間組織としての企業


第10章 分配の正義と交換の正義――体制をいかにデザインするか 189
  カモノハシのような国家
  アリストテレスの「正義論」
  トマス・アクィナスの整理・スミスからシジウィックへ
  「自由で公正」とは
  補完する原理


第11章 経済的厚生と幸福―― GDPを補完するもの 205
  幸福の追求
  経済的な豊かさの測り方
  効用と福祉
  厚生指標を補完するもの
  経済学の真の力


終章 経済学に何ができるか 221
  順序の大切さ
  経済学の役割
  TPP参加問題
  ユーロ危機
  フェルドシュタインの危惧
  「価値の相克」という倫理的な問題
  では、どう解決するのか


あとがき(二〇一二年盛夏 著者しるす) [239-240]
主要参考文献 [241-248]
人名索引 [249-250]
事項索引 [251-254]




【抜き書き】


■「はしがき」(pp. i-v)から。著者の問題意識・意義を述べる部分。なお、概要や構成は「序章」に記されている。

  その起源をどこまで遡れるかは別にして、われわれの知的遺産としての経済学の価値は一般に評される以上に大きいと筆者は考える。人間研究の学として、人間社会の富の生成と構造、その働きを理解する学問として、あるいは社会制度を点検するときの座標軸を与える知恵として、その価値は決して軽んぜられてはならない。筆者自身が経済学と長く付き合ってきたがゆえに、いわば経済学に「ロック・イン」され、その価値を過大に評価しているのではないかという危惧がないでもない。しかしそろそろ経済学から引退しようとするものは、知的廉直さをもって、その価値を冷静に判断できるのではなかろうか。経済学は無力だ、という皮相な批判が語られる昨今、できるかぎり偏りのない視点で、経済学に依りつつ経済社会の制度や慣行の意味を考える手掛かりになればと思い、本書を執筆することにした。
  経済学はなぜ批判にさらされやすいのか。医学との比較で考えてみよう。生命と健康への関心がひときわ高い現代人の医学への期待は大きい。医学が日常的な関心を集める程度も機会も、一世代前に比べると飛躍的に高まった。現代の医学が、ヒポクラテース以来の伝統的な「医術」という性格を弱め、実験室の「科学」としての専門性を高めたため、医学は門外漢が批評しにくい専門知のハードルを築いたように見える。生命や健康の科学的な知識や技術について、素人は嘴を挟みにくくなったのが現実である。だがその「医学」も、「医術」も、すべての人間の病を治癒できるわけではない。
  それに対して経済学はどうか。経済は物質的な面で人間の社会生活の基盤をなしている。経済活動と無縁な人間は皆無といってもよく、経済の冷徹な原理にさらされていない人間はいない。誰もが経済について、それぞれ異なった実感と意見を持ち、経験と価値観に基づく「一家言」を持っている。したがって、政策論(例えば消費税の議論)となると利益や価値観が対立し、「百家争鳴」の観を呈するようになる。人間の病気同様、経済も治りにくい、重篤な病に襲われることがあるにもかかわらず、「国民経済の病が治らない」と不平は経済学へ向けられる。「完全な治療法」が見つからない大きな理由は、時に政策が、異なった立場の人々の富と所得の分配を左右するからであり、経済活動に参与する人々は同時に「利害関係者」でもあるがゆえに、議論や主張が自己の利害関心から自由になれないからである。
  本書でわたしは、文明社会における様々な制度や現象の背後にある問題について、その歴史を振り返りつつ「議論の本位」を改めて吟味してみたいと考えた。特に、制度の合理的根拠とその存在理由に注目した。〔……〕そうした「改革」論は、「人間は賢明で常に合理的な動物だ」、「政策の意図と結果は必ず一致する」という軽信から出ているものが多い。
  しかし現実には人間が完全な知識を持つ合理的な動物ではないからこそ、「制度」によって人間を縛り、賢明かつ合理的にする、という側面があることを見逃してはならない。〔……〕ひとつの精神が、同時に相矛盾する二つの心情を持ち、その双方を受け入れることができる。そしてなおかつ、その矛盾を受け入れたことを忘れ、忘れたことさえも忘れ去ってしまえるのだ。〔……〕
  こうした「二重思考」(double thinking)から自由でない以上、われわれをなんらかの形で首尾一貫した判断の主体とするような(consistent にするような)規制なり制度が必要になってくる。「昨日の自分」と「今日の自分」が異なった考えや感情を持ちうるからこそ、「移ろいやすい自己」をなんらかの形で縛らなければならない。さもないと、社会は多大なコストと大きな混乱を生み出す可能性がある。つまり社会制度や慣行は「人間研究」を抜きにしては考えられないのである。
  約言すれば、本書の目的は、人々の間における価値の相克と分裂、そしてひとりの人間の内部での価値の相克と分裂、この双方を意識しながら、経済社会の制度や慣行を学び直す材料を提供することにある。経済学は、人間社会の何を、どこまで説明できるのか、人間、あるいは集団としての人間は、いかなる行動をとりがちなのかを改めて考えてみたい。
  とは言え、人間も人間社会も、全体を一挙に把握することはできない。だからこそ、問題や概念を区別し、限定して、差し当た分と思われるものを取り去って理論ができ上がってくる。言い換えると、経済学は、一八世紀英国の哲学者D・ヒュームの言う人間的自然(human nature)のすべてを取り入れず、むしろ取り入れることに禁欲的であったからこそ精密な理論を生み出すことができたのだろう。
  しかしその経済学も理論を云々するだけでなく、現実の問題に発言しなければならない局面がある。その際われわれは、歴史や経験知へ配慮しつつ、理論の使い方の処方箋(政策)を書かねばならない。理論は時には劇薬となりうるため、その適用には慎重でなければならない。制度や体制の成り立ちを振り返りながら、自分の政策的な主張の論理を確かめるという「健全な懐疑主義」は常に保持しなければならないというのが本書の基本メッセージなのである。
  現実のデモクラシーのもとでは、経済政策・社会政策をめぐる最終的な選択は基本的に、立法府に委ねられている。その際、経済学者の専門知と国民の健全なアマチュアリズムの緊張関係をいかに保持するのかが問われる。経済学者の主張には、一般の国民が知る以上の、経済についての知見が多く含まれていることは否定できない。しかしその経済学者の知見や知識といえども完全なものではないのだ。要するに、われわれはすべてを知っているわけではないので、政策提言は常に全き論証(demonstration)ではなく、主張 (assertion)という性格を帯びざるをえなくなる。
  経済制度や慣行を、歴史的な流れの中で捉え直すと、何が見えてくるのか。そうした関心から、これまで筆者が向かい合ってきた経済学の貴重な知的遺産を、経済の歴史的な動きの中で再吟味してみたいと思う。経済学を学ぶときの副読本として、あるいは、困難を極めるデモクラシーのもとでの経済政策論議に歴史的視点を与える読み物として、本書を締いていただければ幸いである。



