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目次とメモを置いとく場

『THIS IS JAPAN ――英国保育士が見た日本』(ブレイディみかこ 新潮文庫 2020//2016)

著者:ブレイディみかこ  保育士、ライター。
解説:荻上チキ  編集者、評論家。
NDC:302.1 政治・経済・社会・文化事情


ブレイディみかこ 『THIS IS JAPAN―英国保育士が見た日本―』 | 新潮社


【目次】
目次 [003-005]


はじめに 009


第一章 列島の労働者たちよ、目覚めよ 017
  キャバクラとネオリベ、そしてソウギ
  何があっても、どんな目にあわされても「働け! 」
  労働する者のプライド
  フェミニズムと労働
  いまとは違う道はある


第二章 経済にデモクラシーを 061
  経済はダサくて汚いのか
  貧乏人に守りたい平和なんてない
  一億総中流という岩盤のイズム
  草の根のアクティヴィストが育たない国
  ミクロ(地べた)をマクロ(政治)に持ち込め
  いま世界でもっともデモクラシーが必要なのは


第三章 保育園から反緊縮運動をはじめよう 103
  保育士配置基準がヤバすぎる衝撃
  紛れもない緊縮の光景
  日本のアナキーは保育園に
  ブレアの幼児教育改革は経済政策だった
  保育園と労働運動は手に手を取って進む
  新自由主義保育と社会主義保育
  待機児童問題はたぶん英国でもはじまる


第四章 大空に浮かぶクラウド、地にしなるグラスルーツ 153
  日本のデモを見に行く
  交差点に降り立った伊藤野枝
  あれもデモ、これもデモ
  クラウドとグラスルーツの概念
  あうんストリートと山谷のカストロ
  反貧困ネットワークへのくすぶり
  新たなジェネレーションと国際連帯


第五章 貧困の時代とバケツの蓋 203
  川崎の午後の風景
  鵺の鳴く夜のアウトリーチ
  人権はもっと野太い
  あまりにも力なく折れていく
  どん底の手前の人々
  もっと楽になるための人権


エピローグ カトウさんの話 253


あとがき(ブレイディみかこ) [270-275]
解説 (令和元年十一月、荻上チキ) [276-282]





【抜き書き】


◆15頁

 翻ってわが祖国である。
 そこで暮らしている庶民には、ブロークン・ジャパン上等の気構えはあるだろうか。それどころか、ひょっとするとまだ沈んでいる自覚さえないのではないだろうか。
 わたしはそうした疑念を抱いた。
 そしてそのことが20年ぶりに1カ月という長期に渡って日本に滞在し、様々な人々に会って本書を書くうえでの下敷きになった。
 もとよりわたしは地べたの保育士であり、無学な人間なので、何らかの日本の問題点を探り出し、突破口を見つけるなどという大それたことは最初から想定していない。
 ただ日本でわたしが出会った人々や、彼らがわたしに見せてくれたことを記録しておきたいと思った。
 1902年にロンドンのイーストエンドの貧民街に潜入して取材記を書いたジャック・ロンドンは、その著書『どん底の人びと ロンドン1902』を「心と涙」で書いたルポルタージュと呼んだ。2016年2月の東京の取材記である本書はそこまで激烈なルポではないが、「実際に自分の目で目撃したものだけを信用するのだ」という彼の書き手としての姿勢だけはわたしも常に持っておきたいと思う。

◆35頁
(サラ・ガヴロン監督の『Suffragette』を下敷きに)

主人公と同じようにそのことに不満や怒りを感じているはずの女性労働者たちが、「もうこんなことには耐えられない」と立ち上がった主人公になぜか憎悪の視線を向け、いじめる。
 あの上野の仲町通りで目の当たりにした光景も、それに似ていた。
 キャバクラ嬢たちの労働条件の凄まじさを聞いたとき、いったいいつの時代の話なんだと思ったのもあの映画を思い出した理由の一つかもしれない。あの時代の英国の工場でもまた、労働者たちが、運動に参加する労働者を目の敵にしていた。みんな不幸、みんな大変、みんな辛いのだから、この共有の受難の輪を乱すやつは許さないとばかりに一丸となって、状況を改善しようとする者を攻撃する。そもそもの「みんなの不幸」をつくりだし、それを運営している上部には怒りのベクトルが向かわなかったのだ。それは労働者たちが、彼らを取り巻くシステムが変わりうるとは想像もできなかったからだろう。

◆64頁

〔……〕ポデモス、コービン、SNP(スコットランド国民党スコットランド独立を掲げる地域政党)、アイルランドのシン・フェイン(イギリス北アイルランド地域政党)らが連動していると言われるのは、彼らがみんななんとなく左派っぽいことを言うからといった気分的なグルーピングではない。彼らはみな大前提として反緊縮派であり、経済政策を政治改革の柱に掲げる政党だからだ。
 緊縮財政政策とは、ざっくり言ってしまえば財政赤字削減を優先課題にすることであり、財政支出を削減したり、増税したりしてこれを達成しようとすることだ。そうなると政府は公共投資を控え、福祉、住居、医療、教育といった人間が最低限の生活を営むうえで必要な分野への支出を減らし始める。欧州の国々は、緊縮派のメルケル首相率いるドイツ主導のEUの方針でこの財政政策を取ることを求められている。


◆96頁

 つまり、欧州で極右とか極左とか言われているのに成功している陣営は、この「ミクロをマクロに」で成功を収めているのであり、そうした人々がなぜ目立って躍進しているのかというと、それは、あまりにも政治がテクノクラート化しすぎてミクロの部分を知らないばかりか、正しく想像することさえできなくなってしまったからだ。

◆144頁

 ずっと与党が変わらず、「左派が政権を握ったことがない」と言われる日本に、欧州よりもずっと社会主義的な制度が存在し、一般的に社会主義が生み出す弊害と呼ばれるものを産出しながらも壊れずに残っている。欧州の社会のように、世の中が右傾化すれば強い左派が現れてそれに取って代わり、またそれが行き過ぎると右に揺り戻し、というダイナミックな政治の振り子の揺れを経験していない国には、ゴリゴリに資本主義的なものと、驚くほど社会主義的なものが難なく混在しているのだ。

 


◆241頁

富者も貧者も、善人も悪人も、働き者も怠け者も、すべての者が神の似姿であり、それゆえ等しく崇高だという概念が建前上はある。
 しかし日本にはその考え方は根付かなかった。
「日本では権利と義務はセットとして考えられていて、国民は義務を果たしてこそ権利を得るのだということになっています」
 と大西さん【引用者注:大西連、もやい理事長】は言った。つまり、国民は義務を果たすことで権利を買うのであり、アフォード(税金を支払う能力がある)できなければ、権利は要求してはならず、そんなことをする人間は恥知らずだと判断される(このような社会では、国家は様々な権利を国民に販売する小売店ぐらいの役割しか果たさない)。例えば英国では「権利」といえば普通は国民の側にあるものを指し、「義務」は国家が持つものだが、日本ではその両方を持つのは国民で、国家と国民の役割分担がなされていない。



◆解説(279頁)から。

 ヨーロッパでも、一人の子供の死が、その写真という風景が、移民擁護の議論を強化した。日本でも、虐待死の事件が、繰り返し報じられた風景が、児童相談所や保育設の拡充を求める議論へと接続した。彼女が取材対象としている路上では、「年越し派遣村」などの風景の共有が、政権交代を支えるリアリティにもなっていた。風景の共有は、議論の礎となる。
 本書で主に取り上げられるのは労働問題。ブレイディは、個別の現場に足を運び、視点の高さを操りながら語ることで、読者の解像度を上げてくれる。解像度の高い風景を共有することで、「あれ、どう思う?」と問いあう議論が成立する。



【関連記事】
・とりとめがなくなってしまった。


『ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート』(ブレイディみかこ 岩波書店 2016)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20171225/1513955117


  [経済政策 or 日本経済 or 緊縮・反緊縮]

『経済政策論――日本と世界が直面する緒課題』(瀧澤弘和ほか 慶應義塾大学出版会 2016)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20160627/1468839978

『金融政策の「誤解」――“壮大な実験”の成果と限界』(早川英男 慶應義塾大学出版会 2016)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20170709/1498752260

『緊縮策という病――「危険な思想」の歴史』(Mark Blyth[著] 田村勝省[訳] NTT出版 2015//2013)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20190417/1555426800

『図解 ゼロからわかる経済政策』(飯田泰之 角川書店 2014//2010)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20150519/1477393799

『ゼミナール日本経済入門 第25版』(三橋規宏,内田茂男,池田吉日本経済新聞出版社 2012)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20120505/1363771100

『ゾンビ経済学――死に損ないの5つの経済思想』(John Quiggin[著] 山形浩生[訳] 筑摩書房 2012//2010)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20160201/1460521455

『経済成長って何で必要なんだろう?』(芹沢一也,荻上チキ[編] 光文社 2009)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20150725/1495809385

『増補 経済学という教養』(稲葉振一郎 ちくま文庫 2008//2004)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20150503/1473836816



  [日本における貧困・不平等]

『貧困と地域――あいりん地区から見る高齢化と孤立死』(白波瀬達也 中公新書 2017)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20170901/1501854549

『経済学者 日本の最貧困地域に挑む――あいりん改革 3年8カ月の全記録』(鈴木亘 東洋経済新報社 2016)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20170721/1500002351

『ニッポンの貧困――必要なのは「慈善」より「投資」』(中川雅之 日経BP社 2015)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20151225/1539586857

ベーシック・インカム――国家は貧困問題を解決できるか』(原田泰 中公新書 2015)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20150523/1480259761

『子どもの貧困 II ――解決策を考える』(阿部彩 岩波新書 2014)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20140125/1390575600

『脱貧困の経済学』(飯田泰之, 雨宮処凛 ちくま文庫 2012//2009
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20150609/1433775600

『彼女たちの売春――社会からの斥力、出会い系の引力』(荻上チキ 扶桑社 2012)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20121209/1461179900