□pp. 89-90 

   市民としての株主
  日本の株主主権論が米国のそれと異なるのは、両国の「市民社会」の内実の差に根ざすという指摘もある。米国で株主が強いといわれるのは、市民社会の力が強いことの反映であり、資本市場とは市民社会の反映であり、株主とはそうした「市民」を意味しているというのだ。
  最後にこの点に関して、米国市民社会における、「株主主権」の意味を示す例を挙げておこう(J・マクミラン『市場を創る――バザールからネット取引まで』)。
  エイズの特効薬である抗レトロウィルスは、米国の製薬会社によって開発され、特許が取得された。しかしこうした新薬の製造には多額の研究開発の費用が投下されているため、製品化された薬品の価格は通常極めて高価になる。この抗レトロウィルスの場合も、エイズに苦しむ多くのアフリカの貧しい患者の手が届かないほどの高価格であったため、患者数が一番多いアフリカのエイズ患者を直ちに救うことはできなかった。
  こうした実情に対して、タイ、ブラジル、インドなどが特許の原則を破る挙に出た(強制特許実施権発動)。例えば、ブラジル政府は、特許の存在するエイズの特効薬の無許可コピーの製造を国内企業に奨励し、患者に超低価格で提供したのだ。その結果、ブラジルのエイズによる死者数は激減する。
  米国政府は当初、ブラジルに対して貿易制裁を加えるとし、議会も援助を削減すると警告し、WTO世界貿易機関)に不服申し立てを行った。しかし「すべての国に医薬品を」を標榜する国際団体や慈善団体の運動もあり、米国政府は政策方針を転換せざるをえなくなる。特にこの製薬会社の株主たちが、会社が「命より利益を重視している」としてプロテストのキャンペーンを張ったことの影響力は大きかった。結果として、製薬会社はこの訴訟を取り下げざるをえなくなる。
  企業の行動を変えたこうした株主の運動が、ヒューマニズムに根ざすものであったのか、悪い企業イメージが株価に悪影響を及ぼすことを恐れたための行動だったのかは判断できない。おそらくその両方であろう。しかしいずれにしても、「市民としての株主」が企業の行動を掣肘〔せいちゅう〕したという事実に注目すべきであろう。



□pp. 145-149

  知的独占は社会に益があるか
  知識をめぐって近代社会で立ち現れたもうひとつの問題は、知識に所有権があるのかという問いであった。この問いに対して、「アイディアや知識に一定の財産権を与える」と応えるのが特許制度である。特許制度は、発明を公開する代償に、その発明者の独占的な使用権を主権者が認め、その使用の利益を一定期間保護するという制度である。知的財産権を認めることによって、発明を奨励し、産業を振興させるという考えである。ただし知識の使用に「独占権」を与えるため、その知識を自由に(対価なしで)使う場合と比べて社会的余剰を低下させる効果を生む。しかし新しい知識をすべて公開し、ブランドを全く自由に使えるようにしてよいのだろうか。ブランドネームを築き上げるために多額の「投資」をしてきた企業を、突然現れた後発の競争相手が打ち負かすことがある。先発企業が発明やブランドの確立のために投じてきた費用を回収できないとすれば、それは公正さを欠くのではないかという感覚を誰しも持つはずだ。
  歴史的には、特別な技術の発見者に対して、王が特別の権利と特権的処遇を与えるというケースは、西洋中世世界にも存在した。しかし、憲法の枠組みの中で知的財産権が認められたのは、米国や革命後のフランスであった。これらのデモクラシー国家で初めて、憲法に基づいた知的財産権に関する法律が制定されたのだ。一九世紀に入ると、こうした先例をモデルとしつつョーロッパの主要国やブラジル・メキシコも「特許法」を制定した。しかしその後一九世紀半ばごろから、知的財産権を否定する反パテント(anti-patent)運動が起こりはじめる。