『子どもの貧困――日本の不公平を考える』(阿部彩 岩波新書 2008)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20130413/1365778800

『反貧困――「すべり台社会」からの脱出』(湯浅誠 岩波新書 2008)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20130905/1504015001

『日本の不平等』(大竹文雄 日本経済新聞社 2005)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/2010/12/25/000000


  [海外の不平等・貧困の研究]

『大不平等――エレファントカーブが予測する未来』(Branko Milanović[著] 立木勝[訳] みすず書房 2017//2016)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20190909/1567954800

『貧困と闘う知――教育、医療、金融、ガバナンス』(Esther Duflo[著] 峯陽一, Koza Aline[訳] みすず書房 2017//2010)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20181117/1541167922

『作られた不平等――日本、中国、アメリカ、そしてヨーロッパ』(Robert Boyer[著] 横田宏樹[編訳] 藤原書店 2016//2014)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20170221/1487070659

『21世紀の不平等』(Anthony B. Atkinson[著] 山形浩生,森本正史[訳] 東洋経済新報社 2015//2014)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20170309/1488771351

『善意で貧困はなくせるのか?――貧乏人の行動経済学』(Dean Karlan, Jacob Appel[著] 清川幸美[訳] みすず書房 2013//2011)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20130617/1539585939

『貧乏人の経済学――もういちど貧困問題を根っこから考える』(Abhijit V. Banerjee, Esther Duflo[著] 山形浩生[訳] みすず書房 2012//2011)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20120509/1462504488

『不平等について――経済学と統計が語る26の話』(Branko Milanovic[著] 村上彩[訳] みすず書房 2012//2010)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20130417/1366124400

『現代奴隷制に終止符を!――いま私たちにできること』(Kevin Bales[著] 大和田英子[訳] 凱風社 2011//2007)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20160711/1469187072

『不平等、貧困と歴史』(J. G. Williamson[著] 安場保吉,水原正亨[訳] ミネルヴァ書房 2003//1991)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20131101/1488506125

『火あぶりにされたサンタクロース』(Claude Lévi-Strauss[著] 中沢新一[訳] 角川書店 2016//1952)

原題:Le Père Noël supplicié
著者:Claude Lévi-Strauss (1908-2009)
訳者:中沢 新一[なかざわ・しんいち] (1950-) 宗教学、人類学。
NDC:389 民族学文化人類学



【目次】
口絵 
新版のための序文(二〇一六年十月) [001-005]
目次 [007]


火あぶりにされたサンタクロース  009
  原注 061
  訳注 062


解説 [071-113]



【関連書籍】
構造主義の冒険』(上野千鶴子 頸草書房 1985)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20170121/1484320891



【抜き書き】

◆pp. 19-20

われわれは、習俗や信仰の領域でおころうとしている、きわめて急激な変化の前兆を前にしているのだ。こうした変化はまずフランスで起こった。しかしいずれ同じことが、他のところでも起こる。民族学者にとっても、これは貴重な機会である。自分の生まれ育った世界のまっただなかで、儀礼をともなったひとつの新しい崇拝がこのような形で突然発生するのを観察できる機会は、めったにない。しかもこの事件は、発生の原因を追究したり、それが他の宗教生活の形態にどんな影響をあたえているのかを研究したり、人々の行動として目に見えるかたちであらわれたもの(これに対する教会の態度は、間違っていなかった。教会はこの種の問題に対しては、昔からそうとうな体験を積んできているので、こうした行動には表面上の意味をあたえておくだけで、その深層の意味に立ち入ることを、巧妙に避けてみせた)が、精神的社会的な総体におこっているどんな変化に結びついているのかを理解する、絶好の機会をあたえいるのである。

◆pp. 24-25

 アメリカから輸入された習俗は、フランス国民の間では、その習俗がどこからやってきたものかを意識していない人々の間にも、すっかり根を下ろすようになっている。例えば労働者たちは、コミュニズムの影響で、「メイド・イン・USA」のマークをつけたものにはなんにでもケチをつけたがる傾向がある。ところがその労働者たちでさえもが、他の人々とまったく同じように、喜びいさんでアメリカの習俗をとりいれているのである。したがってここで問題になっているのは、単純な伝播の現象ではなく、アメリカの人類学者のクローバー(1876-1960)が「刺激伝播」と名づけた、特別な伝播のプロセスだ。輸入された習俗は、そこではすぐに同化されてしまうのではなく、むしろ触媒としての役割を演ずる。つまりある習俗が輸入されるとき、それに隣接している環境の中で、潜在的な状態のまま眠っていたそれとよく似た習俗の出現を引き起こしてくる、というわけだ。これを、私たちが問題にしているケースにあてはめて考えてみよう。ある製紙業者が、アメリカの商売相手に招かれて、あるいは経済使節団の一員としてアメリカを訪れ、そこでクリスマス用の特別な包装紙がつくられているのを見る。製紙業者は、そこからアイディアを頂戴する。こういうのも、まちがいなく伝播の現象である。

◆p. 31

 ようするにこの伝説は、きわめて古い要素をまぜあわせ、攪拌をくりかえし、他の要素を加えあわせた結果としてできあがったもので、ここには、古い習俗を持続させ、変形し、蘇らせるためのまことに斬新な方式がしめされているのだ。言葉の遊びとしてではなく、まさにクリスマスのルネッサンスとでも呼びたいようなこうしたなりゆきの中には、とりたてて目新しいというものはない。それならばどうして、クリスマスは私たちの内にある種の共通の感情をひきおこし、またある人々にはサンタクロースに対する敵意などをよびおこすのだろうか。これはおおいに疑問としていいところだ。

◆pp. 41-42

 ここまでの分析は、純粋に共時的なものだった。私たちは、儀礼の機能とそれを根拠づける神話を、時間軸を介さずに分析したのである。しかし、通時的な分析をしても同じ結論が得られる。宗教史学者や民俗学者の研究は、フランスのサンタクロースである「ペール・ノエル」の遠い起源が、中世の「喜びの司祭」や「サチュルヌス司祭」ないしは「混乱司祭」などにあることを認めている。これらの名前はいずれも、英語の「混乱王(ロード・オブ・ミスルール)」のほとんど直訳である。彼らはいずれも、短いクリスマスの間だけ「王様」となることを認められた者たちで、ローマ時代のサトゥルヌス祭の「偽王」の性格を、正しく受け継いでいる。
 サトゥルヌス祭は「怨霊」の祭りだ。すなわち、暴力によって横死した者たちの霊や、墓もなく放置されたままの死者の霊を祀るもので、その祭りの主催者であるサトゥルヌスの神は、いっぽうではわが子をむさぼり食らう老人として描かれるが、じつはその恐ろしい姿の背後には、それとまったく対照をなすように、子供たちに優しい「クリスマスおじさん」や、子供たちに贈り物をもってくる角の生えた地下界の悪魔である、スカンジナヴィアの「ユルボック」や、死んだ子供たちを蘇らせ山のようなプレゼントでつつんでくれたという聖ニコラウスや、夭折してしまった子供の霊そのものであるカチーナ神などが、しっかりとひかえているのである。

◆p. 44

 私たちはプエブロ・インディアンの例に重要性をあたえてきた。それは、インディアンの制度と私たちの社会の制度との間には、なんらの歴史的関係をみいだすことができず(プエブロ・インディアンのほうは、十七世紀になって、スペインからの遅まきながらの影響を受けはじめたのだが)、そのことによって、クリスマス儀礼の本質を、歴史的な資料だけによりかかるのではなく、まさに社会生活のもっとも普遍的な条件をかたちづくっている思考と行動の形態のほうから検討していくことができるからである。ローマ時代のサトゥルヌス祭と、中世のクリスマス祭との関係を探ってみても、そこに共通する最終的な儀礼形態というものを、発見することはできない。つまり、もうそこからさき分析をおしすすめていっても、儀礼自体が説明不可能で、意味作用を失ってしまうような最終的形態というものは存在しないのである。ところがそのときでも、比較は可能であり、それは、さまざまな地方にさまざまな形態をとって出現する諸制度を奥深いところで律している原理をあきらかにすることができる。
 クリスマス祭のもつ非キリスト教的な側面が、サトゥルヌス祭に似ていることは、さして驚くこともない。教会がキリストの降誕日を、三月や一月ではなく、まさに十二月二十五日に定めたのには、十分な理由があったからだ。教会はあからさまに、それまでの異教の祝祭を、救世主の降誕祭につくりかえてしまおうとしたのだ。

 


 
 以下は、中沢によるフラフラした解説から。

◆◆p. 77

 贈与はいろいろな意味で大きな問題を、フランスの知識人に突きつけていたのだ。この時期に、マルセル・モースのはじめての論文集『社会学と人類学』が刊行されたが、これはまったくタイムリーな企画で、彼の『贈与論』は、『呪術論』『身体論』などとともに、この頃から現代の思想に、大きな影響力をふるいだした。それを受けて、バタイユレヴィ=ストロースが、それぞれに豊かな展開をおこなった。


◆◆p. 79

 こうして、バタイユが『呪われた部分」に結晶していく仕事に打ち込みはじめていた時期、レヴィ=ストロースは別の方向から、『贈与論』のはらむ思想の問題に、取り組んでいた。『親族の基本構造』(1949年)の中で、彼は結婚による女性の移動を富の運動の一形態としてとらえ、そのような運動を可能にするものとして、近親相姦禁止をとらえることによって、結婚をめぐる古くからの人類学上の問題に、まったく新しい解決をもたらそうとした。

 

 
◆◆p. 84

 国家の宗教の地位をかち得たローマのキリスト教が、もともとは夏に生まれたという伝承のあるイエスの生誕日を、なぜこの真冬の季節にもってきたのか、その理由についてははっきりしたことはわからない。しかし、ひとつだけはっきりしていることは、その選定が、キリスト教の世界化のために、大きな貢献をおこなうことになった、という事実である。イエスは、自分が真冬に生まれたという、後世の捏造に同意することによって、キリスト教が大衆の間に受け入れられていく条件を整えたのだ。クリスマス祭を真冬とした決定は、グレゴリオ聖歌の発明にまさるともおとらない、ローマ教会のすぐれた営業感覚の勝利をしめしている。