  こうした反バテント運動が起こった原因のひとつは、パテントという概念そのものの曖味さにあった。一口に「特許法」といっても、その内実は幾多の難題を抱えるものであった。何をもって新奇(novel)かつ有用(usefull)とするのか。そもそも自然の法則を見つけたこと(つまり「発見」)と発明はどう区別されるのか、既知の技術を新たに結合したものはパテント化できるのか、ほぼ同時に発明がなされたようなケースでは、何をもって「先であった」と判断するのか。発明した時点なのか、出願の時点なのか。どれほどの期間、パテント技術に映占的利益を認めたらよいのか。こうした問題は決着がつきにくい。特許制度は発明を刺激する、という主張についても問題なしとしない〔……〕。
  筆者は、アイディアなり知識の使用が、著作権など法律で守られていることを不合理に感じたことがあった。もう十数年以上も前のこと、一高寮歌の歌詞を紹介しながら日本の旧制高校生のエリート意識について論評したことがあった。あの「栄華の巷〔ちまた〕低く見て」あるいは「濁れる海に漂える我国民を救わんと」などの歌詞がどうも鼻持ちならないと書いた。その原稿が本になる前に、編集者から思いがけない事情を説明された。「あの長さの歌詞の引用には日本音楽著作権協会JASRAC)からの利用許諾が必要です」というのだ。その際、著作物利用料の徴収問題も生まれるといわれて驚いたものだ。楽曲や歌詞の著作者の権利を一定程度保護するということはわかる気もしたが、すでに亡くなった人にとっては「使用されることは名誉」なのに、その権利を第三者が経済的に守るというのはどういうことなのだろうか、という疑念が湧いた。「音楽文化の普及発展に資する」ことに主眼があるのなら、こうした芸術的著作の成果の第三者による仲介業の「独占」は逆効果ではないかと感じたのである。
  無形のもの、特に思索による成果・業績を「知的財産」として認め、その所有権を保護することによって、製作者の経済的利益を守り、知的活動を活発化するという論理はわかる。
  しかしあの一高寮歌「春爛漫の花の色」「嗚呼玉杯に花うけて」を作詞した一高生、矢野勘治に、そのような意識はあったのだろうかという疑問は消えない。JASRACが過去の音楽上の著作物に対して「保護する」というのは、仲介業者による「知的独占」ではないかと。
  知的財産権の中には、芸術・学術上の著作物、実演、CDやDVDなどの複製芸術品、発明、科学的発見、意匠、商標など「人間の創造的活動によって生み出されたもの」が多く含まれる。こうした創造的活動を活発にするための法律が「知的財産基本法」である。一定期間、知的創作物の利用をその創作者のみに排他的(独占的)に認めることによって、模倣者が直ちにその利益に与ることを阻止するのが目的である。さもないと発明や発見を行おうとする意欲が衰退する、というのが通常主張される主な理由なのである。
  こうした論理をなんとなく信じている人は多い。他面、例えばパテントを取得している医薬品が「独占力」で極めて高価になり、その薬剤を必要としている沢山の患者の手に届かない、といった知的独占の弊害もある。第4章で取り上げたように、エイズの特効薬がパテントで保護されたため極めて高価になり、緊急にその特効薬を必要とする貧しいアフリカの患者が買えないという事実は、経済倫理の問題として激しく議論されたことは記憶に新しい。