『議論入門――負けないための5つの技術』(香西秀信 ちくま学芸文庫 2016//1996)

著者:香西 秀信[こうざい・ひでのぶ] (1958-2013) 修辞学、教育学。
カバーデザイン:水戸部 功[みとべ・いさお](1979-) 装幀。
件名:討論法
NDC:375.8 教科別教育 >> 国語科.国語教育
NDC:809.6 言語生活 >> 討論・会議法
備考:原本は『議論の技を学ぶ論法集』明治図書
内容:ディベート用の説得技法を例示し解説する本。大学生レベルの授業を想定しているとのこと。


筑摩書房 議論入門 ─負けないための5つの技術 / 香西 秀信 著


【目次】
目次  [003-005]


序――議論の技を学ぶ 009
注 016


第1章 定義 017
1 最も必要なことだけの定義 018
2 説得的定義――論証的定義 031
3 定義としての名づけ 053
4 反論に関する若干の注意 062
注 071


第2章 類似 077
1 正義原則 078
2 暗示的人格攻撃 085
3 相手の主張を不条理に帰結させる論法 092
4 その他のヴァリエーション 098
5 反論の方法 105
注 118


第3章 譬え 123
1 関係の誇張 124
2 論争の武器としての笑い 136
3 価値の転移による効果 141
4 譬えの脆弱さと反論の方法 144
注 153


第4章 比較 157
1 a fortiori ――より強い理由によって 158
2 勿論解釈とその応用 174
3 反論の可能性――誰にとっての「より」なのか 187
注 197


第5章 因果関係 199
1 これは「論法」か? 200
2 原因による正当化 213
3 結果による正当化 224
4 反論の方法 237
注 248


あとがきにかえて――高専柔道と学問(平成八年五月二八日 香西秀信) [252-255]




【抜き書き】


◆「序」の冒頭より、テーマと問題意識(p. 9)。

[一] 本書は、議論指導に関心のある教師に、指導のための補助資料を提供するという目的のもとに執筆されたものである。
[ニ] 最近、ディベートや討論など、議論領域に属する活動の重要性が指摘され、その実践も盛んになってきている。そのこと自体は大いに結構であり、喜ばしいことであるが、一般的に見てそれらの指導には大きな欠点がある。それは、そこでは議論という活動を体験させることが授業の主たる目的となってしまっていて、議論に勝つための具体的な技はほとんど教えられていないということである。


◆実際的な議論の提案(p. 10)

[三] したがって、議論指導の基礎訓練として、ある事を論じる(論証する)にはどのような方法が可能かということを取り立てて教える必要がある。本書では、まずそれを指導する教師に、基本的な論法についての様々な情報を与えることをねらいとした。



◆本書における(本書だけの)論法の分類(p. 12)

[四] 〔……〕ここで、私が議論指導の出発点として選んだ、基本的な論法の種類を示したい。「定義」・「類似」・「譬え」・「比較」・「因果関係」の五つがそれである。この分類については、何か特別の演繹的根拠があるわけではない。私の一応の専門である古典修辞学での論法分類をもとにして、不要と思われるものは削除し、包含関係にあると考えられるものは一つにまとめて、大体独立していると思われるものを選んだ結果である。論法の名称が奇妙に感じられるかもしれないが、これも古典修辞学での名称をそのまま借用したものだ。なお、この分類はあくまでも整理上の方便にすぎないものであり、選言的(disjunctive)な厳密さを有するものではない。つまり、ある論法の型に所属させた議論が、観点を変えれば、別の型に分類されることもありうるということである。



◆「序」の締めと初出情報(p. 15)。

[六] 断わる必要もないと思うが、この五つの論法で、議論法のすべてが説明できるわけではない。議論は多彩で複雑なものであるから、それに熟達しようと思えば、より多くのことを学ぶ必要がある〔……〕。まずは基本から始めていただきたたい。

本書の第1章から第3章までは、すでに発表された論文にもとづいているので、ここにその初出論文を記しておく。ただし、いずれも大幅に加筆・修正してある。

第1章 ―― 「説得的言論の発想型式に関する研究(2)――類および定義からの議論」、『宇都宮大学教育学部紀要』、39(平成元年2月)第一部、1〜23ページ。

第2章 ―― 「正義原則と類似からの議論」、『日本語と日本文学』、16(平成4年2月)、9〜18ページ。

第3章 ―― 「譬え」による議論の修辞学的分析」、『日本語と日本文学』、13(平成2年10月)、1〜9ページ。

『やさしい日本語――多文化共生社会へ』(庵功雄 岩波新書 2016)

著者:庵 功雄[いおり・いさお] (1967-) 日本語教育、日本語学。
NDC:810.7 日本語 >> 国語教育、日本語教育(対外国人)


やさしい日本語 - 岩波書店


【目次】
まえがき [i-iv]
目次 [v-viii]


第1章 移⺠と⽇本 001
  「移民」「難民」が世界的なニュースに
  日本は移民を受け入れるべきか
  日本は既に外国人抜きでは成り立たない社会になっている
  移民を受け入れるとはどのようなことであるべきか
  「ことば」から考えてみる
  日本における言語的マイノリティーが直面する困難
  「多文化共生社会」に必要なこと
  国際語としての英語、そして、日本語
  本章のまとめ
注 020


第2章 〈やさしい⽇本語〉の誕⽣ 023
  外国人に対する情報提供――対象者は誰か
  英語は共通言語になり得ない
  多言語対応の必要性と問題点
  阪神・淡路大震災の教訓――災害時の情報提供
  災害時から平時へ――〈やさしい日本語〉の誕生
  初期日本語教育の公的保障の対象としての〈やさしい日本語〉
  地域社会の共通言語としての〈やさしい日本語〉
  地域型初級としての〈やさしい日本語〉
  〈やさしい日本語〉の実践例
  NHKの News Web Easy
  公的文書の書き換えと横浜市との協働事業
  居場所作りのための〈やさしい日本語〉
  本章のまとめ
注 061


第3章 〈やさしい⽇本語〉の形 065
  〈やさしい日本語〉が満たすべき条件
  学校型日本語教育と地域型日本語教育
  〈やさしい日本語〉の実相
  日本語文の構造(単文)
  1機能1形式
  本章のまとめ
注 087


第4章 外国にルーツを持つ⼦どもたちと〈やさしい⽇本語〉 093
  「移民の受け入れと外国にルーツを持つ子どもたち
  タックスペイヤーとセーフティーネット
  外国籍の子どもの高校進学率は3割
  日常言語だけでは十分ではない
  バイパスとしての〈やさしい日本語〉
  漢字の問題
  多様性を持つ人材として
  本章のまとめ
注 126


第5章 障害をもつ⼈と〈やさしい⽇本語〉 129
  「普通」のものには名前がない
  だれでも参加できるじゃんけん
  ろう児と日本語
  ろう児にとっての「母語」の習得
  自然言語としての日本手話
  音声がなくても言語は習得できるか?
  第二言語としての書記日本語の習得
  ろう児の日本語教育と〈やさしい日本語〉
  同情を超え、競争できる社会を
  本章のまとめ
注 165


第6章 ⽇本語⺟語話者と〈やさしい⽇本語〉 169
  接触場面と〈やさしい日本語〉
  話しことばの場合
  書きことばの場合
  日本語母語話者に求められる日本語能力とは何か?
  有標なものが隠れた真実をあぶり出す
  有標な存在としての「外国人の日本語」
  日本語表現の鏡としての〈やさしい日本語〉
  本章のまとめ
注 191


第7章 多⽂化共⽣社会に必要なこと 193
  「外国人が増えると犯罪が増える」は本当か?
  〈やさしい日本語〉でできること
  「ヒューマニズム」だけでなく
  「外国人に譲歩する」のではなく
  「機能」から考える
  〈やさしい日本語〉は国語教育の問題である
  〈やさしい日本語〉は日本語教育の問題でもある
  重要なのは「お互いさま」の気持ち
  〈やさしい日本語〉と情報のバリアフリー
  本章のまとめ
注 219


あとがき(2016年8月 庵功雄) [223-225]
参考⽂献 [5-12]
付録 〈やさしい⽇本語〉マニュアル [1-3]



【図表一覧】
表1-1 移民受け入れのメリットとデメリット(一般論) 003
図1-1 2060年までの人工推移の試算 005
図1-2 農業人口の推移 007
図1-3 英語の使用場面 015
表1-2 「ら抜きことば」は日本語の体系的変化の一例 018

図2-1 駅名標識における長音表記 026
図2-2 アイドリングストップ掲示 028
図2-3 緊急交通路の標識 028
表2-1 日本の定住外国人とその公用語 033
図2-4 地域社会の共通言語と〈やさしい日本語〉 042
表2-2 学校型日本語教育と地域型日本語教育 044
図2-5 NHK News Web Easy の記事の例 047

図3-1 文の階層構造(命題の中の述語部分) 077
図3-2 文の階層構造(命題とモダリティ) 077
図3-3 単文の階層構造 077
表3-1 「と」「ば」「たら」使用の地域差 079
表3-2 地域型初級の文法シラバス 082-083

表4-1 中学校教科書における二字熟語 119

図5-1 点字 131
図5-2  148
表5-1 メディアとレベルから見た4技能 150
図5-3  151
図5-4  157

図6-1 地域社会での共通言語と〈やさしい日本語〉 171
図6-2 母語話者におけるジレンマ 179

表7-1 日本人と外国人の犯罪検挙率(2012年) 195




【抜き書き】


◆「まえがき」(p. iv )から。

 日本語教育は、前述のように、日本語を母語としない学習者を対象に日本語の教育を行うものとして発展してきました。したがって、そこで培われてきた知識や教授技術はこうした問題を解決する上で最適のものと言えます。
 さらに、第5章で詳述するように、ろう児にとっても、書記日本語は「母語」ではなく第二言語です。したがって、彼/彼女たちに対する日本語の教育においても、日本語教育のこれまでの知見や教授技術は大いに役に立つのです。
 本書では、筆者が専門とする、日本語学と日本語教育が蓄積してきたさまざまな知見に、筆者たちの研究グループが取り組んできた〈やさしい日本語〉の考え方を取り入れた形で、多文化共生社会実現のために言語(ことば)を通して貢献できる問題について、可能な限り包括的に考えていきたいと思います。