※パテントの理屈とそれへの反発に関して。日本の高校の教科書にすら(英語長文の題材として)、インドの特殊な特許法と理念についてのエピソードが載っているらしい。





    知識の共有化と生産性
  それにしても、パテントによる独占権がないと、本当に人は発明や発見に励まないのだろうか、アルキメデスピタゴラスも、自らの発見した真理に対して、使用料を請求したい気持ちを持ったのだろうか。この問題に最近明白な理論的解答を与える研究が本としてまとめられた。ミケーレ・ボルドリン、デヴィッド・K・レヴァイン〈反〉知的独占――特許と著作権の経済学』である。著者は、「知的財産権」は、著者や発明者を特権化し、仲介業者に莫大な利益をもたらす「知的独占」だから廃止すべきだと理論的・実証的に説明する。著者たちは、知的財産権がなくても、発明や創作は行われてきたのであり、知的財産権の保護は既得権益者が後発による改良によって追いつかれるのを防ぐために使われることが圧倒的に多く、イノヴェーションの阻害要因になると論じている。少なくとも、過去の著作物の利用を困難にする「知的財産権」は、デジタル情報が安価に流通する現代においては、その根本が見直されるべきだろう。ちなみに同書は著作権を取ってはいるが、著者たちは自分のウェブサイトで全文を無料公開している。多くの場合、こうした無料公開には、かえって本の売り上げを促進させる効果が認められるようだ。


※現在でも、『〈反〉知的独占――特許と著作権の経済学』(原題は Against Intellectual Monopoly)は、こちらの著者のサイトで公開されている。 
Against Intellectual Monopoly