■1章■
◆p. 11

 こうしたことを踏まえて考えると、移民を認めると言うときに重要なのは、外国人を対等な市民として受け入れることであると言えます。言い換えると、移民を認めるとは、移民も、日本人と同様に努力すれば報いられる社会を作ることだということです。本書では、そのことが「多文化共生」の真の意味であると考え、その意味での「多文化共生社会」を作るために何ができるのかを考えていきたいと思います。

◆pp. 16-17

例えば、現代英語には、動詞の活用がほとんどありませんし、ヨーロッパの言語に広く見られる「文法上の性(gender)」もほぼ見られません(文法上の性については、第5章も参照)。また、フランス語やドイツ語、ロシア語などに広く見られるように、親しい間柄かそうでないか(親疎)によって人称の代名詞を使い分けるといったこともありませんが、これらは全て、それまでの英語には存在していたものばかりです。こうしたさまざまな形態論上の変化を捨てたことが英語が、国際語になる上で有利だったと考えられます。[※10]。

[※10] やや余談になりますが、こうした点で、現代英語は、他の言語と比べてかなり「特殊な」ものとなっています。このことを、世界の言語をさまざまな特徴から分析する「類型論(typology)」の代表的な研究者である角田太作氏は「日本語は特殊な言語ではない。しかし、英語は特殊だ」と述べています(角田太作『世界の言語と日本語 改訂版』(くろしお出版 2009)の第9章)。それぞれの言語にはそれぞれの世界の切り取り方があります(例えば、日本語ではスープは「飲む」ものですが、フランス語では「食べる」ものです。また、ヨーロッパの言語では、数えられる名詞は常に単数か複数かを区別しなければなりませんが、日本語を初めとする東アジアの言語ではそうしたことはほとんどありません)。現在、「グローバリズム」とともに、英語への一極集中(「英語帝国主義」と呼ばれることもあります)が進んでいますが、多くの言語を保持することはその言語の使用者の世界観を後世に伝えるという意味でも重要です。こうした観点から、現在、言語学において、消滅の危機にある言語や方言(「危機言語/危機方言」)の保存(アーカイブ化)が進められています。一例として、沖縄の言語に関するこうした取り組みについては田窪行則[編]『琉球列島の言語と文化――その継承と記録』(くろしお出版 2013) を参照してください。




【関連記事】

『街の公共サインを点検する――外国人にはどう見えるか』(本田弘之,岩田一成,倉林秀男 大修館書店 2017)
https://contents-memo.hatenablog.com/entry/20180101/1515154450

『日本語の歴史――青信号はなぜアオなのか』(小松英雄 笠間書院 2001)

著者:小松 英雄[こまつ・ひでお] (1929-2022) 日本語史。
NDC:810.2 日本語 >> 国語史


日本語の歴史 小松 英雄(著) - 笠間書院 | 版元ドットコム


※新装版あり。


【目次】
Contets [i-iii]
はしがき(2001年9月 小松英雄) [001-007]
凡例 [008]


0 イントロダクション――日本語史の知識はどのように役立つか 010
0.0 素人論からの脱却 010
0.1 時間軸上の現代日本語 014
0.2 有用性という視点 016
0.3 変化の予測 019
0.4 安易な予測 022
0.5 日本語史のルツボとしての現代日本語 024
0.6 政治史/文化史/文学史に密着した国語史の限界 026


1 日本語語彙の構成 031
1.0 文字づかいの裏にあるもの 031
1.1 みっつのグループ 032
1.2 活写語 037
1.3 活写語の機能 038
1.4 活写語に残った[p] 042
1.5 活写語の柔軟性 043
1.6 カタカナ語 045
1.7 語彙の変動に連動する変化 048
1.8 複合名詞の語構成 050
1.9 2音節名詞の語構成(1) 052
1.10 2音節名詞の語構成(2) 056
1.11 単音節名詞から多音節名詞へ 057
1.12 単音節語のまま残った名詞 060
 

2 借用語間のバランス 063
2.0 カタカナ語使用の是非 063
2.1 二重言語・日本語 065
2.2 現代語における漢語のジレンマ 067
2.3 古代中国語からの借用 072
2.4 借用語の語形 074
2.5 漢語以前 075
2.6 語音結合則、語源の解明 077
2.7 『源氏物語』の漢語 078
2.8 大徳、消息、博士 081
2.9 類似したふたつの語形の共存 083
2.10 ハカセとハクシ 086
2.11 ビビンバという語形 088
2.12 借用語の語形 091
2.13 漢語の語形 093
2.14 語彙の集団差、個人差 094
2.15 漢文の時代か英語の時代へ 097
2.16 雇用のソーシツ 099
2.17 外来語からカタカナ語へ 102
2.18 漢語の漢字ばなれ 104
2.19 デッドロック 106
2.20 2/2のモデル 108
2.21 ハショリ型、ツギハギ型 110
2.22 ロックする、チェックする 114


3 言語変化を説明する――怪しげな説明から合理的説明へ 118
3.0 言語変化 118
3.1 唇音退化 119
3.2 唇音退化ついての疑問 122
3.3 発音労力の軽減、発音のナマケ 124
3.4 怪しげな説明 126
3.5 専門用語のトリック 129
3.6 母と狒々〔ひひ〕 129
3.7 ファファ、ファワ、ファファ、ハハ 133


4 音便形の形成から廃用まで 139
4.0 俗説を駆逐して真実を探る 139
4.1 音便の枠付け 140
4.2 音便という名称 142
4.3 予備的検討 144
4.4 スラーリング【slurring】が新しい語形を生む 146
4.5 音便形の形成 149
4.6 音便形の機能 151
4.7 音便形の整備 154
4.8 日本語史からみた音便形形成の意義 155
4.9 文体指標の多様化 159
4.10 言語現象を包括的に把握する 162
4.11 オナイドシという語形 165


5 日本語の色名 167
5.0 ふとした疑問から 167
5.1 青信号の色はアオではない? 168
5.2 ふたつの原則 169
5.3 規範と記述 170
5.4 辞書の説明 172
2.5 現代語のアオ 175
5.6 日本語の色名 178
5.7 色名の進化過程 179
5.8 『土佐日記』のアヲ 182
5.9 アヲウナハラ、アヲブチ 183
5.10 ミドリ 187
5.11 ミドリコ 190
5.12 海のミドリ、空のミドリ 191
5.13 現代日本語の色名 192
5.14 キからキイロへ 195
5.15 形容詞キーロイの形成 199
5.16 チャイロ、チャイロイなど 200
5.17 紺青 202


6 書記テクストと対話する 210
6.0 書記テクストの声に耳を傾ける 210
6.1 クレノアヰ 213
6.2 国語辞典、古語辞典の説明 215
6.3 カラアヰ、クレノアヰ、クレナヰ 216
6.4 クレナヰとクレノアヰ 220
6.5 書記テクストの取り扱い 223
6.6 証明の手順 226
6.7 語形の縮約と語構成の透明度 229
6.8 カラクレナヰ 231


7 係り結びの機能 235
7.0 掛かり結びを古典文法から救い出す 235
7.1 センテンスを中断する 236
7.2 係助詞ゾの機能 239
7.3 係助詞ナムの機能 242
7.4 ディスコースにおける係助詞ゾ、ナムの機能 245
7.5 係助詞コソの機能 248


索引 [253-256]






【抜き書き】


◆ 「4.2 音便という名称」より、国語学宣長の関係についての余談(pp. 142-143)。

 「発音の便宜」という説明には、つぎのようなウラがある。
 本居宣長は、『漢字三音考』で、「皇国ノ音声」のすばらしさを、つぎのように賛美している。

 〔……〕

 音の数が50では濁音が余る計算になるが、つぎのような理屈でツジツマを合わせている。その認識を支えているのは五十音図である。


○ 弱音ハタダ清音ノ変ニシテ。モトヨリ別ナル音ニハ非ル故ニ。皇国ノ正音ニハ。是ヲ別ニハ立テズ。[皇国ノ正音]


 「凡テ濁ハ其中下ニノミアリ」[皇国ノ正音]と記されているから、活写語は無視されている。
 日本語の音は純粋正雅であったが、中国語からの借用語が浸透してくると、卑しい外国音に汚染されて、日本語の音がおかしくなり、その結果、音便を生じるようになったというのが彼の見解である。
 国学者として当然ながら、コチコチの国粋主義である。現今の国語学国粋主義の色彩は希薄であろうが、こういう考えに貫かれた国学者の研究を忠実に継承していることは歴然たる事実である。本居宣長は現行の国文法の祖にあたる。




◆ 「6.0 書記テクストの声に耳を傾ける」より、抜粋についての著者の考えが表れた一節。(p. 211)。

 ここで告白すれば、このような人目を書く過程で、いちばん気が咎めるのは、用例を引用することである。叙述の流れのなかから一部分だけを切り取ったら赤い血がほとばしる。和歌なら短いから血が出ないだろうというわけにはいかない。丹念に編纂された歌集のなかで、個々の和歌は流れのなかに位置づけられているからである。詞書を切り離すことは許されないし、固有名詞はともかく、男性の作か女性の作かは、解釈を大きく左右する場合がある。特に「恋」の部の「詠み人知らず」は、しばしば作者の性別を隠す手段になっている[『古典和歌解読』]。たとえば、和歌の用例に基づいてアラヤギの意味を解明するのに十ページぐらいは必要なのに、数行で済ませなければならないので(→5.10)、和歌はなるべく引用したくない。用例を引用するのは必要悪だと筆者はあきらめている。そういう制約のなかで、文脈が把握できる最小限を切り取ったものであるから、用例のトバシ読みをしないでいただきたい。